愛の世紀

Eloge de L’Amourohn
2001年,フランス,98分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:クリストフ・ポロック、ジュリアン・ハーシュ
出演:ブルーノ・ピュッリュ、セシル・カンプ、クロード・ベニョール

 パリ、エドガーはある企画をもっている。出会い、セックス、別れ、再開という愛における4つの瞬間を若者、大人、老人という3組のカップルについて描くというもの。果たしてその出演者たちを探し始めたエドガーは役にぴったりの女性に以前であっていたことを思い出す。
 ゴダールはあくまでゴダールである。美しいけれど理解できない。すべてを理解することはできないけれど、何かが引っかかる。それがゴダールでいることはわかっている。

ゴダールはアインシュタインなのかもしれない。ゴダールを全く理解できるのはゴダール自身と世界中にあと幾人かしかいないのかもしれない。それでもゴダールがすごいと思えるのが天才たるゆえん。アインシュタインの相対性理論も理解できないけれどそれが何かすごいことを説明していることはわかる。ゴダールの映画も理解できないけれど、それが何か新しい表現であることはわかる。こじつけていろいろと理解してみることはできるけれど、その理解は全きゴダールとはおそらく異なっているだろう。しかし、相対性理論と同じく、ゴダールも一部分を利用しただけでも新しいものが生まれるのかもしれない。
 断片化されたこの映画を見ながら、そのそれぞれの断片が何かを含んでいることはわかる。前半のモノクロの鮮明なフィルムの映像と、後半のカラーの濁ったビデオの映像。その違いが表現しているのはフィルムの優越だろうか?あるいは質の違いが必ずしも価値の違いを生みはしないということだろうか?実際その結論はどちらでもいいのだろう。映像をとどめるためにはフィルムとビデオがあり、その質には違いがあるということ。そこまでをゴダールは明らかにし、それを併用することによって表現できることもあるということを示してはいるけれど、その先は…
 「愛について」という言葉と「さまざまな事柄」という言葉のどちらが先に出るのか、その順番を変えることにどんな意味があるのか? それもまたわからない。
 私はこの映画でゴダールがこだわっているのは「言葉」だと思った。冒頭の「映画、舞台、小説、オペラのどれを選ぶ?」という質問の答えは「小説」だった。それは小説という言葉による芸術。つまり「言葉」の象徴。ゴダールはこの映画で言葉を多用しながら、それと決してシンクロすることのない映像の断片を重ねていく。それは「言葉」への反抗、映像を使った新しい文法、新たな世紀の文法であるかのようだ。アインシュタインが相対性理論を発明したように、ゴダールは映画という新たな文法を発明したが、われわれは従来どおりの文法でそれを見るから理解できない。それは仕方のないことだ。「何度も繰り返し眺めていれば、ある日ふっとわかるかもしれない」という頼りない望みを抱きながら、私はゴダールを見続けるのだろう。

女は女である

Une Femme est Une Femme
1961年,フランス=イタリア,84分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
原案:ジュネヴィエーヴ・クリュニ
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
音楽:ミシェル・ルグラン
出演:ジャン=ポール・ベルモンド、アンナ・カリーナ、ジャン=クロード・ブリアリ、マリー・デュボワ

 ストリッパーのアンジェラは子供が欲しい。しかし、同性相手のアルフレッドはあまり乗り気ではない。そこで彼女は、いつも言い寄ってくる友だちのエミールを使って彼の気を変えさせようとするのだが…若き日のゴダールが取った、喜劇になりきれなかったシュールな喜劇。劇中で喜劇なのか悲劇なのかと繰り返し問われるように、喜劇のような顔をしていながらその実一体難なのかはわからない不思議な作品。個人的にはこのシュールな笑いのセンスはありです。

