主人の館と奴隷小屋

Casa Grande & Senzala
2001年,ブラジル,228分
監督:ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス
撮影:ホセ・ゲラ
音楽:エイトール・ビジャ=ロボス

 ジウベルト・フレイレが1933年に著した『主人の館と奴隷小屋』という書物はブラジルという国がどういうものであるかを記したものだった。この映画はその著作を検証しながら、ブラジルという国について解説していく。
 映画は四部構成で、フレイレの著作にだいたいそって進む。教授という男が1軒の”Casa Grande”をアシスタントとともに訪れて解説をする。そこではその著作をモチーフにした映画をとっているという設定で、若い役者たちがいて、彼らへのインタビューも交えられる。

 ドキュメンタリー映画というよりはテレビの教養番組という感じで、ただただ淡々と教授という人とアシスタントがフレイレの著作について話をするということが映画の筋になっている。この話自体はブラジルという国と社会を解説しているだけなので、特に面白くもないが、ブラジルでこのようにブラジルという国を解説するテレビ番組をやらなければならないというところに、ブラジルという国の国家的アイデンティティの希薄さを感じる。それは、インタビューを受けている青年の一人がアメリカ(合衆国)の大学に行ったとき、「ブラジルという国を知らなかったことに気付いた」と言った言葉に象徴されている。国家的アイデンティティのよしあしは別にして、国家としてはそのようなアイデンティティが国民の間で形成されることを求めており、この映画はそのような国家の欲求を実現しようというものになっている。

 というまさに教養番組という映画ですが、ドス・サントスはそこに微妙な「ずらし」を加える。まず、映画の舞台となる”Casa Grande”で映画が作られているという設定だが、その映画が本当に作られようとしているののかどうかはわからない。おそらくこの映画のために作っているフリをしているだけで、だとすると、役者として登場する人たちも実際のところはこの映画のために集められた人々で、なんだかさらにうそ臭くなってしまうが、まあそれはいいとして、この劇中劇となる映画が妙にエロティックだったりする。そんなエロティックなシーンを取り上げる必要があるのかといえば、ことさらそういうわけでもなく、教養番組としての意図とは別のものがありそうな気がしてしまう。
 さらには、教授と一緒に”Casa Grande”を訪ねるアシスタントが4話で毎回違うのですが、人種構成が違うので、最初はブラジルという国の多様性を強調するためなのか、と最初は思ったわけなのですが、第四部あたりになるとどうもおかしくて、そのアシスタントがやたらとクローズアップで取られ、カメラ目線で話してきたりする。さらには昼から夜になるにつれ、服装はどんどん薄着になり、夜のシーンでは教授と立ち話をする彼女の背後に思わせぶりにベットがのぞいていたりする。
 これは、そのような余分なものを徹底的に排除しようとする日本の教養番組と違うというだけのことかもしれませんが、それにしてもなんだかおかしい。そもそもこれのどこがドキュメンタリーなんだ、という疑問に駆られます。なんだか変な映画だったなぁ…

チョコレート

Monster’s Ball
2001年,アメリカ,113分
監督:マーク・フォースター
脚本:ミロ・アディカ、ウィル・ロコス
撮影:ロベルト・シェイファー
音楽:アッシュ・アンド・スペンサー
出演:ビリー・ボブ・ソーントン、ハル・ベリー、ピーター・ボイル

 州刑務所の看守ハンクは病気の父と同じく看守をする息子のソニーと暮らしている。ハンクは父の人種差別意識を引き継ぎ、息子のソニーを訪ねてきた黒人の少年たちを銃で追い返す。
 黒人の死刑囚マスグローヴの死刑執行の日、息子のソニーは執行場へと付き添う途中に戻してしまう。執行後、ハンクはソニーを激しく怒り、殴りつける。
 演技には定評のあるビリー・ボブ・ソーントンと、この作品でアカデミー主演女優賞を獲得したハリー・ベリーなんといってもこの二人がいい。特にハリー・ベリーはとても美人でいい。

