娘・妻・母

東京の坂西家には、母のあき、雄一郎と和子の長男夫婦にその息子、さらにぶどう酒会社に勤める末娘の春子が住んでいる。今はそこに日本橋の旧家に嫁に行った長女の早苗がやってきていた。坂西家にはさらにカメラマンの次男・礼二、お嫁に行った保母の薫と5人の子供たちがいた。そんな坂西家に連絡が入り、早苗の夫が旅行中のバス事故で亡くなったという…

原節子をはじめとした豪華な女優陣で、女と家族の関係を描いた力作。それぞれの女性がそれぞれの生き方を見事に演じ見ごたえのある作品になっている。

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俺もお前も

1946年,日本,72分
監督:成瀬巳喜男
脚本:成瀬巳喜男
撮影:山崎一雄
音楽:伊藤昇
出演:横山エンタツ、花菱アチャコ、山根寿子、河野糸子、菅井一郎

 サラリーマンの大木と青野はふたりでやる宴会芸が社長に気に入られ、ある日は得意先との宴会に、あるには社長の家の手伝いにと借り出される。4人の子供がいる青野は長女の結婚相手を大木に頼むが素っ頓狂な答えが返ってくるばかり。そんなある日、社長はふたりに骨休めに温泉に言って来いという。
 エンタツアチャコ主演の成瀬巳喜男戦後第2作。小市民を描いたコメディドラマで東宝と吉本の合同製作となっている。

 映画のはじめにはエンタツアチャコの芸をたっぷりと見せ、その後もドタバタコメディのような展開でまずはエンタツアチャコの面白さで観客を惹きつける。エンタツアチャコは戦前(昭和6年)に結成された漫才コンビで現在の「しゃべくり漫才」の祖といわれる。それまで漫才というのは「色物萬歳」という寄席の古典芸の一つで音曲を使ったものが多かった。エンタツアチャコは「しゃべり」を漫才の中心にすえることで現在の漫才のかたちを確立させたといわれる。横山ノックは横山エンタツの弟子で、ノックの弟子が横山やすしであることからも関西の漫才の祖であるといえる。

 そんなエンタツアチャコだが実はその寿命は非常に短く、昭和9年にアチャコの入院を機に解散している。ただ映画ではその後もコンビで出演し、この作品でも共演しているというわけだ。その人気者のエンタツアチャコの出演は敗戦直後の映画界では人々に明るさを与える要素として歓迎されただろう。

 成瀬巳喜男も戦後第2作でそれに乗っかった形になったが、そこは名匠、コメディ然とした導入から徐々に自分のドラマへと映画を転調していく。中心になるのはいやな仕事をさせられながら社長に頭が上がらないサラリーマンの悲哀である。それに対して大木の息子が労働者の権利を父親にとうとうと説き、世代間の考え方の違いと時代の変化を描く。

 折りしもこの映画が作られた1946年は東宝でストが頻発し、いわゆる“東宝争議”への機運が高まっていた時期、時代を読み取り、それを作品に反映させる成瀬らしい脚本ともいえるのだが、東宝にしてみればこんな作品を容認してしまって失敗だったと考えたかもしれない。

 そんな社会派の要素を組み込むのも成瀬らしさだが、この作品で最も成瀬らしいさえを見せたと私が思ったのは、“下駄”を使った語りである。大木が最初に家に帰ってきたとき、下駄の片方がなくなったというまったく物語とは関係ないエピソードが挟まれ、片方しかない下駄がしっかりと映される。そのときはなんだかわからないのだが、物語が終盤に差し掛かって大木と青野が社長にそれぞれが「下駄の片方ずつ」と評されることでそれが生きてくる。三和土に打ち捨てられた半端な下駄の虚しさをすら感じさせる映像がここで観客の頭に去来するのだ。

 72分という短い作品で決してそれほどいい出来とはいえないのだが、それでも成瀬は成瀬らしさを発揮し、面白い作品を作る。戦前はトーキーにいち早く取り組み、戦中は「芸道もの」というジャンルで戦時下という特殊な状況を跳ね除けた成瀬が、いよいよ自分らしさを発揮する前奏曲という感じでファンには見所のある作品となった。