 冒頭のシーンのアンナカリーナの持つ赤い傘。くすんだ色調の画面にパッと映える赤い傘はまぎれもないゴダールの色調である。だからこの映画もゴダールらしい文字やサウンドを多用した天才的な構造物であるのかと予想するが、始まってみるとコメディ色を前面に打ち出したオペラ風というかミュージカル風の作品。オペラ調は後半に行くに連れ薄れていくものの、全体にコメディ映画であると主張するようなシュールなギャグがちりばめられる。このセンスのシュールさがやはりゴダールなのか。このセンスは個人的にはすごく好き。目玉焼きなんかは最高にヒットしたのでした(俺はおかしい?)。
 ゴダールの映画はどれもシンプルなのだけれど、この映画はことさらにシンプル。多くのゴダールの映画はシンプルでありながら、ひとつひとつはシンプルである要素を重ね合わせて複雑にはしないけれど理解を難しくする。シンプルなのだけれどそこに盛り込まれた要素が多すぎていっぺんにすべてを理解することは難しくなる。しかしシンプルであるがために、頭を抱えることにはならず、凡人の理解力では追いつけない映画的なものの奔流に身を任せることが心地よい。いわば、単色のレイヤーを重ね合わせることで、一つの芸術的な絵を作り上げているような感じ。
 しかし、この映画の場合は、そのレイヤーの数が抑えられているので、理解することができる。時折、不可解な場面に遭遇するものの大部分は理解することができる。これは一方ではちょっと物足りなさを感じるけれど、何かゴダールの映画作りのエッセンスを垣間見たような気にもなれる。ようは、こんな映画を3本くらいくっつけて、しかし長さは同じ90分で作ったのがいつもの映画なんじゃないかと乱暴な言い方をしてしまえば思える。面白いんだけどよくわからないゴダールがちょっと分かった気になれる一本という感じでした。

はなればなれに

Bande a Part
1964年,フランス,96分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
原作:ドロレス・ヒッチェンズ
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
音楽:ミシェル・ルグラン
出演:アンナ・カリーナ、サミー・フレイ、クロード・ブラッスール、ルイーザ・コルペイン

 フランツとアルチュールは車で一軒の家を見にいく。それはフランツが英会話学校で一緒のオディールの叔母の家で、そこに出入りしている男が相当の額の現金を隠し持っているらしい。その後英会話学校に向かった二人はオディールも巻き込んでその現金を盗み出す計画を立てる。
 白黒・スタンダードの画面に3人の若者の組み合わせはジャームッシュを思わせる。もちろん、ジャームッシュが影響を受けたということですが。

 「気狂いピエロ」とはうって変わって白黒・スタンダード、初期のゴダールらしい作品。またこの作品では絶対的な第三者が語り手として存在するのも特徴である。この語りは非常に効果的で、ほとんどが3人の関係性で紡がれていく物語にアクセントを加える。特に3人がカフェで過ごす一連のシーンは絶品。「一分間黙っていよう」というところから、踊るシーンまでの語りと音楽・サウンドの使い方は「うまいねぇ」と嘆息するしかないのです。
 またも天才ゴダールの計り知れなさということになってしまいますが、ここのシーンを見ただけで、並みの監督では想像もできないような作り方ということがわかります。踊りのシーンではいきなり音楽を切って語りを入れるのですが、踊っている音(足音や手拍子)はそのまま使われる。その音楽が「ぷつっ」と切れるタイミングの絶妙さはどうにも説明のしようがありません。
 ゴダールは音の面でもかなり革新的なのですが、この作品もそれを如実に表すものです。今ある映画のかなりのものがゴダールの音の使い方を剽窃(といったら語弊がありますが)しているともいえる。それでもこの踊りのシーンはほかのどんな映画でも見たことがない。「これはやはりまねできないんだろう」と私は解釈しました。

気狂いピエロ

Pierrot le Fou
1965年,フランス,109分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
原作:ライオネル・ホワイト
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
音楽:アントワーヌ・デュアメル
出演:ジャン=ポール・ベルモンド、アンナ・カリーナ、グラツィエラ・ガルヴァーニ、サミュエル・フラー

