私の殺した男

Broken Lullaby
1932年,アメリカ,77分
監督:エルンスト・ルビッチ
原作:モーリス・ロスタン
脚本:サムソン・ラファエルソン、エルネスト・ヴァイダ
撮影:ヴィクター・ミルナー
音楽:W・フランク・ハーリング
出演:フィリップ・ホームズ、ライオネル・バリモア、ナンシー・キャロル、ルシアン・リトルフィールド

 第一次大戦終戦から一年後のパリ。その式典に参加した青年ポールは戦争中に殺したドイツ兵のことがどうしても頭から離れず、協会で神父に告白する。「任務を果たした」といって神父になだめられたポールは逆に悩みを増し、そのドイツ兵ウォルターの故郷を訪ねることにした…
 脂の乗り切ったルビッチが映画を量産した20年代から30年代前半の時期の作品のひとつ。多くのフィルモグラフィーの中に埋もれているとはいえ、そこはルビッチ、堅実にいい作品を作る。

 このころルビッチはおよそ年2本のペースで映画を作っていた。代表作とされる作品(「天使」や「ニノチカ」や「生きるべきか死ぬべきか」)が撮られるのはもう少し後のことだが、この時期にも「モンテ・カルロ」や「極楽特急」といった名作も生まれている。
 というまわりくどい説明で言いたいことは、確かに面白い堅実な作品を作ってはいるけれど、完成度から言えばもう一歩という作品も混じってしまっているということ。この作品はドラマとしては非常に面白いし、画面が持っている緊張感もすばらしい。たとえば、ポールが始めてウォルターの家に行き、ウォルターの遺族3人に囲まれる場面、パンしながら3人の顔を一人ずつ映していくカメラの動きは、ポールの緊張感を如実に伝える。それ以外にも、さまざまなところに張り詰めた緊張感を漂わせる「間」がある。
 そういったすばらしいところがたくさんあり、ラストまでその緊張感を保つのはとてもいいのだけれど、ルビッチであるからあえて言わせてもらえば、稚拙さも目に付く。特に目に付くのはトラヴェリングの多用で、冒頭からかなりの頻度でトラヴェリング(つまり移動撮影)、特にトラック・アップ(つまりカメラを被写体に近づけていくこと)が多用される。的確なところで使われれば劇的な効果を生むはずのものだが、繰り返し使われるとなんとなく作り物じみて、物語世界から遠のいてしまう感じがする。
 とはいえ、やっぱり見所もたくさんあります。町の人たちが窓からポールとエルザを覗くシーンのスピード感とか、さりげないところに味がある。やっぱり見てよかったなとは思います。

生きるべきか死ぬべきか

To be or Not to be
1942年,アメリカ,99分
監督:エルンスト・ルビッチ
脚本:エドウィン・ジャスタス・メイヤー
撮影:ルドルフ・マテ
音楽:ウェルナー・ハイマン
出演:キャロル・ロンハード、ジャック・ベニー、ロバート・スタック、ライオネル・アトウィル

 第二次大戦前夜のワルシャワ、街にヒトラーが現れた。それは実は、ヒトラーとナチスを描いた舞台を上映しようとしていた劇団の俳優だったが、ナチスによってその公演は中止に、そして戦争がはじまる…
 エルンスト・ルビッチが大戦中にナチスをおちょくるような映画を撮った。なんといってもプロットのつなぎ方が素晴らしい。コメディといってしまうのはもったい最高のコメディ映画。

 まず、出来事があって、その謎を解く。ひとつのプロットの進め方としてはオーソドックスなものではあるけれど、それを2つの芝居と戦争というものを巧みに絡めることで非常にスピーディーで展開力のある物語にする。そんな魅力的な前半から後半は一気に先へ先へと物語が突き進む先の見えない物語へと変わる。そのストーリー展開はまさに圧巻。
 そしてこれが大戦中にとられたということに驚く。当時のハリウッドにはそれほどの勢いがあった。ヒトラーが何ぼのもんじゃ!という感じ。しかし、一応コメディという形をとることで、少々表現を和らげたのかもしれない。ストレートに「打倒ヒトラー!」というよりは、やわらかい。しかしその実は逆に辛辣。戦争が終わり、ナチスを批判する映画はたくさん作られ、歯に衣着せぬ言葉が吐き出され、数々の俳優がヒトラーを演じたけれど、この作品とチャップリンの「独裁者」とをみていると、どれもかすんで見えてくる。「シンドラーのリスト」はヒトラーを直接的に描かないで成功したけれども、そこにはどう描こうとも決して越えられない2つの映画が存在していたのではないか?
 そんなことを考えながら、60年前の名作を見ていました。やっぱルビッチってすごいな。ちなみに、主演のキャロル・ロンハードはこの作品が最後の出演となっています。きれいなひとだ…

青髭八人目の妻

Bluebeard’s Eighth Wife
1938年,アメリカ,80分
監督:エルンスト・ルビッチ
原作:アルフレッド・サヴォアール
脚本:チャールズ・ブラケット、ビリー・ワイルダー
撮影:レオ・トーヴァ-
音楽:ウェルナー・リヒャルト・ハイマン
出演:クローデット・コルベール、ゲイリー・クーパー、デヴィッド・ニーヴン