放浪記

1962年,日本,123分
監督:成瀬巳喜男
原作:林芙美子
脚本:井手俊郎、田中澄江
撮影:安本淳
音楽:古関裕而
出演:高峰秀子、田中絹代、宝田明、加東大介、小林桂樹、草笛光子

 両親と行商をしながら全国を転々として少女時代を暮らしたふみ子は本が大好きでいつも本ばかり読んでいる。女学校を卒業し、母と二人東京に落ち着いたが、母は九州にいる父を助けに九州へといってしまう。一人暮らしをはじめたふみ子だったが仕事はなかなか見つからず、貧しい生活を送っていた…
 林芙美子のデビューのきっかけとなった自伝小説の映画化。成瀬が映画化した林芙美子の作品としては最後の作品となった。林芙美子自身の文章をキャプションに使い、かなり原作を反映させた作品となっている。

 冒頭から何度も入る。文字によるキャプション「○月×日 …」。この言葉はすごく美しく、ぐっと心に響いてくる。もちろん原作ままの文章をキャプションとし、それを高峰秀子が読むという形なのだけれど、原作ではおそらく無数にあるであろうその文章の中から本当に心に響く言葉を選び出し、効果的な配することができるのは映画の力だ。原作者-脚本家-監督の絶妙のコラボレーション。ただ、この文章も映画の終盤になるとその威力を弱める。映画の中でも言われている「貧乏を売り物にしているのが鼻につく」ということだろうか?それとも単純にその言葉に慣れてしまうからだろうか? あるいは映画のテンポにあまりに変化がなさ過ぎるからか?
 基本的にこの映画はドラマが最大の魅力であると思う。ふみ子のまさにドラマティックな人生。そのドラマにこそ観客は入り込み、ふみ子に自己を投影する。あるいはふみ子を影から見つめている保護者のような立場に自分を置く。だから福地が登場すると「こんな男にはだまされるなよ」などと思ってしまう。ふみ子の味方として映画の中の世界の隣に佇む。そんな立場で映画を見ることができるのはすばらしい。それはもちろん成瀬のさりげない演出、子供のころふみ子が画面の奥でいつも本を読んでいるとか、本郷の下宿の建物が微妙に傾いているとかいうことも重要だし、高峰秀子の非常にうまい役作り、しゃべり方や表情も重要なのだろう。しかし、これも終盤になると弱まってしまう。なんとなくふみ子にわずかに反感を覚えてしまったりもする。感覚としては映画の中の世界からぽんと外に放り出されてしまったような感じ。ふみ子という存在がすっと遠くに行ってしまったような感覚を覚える。これも成瀬流の演出なのか? 最後にクライマックスを持ってきて感動の涙を流させようとするいやらしいハリウッド映画とは違う成瀬の「いき」なのかとも思う。
 ある意味では絶妙な終わり方。パーティーでの福地のぶった演説はすごく感動的だった。しかしそれはふみ子の敵であったはずの福地の呼んだ感動であり、単純な勧善懲悪のドラマの裏切りである。一人の立場に入り込んで映画を見ると、ほかの人を善悪に二分しがちで、この映画もその例外ではないのだけれど、しかし、福地の演説に限らず終盤でこの二分論を裏切ることで映画全体を複雑で味わい深いものにしているのも事実である。この関係性の転換というか書き換えがシンプルなドラマとしてとらえた映画にとっては違和感になってはいるけれど、逆に深みを出してもいるといえるのではないだろうか?

晩菊

1954年,日本,102分
監督:成瀬巳喜男
原作:林芙美子
脚本:田中澄江、井手敏郎
撮影:玉井正夫
音楽:斎藤一郎
出演:杉村春子、沢村貞子、細川ちか子、望月優子、上原謙

 広い屋敷に聾唖のお手伝いと二人暮しのきんは不動産を売買したりしながら小金を貯めこんでいる。昔の芸者時代の友達にも金を貸し、足しげく取り立てに向かう。そんなきんときんから金を借りている3人のむかしの仲間。40を過ぎ、華々しい生活とは離れてしまった彼女たちの日常を淡々と描く。
 「めし」と同様、成瀬巳喜男が林芙美子の原作を映画化。味のある女優たちを使って渋くて味のあるドラマを作ったという感じ。