 ジュリアンが妻とパーティに参加する間、友人のフランクの姪が子供たちの面倒を見てくれるという、フランクに姪がいたかといぶかしがる彼だったが、現れた学生風の女性に子供たちを任せてパーティへ向かった。しかし、ジュリアンはパーティを中座し先に帰宅する。実はその姪という女性はジュリアンの元恋人だった。
 天才ゴダールの作品の中でも最も知名度が高いといえる作品。ゴダールらしさを維持しつつも単純なサスペンスとしても楽しめる(と思う)作品。

 ゴダールは初期の作品では白黒の画面にこだわり、カラーの映画は撮ろうとはしなかった。しかし「」で一転、カラーへの取り組みを始めると、カラー作品でもつぎつぎと名作を生み出す。しかも、激しい色使いでほかの映画との違いを見せつけながら。中でもこの「気狂いピエロ」と「中国女」は色使いに抜群の冴えを見せる。「中国女」では徹底的に赤が意識的に使われるのに対して、この映画で使われるのはトリコロール。赤と青と白のコントラストを執拗なまでに使う。マリアンヌと兄(?)の船に掲げられているトリコロールの国旗をみるまでもなく、繰り返し移される青い空と白い雲を考えるまでもなく、その3色のコントラストが頭にこびりつく。
 青い空と白い雲といえば、この映画で多用されるがシーン終わりの風景へのパン。つまり、人物が登場するシーンの終わりに空舞台の(人がいない)風景へとカメラが動く。これが何を意味するのかは天才ゴダールにしかわからないことかもしれないが、単純に感じるのは「いい間」を作るということ。単純にシーンとシーンをつないでいくタイミングとは異なったタイミングを作り出すことができるのではないだろうか? しかも、一ヶ所だけそのパン終わりを裏切るところがあります。人物から風景にパンして終わりかと思ったらまた人が映る。
 となると、このシーンをやりたかったがために繰り返しパン終わりをやったのかとも思えるのです。そこはゴダール、はかり知れません。気づかなかった人は今度見たときに探してください。私もその構成に初めて気づいたので、もしかしたら一ヶ所じゃないかもしれない。
 ゴダールをやるたびに理解できなさをその天才のせいにしてしまうのですが、本当に心からそう思います。

男性・女性

Masculin Feminin
1965年,フランス=スウェーデン,104分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
原作:ギイ・ド・モーパッサン
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ウィリー・クラン
音楽:フランシス・レイ
出演:ジャン=ピエール・レオ、シャルタン・ゴヤ、マルレーヌ・ジョベール、ブリジット・バルドー

 ポールとマドレーヌはカフェで出会う。マドレーヌは友達のエリザベートと同居しながら、歌手になろうとしていた。ポールは兵役から帰ってきて雑誌社に職を見つけた。ポールはマドレーヌを盛んに口説こうとするがマドレーヌはなかなかそれに応じない。
 ポールとマドレーヌとの恋愛を中心に、60年代の若者たちを描いた作品。ゴダールはモーパッサンの短編『ポールの妻』と『微笑』に触発されてこの作品を撮ったらしい。

 一見素直な作品だが、非常に奇妙というか不思議な作品。恋愛とその友人たちとの関係といった部分はとてもわかりやすいが、それ以外の部分がかなり不思議。そして、その周縁の部分こそがゴダールが描きたかったもののような気がする。とにかくやたらと人が死ぬ。しかし死ぬ場面自体は出てこない。ガソリンを体に浴びて焼身自殺したり、いきなりナイフで自分を刺したり、何ナノこれは?  とどうしても思ってしまう。
 そして、『中国女』と共通する社会主義への関心、ポールのやっている「世論調査」なるもの。などなど、謎は山積み。
 しかし、ポールの友人のロベールが労働運動とマルクス主義に傾倒しているところはなんとなく「中国女」の雛形という感じがする。主人公のグループが5人というのも共通しているし、歌が印象的に使われているというのもあるし…
 といってみたものの、ちっとも分析にはなっていません。なんとなくの感じを書いてみただけです。やっぱりゴダールってのは入りやすくて、見ているとその世界にすっと入り込めて、でもその意味は一向にわからないという感じの作家であることを再確認するにとどまったというところでしょうか。