 映画自体はたいした映画ではありません。アメリカの白人の中にいまだ人種差別主義者がいっぱいいることなどは繰り返し描かれてきたことだし、実際にそうであることも理解できる。この映画は人種差別を中心として、家族や死刑というさまざまな問題を含んではいるけれど、それが行き着く先は結局のところ恋愛で、セックスで、人を愛するということが異性間の関係に集約されてしまっている。
 ハンクが息子を「憎んでいる」といってしまったり、父親を施設に入れてしまったりする、そのことを考える。そのことを考えると、この男はやはり自己中心的で、他人を思いやっていると見える行動もヒューマニスティックなものというわけではなく、実は弱さの顕れでしかない。もちろん人間は弱いものだけれど、この映画はそこには突っ込まない。
 この映画から人種の問題を取り去ったら何が残るだろうか。それは単なるメロドラマ、息子を失った男女が出会い、互いに慰めあう。新たな愛に出会う。そういう話。

 果たして、ハンクは人種差別主義を克服したのだろうか? この2時間半の時間を見る限り、それは克服されていない気がする。レティシアに大しては差別もないが、それはおそらく「黒人」という意識がないだけのこと。近所の自動車修理工場の家族とも仲良くし始めるけれど、それも彼らを「黒人」の枠からはずしただけのことのような気がする。「黒人」一般に対する差別は温存したままで、「仲間」として認められる黒人は受け入れる。そのような態度に見えて仕方がない。
 そう見えるからこそわたしには、この映画が人種差別主義の根深さを示す映画だと思うのだけれど、製作者の側にはそんな意識はなく、一人の男が差別を克服する映画という考えだろうし、見るアメリカ人もそういう映画としてみているような気がする。
 それは、本来は黒人と白人のハーフである、ハリー・ベリーを「黒人初のアカデミー賞女優」といってしまうアメリカの人種意識から推測できることだ。それはアメリカの人種意識が「白人」を中心として作られていることを示している。「白人」でなければ、白人の血が半分入っていようと「黒人」になってしまう。つまりちょっとでも黒ければ「黒人」、ちょっとでも黄色ければ「アジア系」となる。
 この映画はそんなアメリカの人種意識をなぞっているだけで、何も新しいものもないし、アメリカの人種意識を変えるものではないと思う。だからわたしは、「たいした映画ではない」という。

 たいしたことない話が長くなってしまいましたが、わたしがこの映画で一番気に入ったのはハリー・ベリー。『X-メン』などではちょっとわかりませんでしたが、この映画のハリー・ベリーは本当に美人。さすがミス・オハイオ、ミス・コンも捨てたものではないですね。わたしはこのハリー・ベリーの美しさはいわゆる「ブラック・ビューティー」ではない、一般的な美しさだと思います。黒人でなくても受け入れられる美しさ。この映画は本当にハリー・ベリーの映画。主演女優賞をとっても当然、という感じです。
 映画にとって美女が重要だということもありますが、人種の問題に立ち返っても、彼女のような美女の存在こそが人種の壁を突き崩すきっかけになる可能性を持っている。そんな気が少ししました。

ガールファイト

Girlfight
2000年,アメリカ,110分
監督:カリン・クサマ
脚本:カリン・クサマ
撮影:パトリック・ケイディ
音楽:セオドア・シャビロ
出演:ミシェル・ロドリゲス、ジェイミー・ティレリ、ポール・カルデロン、サンティアゴ・ダグラス

 今年で高校を卒業するダイアナはブルックリンの公営住宅に住み、学校ではけんかばかり繰り返していた。ある日、弟のボクシングジムに月謝を払いに行ったダイアナは、弟に汚い手を使った少年を殴る。次の日、ダイアナは再びジムへ赴き、トレーナーにボクシングを教えてほしいと頼み込んだ。
 単純なスラムの少年少女という映画ではなく、上品に、しかし堅実にその姿を描いていく。監督は日系アメリカ人で、この作品がデビュー作となるカリン・クサマ。サンダンスで最優秀監督賞も受賞。人種が混交する状況を地味だけれどリアルに描いた佳作。