 フランスのリヴィエラでパジャマの上着だけを買い求めようとする男。しかし店員に断られ一悶着。そこに現れた令嬢が自分はパジャマの下だけ欲しいと言い出した。よく眠れないという男に令嬢は「チェコスロバキア」を逆からいえばよく寝れると教え、男は令嬢に惚れたらしい。しかし、やはり眠れなかった男はホテルで部屋を変えてもらおうとし、案内された部屋には侯爵という男が居座っていた。しかしその男は昨日令嬢が買ったパジャマのズボンをはいていた。  ルビッチが当時まだ若かったブラケットとワイルダーを脚本家に起用。とにかくすごいスピードで映画が進み、細かい描写は一切省略。今見てどれくらい笑えるかは好みの問題ですが、軽いネタとシニカルな笑いを織り交ぜるところはなかなか巧妙。

 今みると、あまり笑えるネタはないですが、デパートの社長がパジャマのズボンを穿いていなかったりという単純なネタは時代を超えて笑えるものらしい。前半はそんな軽い感じのネタをルビッチのスピードで押し切る感じ、後半はなんだか話も停滞、笑いもシニカルになっていき、なんとなくワイルダー味が出てくる感じ。  ルビッチの作品群の中で特に傑作というわけではないですが、ルビッチらしい作品のひとつだし、ビリー・ワイルダーと組んだというのも話題のひとつにはなるでしょう。ワイルダーは当時まだ30台の前半で監督をやる前、この後「ニノチカ」でもルビッチ・ブラケットと組んでいます。ブラケットは脚本家・プロデューサーとして有名な人で、このあともビリー・ワイルダーとコンビを組み、「サンセット大通り」などで製作・脚本を担当しています。映画史的にいえば、そんな人たちがはじめてであった作品なわけですね。そういうさめた見方をすることも出来ます。

百萬圓貰ったら

If I Had a Million
1932年,アメリカ,88分
監督:H・ブルース・ハンバーストン、エルンスト・ルビッチ、ノーマン・Z・マクロード、スティーヴン・ロバーツ、ノーマン・タウログ、ジェームズ・クルーズ、ウィリアム・サイター、ルイス・D・レイトン
原作:ロバート・D・アンドリュース
脚本:イザベル・ボーン、クロード・ビニヨン、ウィットニー・ボルトン、マルコム・スチュアート・ボイラン、ジョン・ブライト、シドニー・ブキャナン、レスター・コール、ボイス・デ・ガウ、ウォルター・デレオン、オリヴァー・H・P・ギャレット、ハーヴェイ・ハリス・ゲイツ、H・ブルース・ハンバーストン、グローヴァー・ジョーンズ、エルンスト・ルビッチ、ロートン・マッコール、ジョセフ・L・マンキウィック、シートン・ミラー、ロバート・スパークス、ティファニー・セイヤー
出演:ゲイリー・クーパー、ジョージ・ライト、チャールズ・ロートン、メアリー・ボーランド、フランシス・ディー、ジャック・オーキー

 大企業家のジョン・グリデンは医者に余命幾ばくもないと言われていた。彼の周りにはそんな彼の遺産を狙う親戚がうようよ、社員たちも頼りにならない間抜けばかり。そこでグリデンは自分の財産を身も知らない他人に分け与えることに決めた。その選定は、住所録から無秩序に選び、それぞれに100万ドルをあげるというものだった。
 100万ドルを手にした人々の短い物語がオムニバス形式で続くコメディ。いわゆるルビッチらしい「スクリューボール・コメディ」ではないが、非常にテンポよく話が次々と展開されているので小気味よい見ごこち。話もいわゆるコメディから少しほろりとさせるものまで多岐にわたり楽しめる。

 ルビッチと言うと「スクリューボール・コメディ」(スクリューボール・コメディは1930年代にハリウッドではやったコメディで、男女男という恋愛関係を描いたもの。ルビッチはその最大の作家で数多くの傑作を生んでいる。特に婚約している男女の間に一人の男が割って入ってひと悶着という展開が多いため、「ルビッチの映画で婚約しているということはつまり別れるということだ」とまで言われた)。
 しかし、この作品はまったく違う。オムニバスという形式がどういういきさつでとられたのかわからないが、当時のハリウッドのいきさつを考えると、おそらく会社の企画にルビッチがかり出されてというのが妥当なところだろう。このオムニバスの中で、ルビッチがどの部分の脚本を書き、どの部分を監督したのかはわからないが(調べればわかるのかもしれない)、どれもなかなか面白い。
 他の監督では、ハンバーストンが後に「十人のならず者」などを撮って有名になったほか、タウログはジェリー・ルイスの底抜けシリーズのいくつかをはじめとして数多くのコメディを撮っているし、それぞれの監督がトーキー初期のコメディの巨匠ばかりであるのだ。 
 うーん、そうなのか。と自分で納得してしまいましたが、やはり1930年代はハリウッドの黄金期。ちょっと探せば面白いものがざくざく出てくるのだと実感しました。