中国女

La Chinoise
1967年,フランス,103分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
音楽:クロード・シャンヌ
出演:アンヌ・ヴィアゼムスキー、ジャン=ピエール・レオ、ジュリエット・ベルト、フランシス・シャンソン、ミシェル・セメニアコ、レクス・デ・ブロイン

 毛沢東主義(マオイズム)をテーマにしたゴダール流革命映画。
 相変わらず、人物や場面の設定が明らかにならないまま映画は進行して行くが、とりあえずわかるのは、毛沢東主義を信奉している5人の若者が共同生活をし、それを映画として記録しているということ。しかしこれが映画の映画なのか、どこまでが現実なのか、それはわからないまま映画は進む。
 マルクス主義・共産主義・フランスの政治に詳しくないと意味のわからない用語がたくさん出てくるので、あまりに知らないと苦しいが、マルクス主義思想なんかを少々かじっていればなんとなく意味はわかるはず(それは私)。
 しかし、そこはゴダール。もちろん思想面を伝えることが第一義なのだろうが、ゴダール映画らしい映像感覚とサウンドは相変わらず素晴らしい。とにかく見てみて、うんうんうなずくもよし、わけがわからんと投げ出すもよし、ゴダール的世界を味わうもよし。

 とにかく、設定がわからないのだけれど、「何なんだこれは?」と眉間に皺を寄せながら最後まで見きってしまった。という感じ。最後まで見れば、なんとなく設定はわかるのだけれど、映画の撮影クルーの位置付けがなかなかわからない。おそらく、ゴダールたち自身でもあり、劇中人物でもあるという微妙な立場にいるのだろうとおもうが、果たしてどうか。
 毛沢東主義との兼ね合いもあり、難解と言われがちなこの映画ですが、見てみると意外と見やすい。わけがわからないと言えばわけがわからないのだけれど、ゴダールの映画は見始める時点ですべてを理解しようなどという構えは捨ててしまっているので、理解できなくてもそれは心地よいわからなさと言ってしまえるような感覚。(負け惜しみではないよ)
 最近、ゴダールの映画を見て思うのは、こういう天才的な感性を持つ人の映画は理解するのではなく、流し込むのだってこと。頭を空っぽにして感性そのものを流し込む。そうすると、1時間半の間は自分も天才になったような気になる。そんな感覚で見るゴダール。いいですよなかなか。

 ここまでが1回目のレビュー。今回ある程度、展開を把握してみたところ、実のところ彼らの若者らしい先走り感が映画の全編にあふれており、映画を撮っている男達はそれを冷淡に見つめているという関係性があるような気がしてきました。彼らの革命ごっこが一体どうなるのかをみつめている感じなのか… そこまではなんとなく理解しましたが、それだけ。
 あとは細部に気を引かれ、映像の構図の美しさはやはりゴダールならでは。壁際にひとりが立ってクロースアップでインタビューを受ける場面はそれぞれが違う色調で描かれており、その対比が美しい。

右側に気をつけろ

Soigne ta Droite
1987年,フランス,81分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:カロリーヌ・シャンプティエ
音楽:リタ・ミツコ
出演:ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・ペリエ、ジャック・ヴィルレ、ジェーン・バーキン

 殿下と呼ばれる映画監督と白痴の男、スタジオでレコーディングをするミュージシャンこの3つの物語が、断片として描かれて行く、非常に詩的な映画。
 ジャン=リュック・ゴダールその人が演じる「殿下」はフィルムの缶を持って「地上にひとつの場を」求めて歩き回る。
 といってみたものの、この映画にストーリーは不必要だ。挿入される空のカットや、自然や人を眺め、それを味わうことがこの映画を見るときに必要なことのすべてだ。おそらくドストエフスキーの「白痴」をモチーフにしたと考えられるこの作品は世界(地上)の無垢な美しさを求める物語なのだろう。