 こういう映画はヒロイズムに陥りやすい。一人の少女がボクシングに目覚めるとすると、彼女はたとえば女子ボクシング界で頂点に立つとか、そういった筋立てに。しかし、この映画はそのような筋立てにはしない。
 かといって、人種問題を前面に押し出すかといえば、そうでもない。最終的にメインとなる恋物語の相手がプエルトリカンであったり、ボクシングのコーチもヒスパニックであったりして、混交している状況は示されているけれど、必ずしもそれが貧困や差別につながるとは表現していない。
 そのような微妙なスタンスの取り方が映画全体を地味にしている。ひとつの見方としては、人種などを超えた普遍的な物語として描きたかったという見方もあるだろう。なら、どうして黒人なんだと思うけれど、もし白人の女の子がボクシングをやったとしたら、それは全く異なる物語になってしまっただろうし、そこからたち現れてくるのはやはりやはりヒロイズムか、『チアーズ』のような平等の幻想だけだろう。だから、このような人種混交の状況の中にある一人の貧しい少女を描こうとすると、人種は必然的に有色人種になってしまう。
 ということは、人種を超えた普遍的な物語などありえないという主張であるのかもしれない。「普遍」というまやかしをまとうことなく、映画を作る。それは一種、観客を限定することであり、産業的には不利に働くかもしれない。たとえば、スパイク・リーの映画はあくまで黒人映画であり、全米であまねく見られうというわけではない。そのような意味でこの映画も(黒人映画ではないけれど)観客を限定しているのだろう(映画祭によってその不利はある程度払拭されただろうけど)。

 逆に問題なのは、最終的にラブ・ストーリーに還元してしまったことだろうか?物語の最初も恋愛の話で始まり、主人公はそれに反発しているのだけれど、それが最終的にラブ・ストーリーに還元されてしまうと、なんだかね。途中、父親に食って掛かるシーンなどはかなり秀逸で、そういう勢いのあるシーンを物語にうまくつなげていければ、すばらしい映画になったような気がします。
 この展開だと、ひとつの少女の成長物語で、学校も家族も乗り越えるべきひとつのもので、最終的にたどり着くものは愛(恋)だというような話になってしまう。そのように単純化できてしまう物語はなんだかもったいない気がしてしまいます。

セクシャル・イノセンス

The Loss of Sexual Innocence
1998年,アメリカ,106分
監督:マイク・フィギス
脚本:マイク・フィギス
撮影:ブノワ・ドゥローム
音楽:マイク・フィギス
出演:ジュリアン・サンズ、ジョナサン・リス=メイヤーズ、ケリー・マクドナルド、サフロン・バロウズ、ステファノ・ディオニジ、ジーナ・マッキー、ロッシ・デ・パルマ

 1954年、ケニア。少年はとうもろこし畑にあるボロ小屋でひとりの老人が混血の少女に本を読ませている隠微な場面を覗き見る。それは主人公ニックの5歳の頃。映画はニックの5歳、12歳、16歳、そして現在(恐らく30代)の場面がモザイク状に組みたてられ、そこにアダムとイヴらしき裸の男女(男は黒人、女は白人)の挿話がいれ込まれて展開する。 難解で、思索的とも言える映画構成。『リービング・ラスベガス』で名を馳せたマイク・フィギスが17年間の構想の末、完成させた自伝的作品。イノセンス=無垢という事をテーマにしたこの作品は、真面目に真摯に我々に語りかけてくる。