モンテ・カルロ

Monte Carlo
1930年,アメリカ,90分
監督:エルンスト・ルビッチ
脚本:アーネスト・バイダ
撮影:ヴィクター・ミルナー
音楽:フランク・ハーリング、レオ・ロビン、リチャード・ウィティング
出演:ジャネット・マクドナルド、ジャック・ブキャナン、ザス・ピッツ、クロード・アリスター

 公爵と女伯爵との結婚式、女伯爵ヴェラは伯爵から逃げ出し、メイド一人を連れて電車に飛び乗った。ヴェラが行き先に決めたのはモンテ・カルロ。ほとんどお金がない彼女はカジノで稼ごうと考えたのだった。そんな彼女に一目ぼれした伯爵フェリエールは何とか彼女に近づこうとするが、彼女は彼をはねつける。思案した彼は、美容師に化けて彼女に近づくことに決めた。
 ルビッチが、トーキー初期に撮ったミュージカルコメディ。最初からしばらく音楽のみでセリフがないので、サイレント映画かと思ったくらい、サイレント期のスタイルがそのまま残っている。
 いわゆるミュージカルなので、突然歌い出したりするのが気になるが、歌も軽妙でかなり楽しい。

 とことん軽い。軽快なテンポと明るい雰囲気。一生懸命見るよりは、なんとなく流しているのがいい。そういう映画。それでもなんとなく見ると幸せになる。そういう映画。映画史的にどうだとか、ミュージカル映画ってのは不自然でいやだとか、いろいろ理屈をこねたり、文句をつけたりすることも可能だろうけれど、そういうことをすることがまったくばかげたことに思えてくるような映画。映画なんて楽しければいい。映画に音がついた頃の人々はそう考えていたんだろうか?
 この映画がトーキー初期であるのは、汽車を映す時に、車輪のアップがあったり、時計の時報を表現するのに、からくり人形を映したりするあたりから伺える。音を表現するために考案された映像法から抜け出せないと言ったところだろう。しかし、そのことが映画にとってマイナスにはなっていないので、別にかまわないだろう。
 個人的には、公爵のくせのあるしゃべり方がなんとも心引かれた。出てくるだけでなんとなく面白い。そんな人物を登場させることができたのもトーキーのおかげ。ルビッチはそのトーキーの利点をいち早く活用したという点ではやはりすごいと言っていいのだろう。

天使

Angel 
1937年,アメリカ,91分
監督:エルンスト・ルビッチ
脚本:サムソン・ラファエルソン
撮影:チャールズ・ラング
音楽:フレドリック・ホレンダー
出演:マレーネ・ディートリッヒ、ハーバード・マーシャル、メルヴィン・ダグラス、エドワード・エヴァレット・ホートン

 ホルトン氏は友人に紹介してやってきた、パリの亡命ロシア大公妃のサロンで出会った英国人の美しい女と夕食をともにし、恋に落ちる。しかし女は彼の申し出の返事を引き延ばし、男の元から去って行く。
 ハリウッド黄金期の巨匠エルンスト・ルビッチが名女優マリーネ・ディートリッヒを迎えて撮り上げたシャレた恋愛映画。今から見ればスノッブな感じが鼻につくが、「階級」というものが今より色濃く残っていた社会では映画とはこのようなものであってよかったのだろう。
 全体的にシャレた雰囲気でクラッシクというわりには気軽に見られる作品。

 映画史的なことはよくわからないのですが、この映画で非常に多用されている切り返しというのはこのころに開発された技法なのでしょうかね?「画期的なものをどんどん使おう」と言う感じで使っているように見えますが。まあ、技術的なことはいいとして、この映画で使われている「相手の肩越しから覗きこむ画」の切り返しというのはなかなか柔らかくていいですね。最近、切り返しが使われる場合真正面から捉えた画をつなぐ場合が多いのですが(恐らく互いの視線を意識した画だと思いますが)、私としてはそのやり方はどうも今ひとつ落ち着きが悪いんですよ。なんとなく映画の中にポツリと放り込まれてしまう気がして、それよりは、肩越しとか、斜めからとかの画で、なんとなく傍観者としていられるほうがいい。映画のジャンルにもよりますが、恋愛映画では特にそう思います。
 映画的なこともそうですが、クラッシックな映画を見ると、時間的なギャップに気づいていつも感心することがあります。たとえば今回の映画では、音楽的なことに頭が行きました(「二人の銀座」の影響もあるかもしれない)。「この頃って、まだジャズですらメジャーカルチャーじゃなかったんだな」とか、そこから「若者の文化ってものもまだまだ出てこないんだな」とか。
 なかなか古い映画というのは見る機会もないし、見ようとも思わないものですが、「巨匠」と呼ばれる人の作品はやはり、多少色褪せることはあっても、映画として十分見る価値のあるものなのだと感じました。