 理解しようとすると、かなり難しい。しかし、理解することを止めればそれなりに味わうことはできる。映画のはじめから「白痴」という言葉が表れ、ゴダール演じる男が「伯爵」と呼ばれるところから、ドストエフスキーの「白痴」がイメージされるが、さらにそのゴダール演じる伯爵は常に「白痴」を読んでいる。したがって、映画を見る側としては、この伯爵を「白痴」の主人公であるムイシュキン伯爵(公爵だったけ?)と重ね合わせてみることになる(少なくとも私は)。
 しかし、そうするともうひとりの白痴らしい男との関連性が見えなくなってくるし、レコーディングをしているしている二人との関係性もわからない。
 私の力及ばずというところでしょうか?
 そこで、理解することをあきらめただただ眺めていれば、その音(必ずしも音楽とは限らず数限りないノイズも含む)と画のコンポジションはまさにゴダールの世界で、あるいはこれこそがゴダールの世界なのだと感じられはするけれど、それは、抽象絵画を見るように曖昧な感情しか呼び覚まさない。なんとなくすごいし、なんとなく見入ってしまうんだけれど、それがいったい何なのかわからない世界、この映画にあったのはそんな世界。

カルメンという名の女

Prenom Carmen
1983年,フランス=スイス,85分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
原作:プロスペル・メリメ
脚本:アンヌ=マリー・ミエヴィル
撮影:ラウール・クタール
出演:マルーシュカ・デートメルス、ジャック・ボナフェ、ミリアム・ルーセル、クリストフ・オーデン、ジャン=リュック・ゴダール

 ビゼーの歌劇『カルメン』をゴダール流に映像化したものらしい。
 最初の2つのシーンは、精神病院と室内楽の練習風景。精神病院にはゴダールがいて、室内楽の練習風景でははっとするほど美しい少女がヴィオラを弾いている。最初この2つの場面がほぼ交互に展開されて行くが、精神病院にはゴダールの姪カルメンが訪ねて来て、ゴダールの別荘を使わせてくれと頼む。室内楽の練習は終わり、少女(クレール)は兄と思いを寄せているらしい兄の友人(ジョー)と車に乗る。カルメンは仲間と銀行強盗をする。そこには警官のジョーが居合わせる。
 ストーリーがどうこうより、その映像と音とで見せる作品。全編ゆったりとしたペースで進み、後には美しさのみが残る。

 これを「難解」といってしまってはいけない。これは至極単純な映画だ。理解することは難しいけれど、理解しようとしてはいけない。説明を求めてはいけない。「いずれ説明してあげるわ」とカルメンは繰り返す。しかし、決してその説明がされることはない。ゴダールも我々に何も説明しようとしない。登場人物たちの考えていることも、行動の理由も、それぞれの場面が意味していることも。ただひたすら美しいものが並べられたフィルム。すべてが作りものじみていて、しかしすべてが美しい。あまりにすべてが美しいので、我々は逆にその単調さに弛緩してしまう。眠りにも似た心地よさに。美しいクレールの顔、美しい波打ち際、美しいランプシェード、美しい空。しかし、時折、その単調な美しさを凌ぐはっとする瞬間がある。月明かりに照らされたカルメンの横顔、モップで拭われる床の血。
 ただ一人現実的な時に囚われているジョーのように考えることはあきらめて、我々は美しさの奔流に身を任せればいい。逆行で影になった男女のシルエットの美しさに、浴室のタイルに押し付けられるカルメンの裸体の美しさに、カフェの鏡に映ったゴダールに付き添う女性の佇まいの美しさに、見とれていればいい。

アルファヴィル

Alphaville
1965年,フランス=イタリア,100分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
音楽:ポール・ミスラキ
出演:エディ・コンスタンティーヌ、アンナ・カリーナ、ラズロ・サボ、エイキム・タミロフ

 「外部の国」からアルファヴィルへとやってきた新聞記者のジョンソン。ホテルに着くなり、接客係が売春婦まがいのことをするなど、そこは全く奇妙な街だった。実はスパイである彼はフォン・ブラウン教授なる人物を探し、アルファビルを自滅させるという任務を帯びていた。その娘と仲良くなったジョンソン(偽名)は徐々にアルファビルの内実に迫っていく…
 すべてがコンピュータに管理される都市アルファヴィル。そこでは言葉が統制され、人間的感情を規制されていた。簡単に言ってしまえばSF映画のパロディということになるのだろうけれど、そこはゴダール。単なるパロディにはしない。言葉をめぐる哲学的な冒険。それがこの映画のテーマかもしれない。