 映画としてはかなりいい出来だと思う。哲学的で幻想的で、難解で。シーンごとに照明や撮り方に変化があって、非常に面白い。夢のシーン照明がずっと片側だけからあたっていたりして。難解で何を言いたいのか的を得ないのだが、観客に口をポカンと開けさせるだけの力をもった映画だとは思う。
 しかし、真面目過ぎるし、古すぎる。構想17年というが、それは17年間構想を練ったということではなくて、17年前の構想だってことでしかないのではないかと疑問に思わざるを得ない。何と言ってもそれを感じさせるのが、「アダムとイヴ」。アダムが黒人でイヴが白人(北欧系)というキャスティングにこだわったということが美談のように言われているが、それはむしろ黒人差別という白人の原罪を克服しきれていないことの証であるように見えてしまう。「私は差別をしていない」というモーション。「だからアダムを黒人として描ける」という傲慢。それは映画中でニックが「ダニ族」だったか何かのカニバリズムの種族についてしたり顔で語った場面と重なり合う。「偏見なんてない」とことさらにいうことは、むしろ偏見を持っていることの証明であり、「偏見を持っているが、それを押さえ込むことが出来る」に過ぎない。
 なぜ黒人男性と黒人女性ではいけなかったのか? なぜエデンの園にいた馬は白馬だったのか? そんな事を考えていると黒人男性と白人女性というキャスティングが欺瞞でしかないように見えてくる。
 この映画は、難解なようで、むしろやさしすぎ、語りすぎているように思える。解くのが難しい問題(つまり、難しいが解ける問題)を扱っているかのように振舞っているが、むしろこの映画が扱っているのは差別や原罪という解くことの出来ない問題なのではないだろうか? そのような問題をあたかも解決できる問題であるかのように語ることは意味がないばかりか有害ですらある。
 というわけで、純粋に映画としては評価できますが、その底流に流れる思想性にどうも納得がいかなかったというわけです。まあ、理屈っぽいたわごとだと思っていただければいいですが。

カフェ・オ・レ

Metisse
1993年,フランス,92分
監督:マチュー・カソヴィッツ
脚本:マチュー・カソヴィッツ
撮影:ピエール・アイム
音楽:マリー・ドーン
出演:ジュリー・モデュエシュ、ユベール・クンデ、マシュー・カソヴィッツ

 自転車でやってきたみすぼらしい白人の青年と、タクシーでやってきたこぎれいな黒人の青年。二人は混血の美女ローラに妊娠したと告げられる。しかもどちらの子供かわからない。さらにローラは生むことにもう決めていた。さて、二人はどうするか?「人種」という重たげな問題をあっさりコメディにしてしまう。 マシュー・カソヴィッツの監督デビュー作はたわいもないコメディのようで、じっくりと味わうだけの含蓄がある作品に仕上がっている。
 「この映画はすごいよ」と私は言いたい。「この映画を消化できないようじゃダメだよ」と高飛車に言いたい。
 でも、軽い気持ちで見てください。そういう映画ですから。

 ジャマルとフェリックス、そしてローラ。この3人はただ単に黒人・白人・混血という関係性なのではない。ジャマルはアフリカ人、フェリックスはユダヤ人、ローラはマルティニク人。3人ともがフランスの社会ではマイノリティであり、この三人の間では必ずしも「白さ」「黒さ」が社会的な問題となるわけではない。  おそらく、ジャマルの家系は出身国(おそらくセネガルかどこか)がフランスの植民地であった頃から、高度の教育を受け、本土において成功したのだろう。ローラは、おばあさんがフランスにいることから、マルティニク(カリブ海のフランス領の島)から移住してきたものの大きな成功は勝ち取れなかった(だから母親はマルティニクに帰った)のだろう。フェリックスは名前からしてポーランド系、第2次大戦後にフランスにやってきたのかもしれない。
 そして、現在では、フェリックスの家がいちばん貧しい。ジャマルの家がいちばん金持ち。
 しかし、ローラは言う「彼は黒すぎるのかも」。肌の色への偏見か?
 ジャマルは暴君のように振舞う。無意識的な性差別か?
 教育とか、社会的地位とか、「やばい地区」とか、いろいろなことが複雑に絡まって、しかしそれを解きほぐそうとはせず複雑なまま提示する。それはただ、あるがままをぽんと提示するということなのだけれど、その複雑さが複雑さとして表現されるためには、ただそこらに転がっている現実を切り取ればいいというわけではなくて、それなりの選択と、表現の工夫が必要になってくる。そしてそれはひどく難しい。どんどん複雑化して行く現実をありのままに切り取っている(ように見える)この作品には非凡なものがあるということに我々は気づかなければならない。