 メタファー。この映画を見終わったときに最初に浮かんだ言葉はそれだった。いったい何が何のメタファーなのか? サイエンスを欠いたSFはいったい何をたとえているのか?
 SFのパロディという形態はアルファヴィルが車で来られる「外部の国」であるというところにある。つまり、銀河系とか、いろいろなSFっぽい言葉を使っているけれど、それが果たして我々の言っている「銀河」という概念と同じなのかは言っていない。「銀河」というのが我々の言っている「国」程度の意味しか持たず、「外部の国」というのが、地球を意味しているのではなく、隣りの国を意味しているにすぎないとしたら…
 未来という現在のメタファー。
 宇宙という地球のメタファー。
 コンピュータという人間のメタファー。
 言葉はいったい何のメタファーなのか? 最後にナターシャが「愛している」という言葉を口にすることによって救われるのはいかにも鼻白いが、この鼻白さが意味するのは私もまたアルファ60によって感情を殺されてしまっているということなのか?

 と前回書いたものの、とりあえず私は全くもってこの映画の何たるカを理解していなかったということは確かだ。いまも理解しているわけではないが、ゴダールが投げかけてきた謎のいくつかは少なくともたどることができる。
 それはまあそれとして、「銀河」が重要であることは間違いない(私の直感はある程度は正しかった?)。この映画の「銀河」とは全くもって言葉(用語法)の問題である。アルファビルは砂漠の中に作られた小都市。設定上はアメリカのどこかである。アルファ60はそのアルファビルを「国」と呼び、それ以外を「銀河」と呼ぶ。星間を結ぶ高速道路を通ってやってきたジョンソン(レミー・コーション)は「外の国の人」である。そのようにして、概念に対する言葉を置き換えることがアルファ60の中心的な働きである。そして、そのようにして言葉を置き換えていくこと、そのことによってすべてを論理整合的に、合理的にするということが目的になるわけだ。しかし、その目的が結局のところどのような結果につながるのかは明らかにされない。結局は人間によって操作されるコンピュータであるアルファ60が都市を支配しているということは、それを操作する人間の意図がその支配の方法に影響を及ぼしているはずなのだが、その操作する人間であるフォン・ブラウン教授(ノスフェラトゥ)の意図は全く見えてこない。
 言葉と合理化を端的に象徴しているのが「元気です ありがとう」という言葉である。人が出会ってすぐ口にするこの言葉は「こんにちは、お元気ですか?」「ありがとう、元気です、あなたは?」「元気です、ありがとう」の最初の2つの会話を端折ったものであると考えられる。これは会話の合理化であり、言葉に新たな意味を持たせる行為でもある。アルファ60はこのようにさまざまな言葉の意味をすり替えていき、住民をコントロールしていく。 

 アルファ60のほうの謎は映画の中でジョンソン(レミー・コーション)が解き明かしている。私はそのことに今回気づいたわけで、それはそれでいいとしよう。言葉という点に注目すればアルファビルとアルファ60がどのようなものであるかはわかる。
 わからないのはそれを作り上げ、コントロールするフォン・ブラウン教授の存在である。この謎は私には解けなかったのだが、とりあえず言葉に大きな意味を持たせている(言霊ではないが、言葉には意味があり、それが何かを変えたりする)ことからして、登場人物の本名と偽名のそれぞれにも意味があるのではないかと思った。
 まず、フォン・ブラウン教授の本名であるらしいノスフェラトゥとは言うまでもなく古典的に吸血鬼を意味する(映画史的にも『吸血鬼ノスフェラトゥ』という古典がある)。つまり、この本名が映画の終盤で明らかにされるとき、彼の吸血鬼性が暴かれたということになる。偽名のほうのフォン・ブラウンはナチス・ドイツの著名なロケット学者で戦後はアメリカでロケット開発に参加した科学者をさすと思われる。したがって、このキャラクターは科学者の仮面を被った吸血鬼という意味づけがなされているわけだ。
 これに対してレミー・コーションのほうはエディ・コンスタンティーヌが『そこを動くな!』以来演じてきた映画のキャラクター(FBI捜査官)である。テレビ・シリーズにもなったらしいので、フランス人にしてみればおなじみの顔ということになるのだろう。偽名のほうの意味はわからないがこれはゴダールの一種の遊びであると思う。
 つまり、重要なのはフォン・ブラウンのほうということになるのだが、結局のところ科学者の仮面を被った吸血鬼という隠喩的な意味以上のことは私にはわからなかった。
 かなり飛躍して考えを展開していくならば、言葉を奪うということは血を吸うように人間から生命を奪ってしまうことなのだ、とゴダールは言いたいのかもしれない。ゴダールは非常に言葉に意識的な作家であり、言葉を非常に重要視するから、言葉をこの映画のテーマのひとつとした時点でそのようなメッセージをこめようと考えた(あるいは自然とこもってしまった)と考えても不自然ではない。もうひとつ重要なものと考えられていると思われる「愛」とあわせて、ゴダールが重要視するふたつのテーマがこの映画でもテーマとなっていると考えれば、少しは(私の)気持ちもすっきりする。

パッション

Passion 
1982年,フランス,88分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
出演:イザベル・ユペール、ハンナ・シグラ、イエジー・ラジヴィオヴィッチ、ドミニク・ブラン、ミリアム・ルーセル

 最初のカットは、空を横切る飛行機(雲)。そこから、切れ切れの断片が次々とつなげられる。それぞれの意味するところは説明されることなく、それぞれのカット(映像)の切れ目とセリフ(音)の切れ目も一致しない。ひとつのモチーフは工場で働くどもりの少女、もうひとつのモチーフは生身の人間で構成される絵画(おそらくレンブラント)の撮影風景。いきなり見るものを圧倒し、混乱させる作りで始まるこの映画、徐々に物語らしきものがたち現れてくる。
 ゴダールらしい実験性と工夫に溢れた作品。物語らしきものがあるようでないようなのだけれど、常に緊迫感が漂い、見るものを厭きさせない。
 いわゆる普通の映画に馴らされてしまっていると、かなり面食らうに違いない映画だが、この世界になじんでいけば、最後には終わってしまうのを惜しむ気持ちが沸いてくるに違いない。

 この映画に溢れているのは、「音」と「光」。「音」はその過剰さによって、「光」はその不在によって存在を主張する。我々はまず遠くを飛ぶ飛行機のノイズに耳を澄ませ、主人公である少女の吃音に耳を尖らせ、彼女の吹くハーモニカに違和感を覚え、突然けたたましくなるクラクションに驚かされる。
 主人公であるジョルジは光の不在に頭を悩ませ、我々は多用される逆行の画面にいらだつ。美しいはずの音楽は中途で寸断され、聞きたい言葉はの登場人物たちの心の中のモノローグによってかき消される。
 この世の中は、過剰なノイズによって肝心の音は聞こえず、光が存在しなくなってしまったために物が見えなくなってしまっている。劇中で作られている『パッション』という映画が完成しないのは、光が見つからないからではなく、光が存在しないからなのだ。
 ゴダールのすごいところは我々をいらだたせることによって、自分の側にひき込んでしまうこと。我々の欠落した部分につけ込んで我々に期待を抱かされること。しかしその期待がかなうことはなく、我々は痛みを抱えて映画館を後にする(またはビデオデッキのイジェクトボタンを押す)。そして、ためらいながらも違うゴダールに期待をしてしまう。
 なぜそうなのかを分析することは難しい。我々はただ驚くだけ。ゴダールの映画はなぜショッキングなのか? ゴダールの映画に登場する女性たちはどうしてあんなに美しいのか?
 やはりゴダールは天才なのか?