 この作品はすごく面白い。それはここに登場する主に4人の女の人たちが非常に魅力的だからだ。主人公の“きん”を演じる杉村春子はもちろんだが、他の沢村貞子、細川ちか子、望月優子も本当に素晴らしい。なかでも、いちばんよかったのは望月優子演じる“とみ”である。
 他の3人がかなり名前がある女優であるのに対し、この望月優子だけはかなり地味である。しかし彼女は劇団のたたき上げであるだけに確かな演技力を持ち、脇役としてはかなり活躍していたし、1953年の木下恵介監督の『日本の悲劇』では見事に主役を演じ、毎日映画コンクールの女優賞も受賞している。ちなみにだが、71年には社会党から参議院選に出馬し当選、女性層の支持が強かった。
 その望月優子がこの作品で見せる演技は本当に素晴らしい。彼女はどっかの寮で掃除婦をしていて、細川ちか子演じる“たまえ”とひとつ家に同居している。最初に登場するのはそのたまえへの借金の催促に行こうとするおきんがたまえがいるかどうかをとみに確かめに来るのだ。とみはおきんからは借金していないが、寮の若い男から借金しているらしく、催促されるのだが、それを色目だかなんだかわからない表情をして「もうちょっと待ってよー」と甘ったるい声でいう。この独特の雰囲気でもうかなり面白い。
 さらにはギャンブル好きの酒好きという設定で、映画の終盤で細川ちか子とふたりで酔っ払うシーンがまた面白い。文字で書いてもちっとも面白くないと思うので、詳しく書く事はやめるが、中年女性さもありなんという感じのふたりの酔っ払い具合と関係がほほえましくも面白い。
 この望月優子と細川ちか子はもう大きい子供がいて、夫はいないという点で共通点があり、ひとつのわかりやすいキャラクターとして成立している。望月優子がもと芸者であったのに対して、細川ちか子のほうはそうではなく、仲居だったようなことを言っていた気がするが、今では別な形ではあるがふたりとも掃除をして生活している。
 この夫なし、子供ありの水商売の女性というのは成瀬映画にたびたび登場してきたキャラクターである。小さな子供を抱えながら生活して行くためにバーで働かなければならない女性、その女性のなれの果てというか、十数年後がこのふたりということになるのだろう。その点でもこのふたりのキャラクターは面白い。子供がいれば幸せだという母性の肯定も実は成瀬が女性を描くときの特徴のひとつだったのだとこの作品を観ながら思う。
 成瀬映画といえば自立しようとする女性が主人公で男や家族がその足かせになる。というものが多く、普通に考えたら子供も足かせになりそうなものだが、成瀬の考え方はそうではない。子供は女性の自立のうちに入っており、子供を抱えながらも独立独歩頑張って行くという女性を成瀬は応援するのだ。

 それに対して、沢村貞子が演じるのぶは成瀬が描く女性の典型から外れている。なんと言っても夫婦仲がよい。夫(沢村宗之助)は情けない男の類型に入りそうだが以外にしっかりしていて、妻の尻にしかれているような体裁をとりながら妻との関係をうまく保っているようだ。つまりふたりは幸せなのだ。沢村貞子があまり登場しないのは、幸せな人を描いてもあまり面白くないからだろう。
 そして、杉村春子である。杉村春子は成瀬が描く重要なモチーフである女と金を集約したようなキャラクターである。しかも最終的に金に頼ることを選択した女、成瀬は女は男に(その男は必ず情けない男なのに)頼ってしまうという女の生き方を書き続けてきたが、ここで男に頼らない女、お金に頼ることで一人で生きて行く女を描いた。それは、彼女が散々男に苦労してきたからであるが、やはりじつは、男に頼りたいというかやっぱり男が好きで、上原謙演じる田部がやってくるのをうきうきと待ったりする。
 そのうきうきとした姿を金を勘定している彼女の姿と対比してみると、杉村春子という女優がいかにすごいかがよくわかる。そのどちらが本当の彼女の幸せか、あるいはどちらも幸せではないのか、どちらも幸せなのか、そのあたりの微妙な心理を見事に演じきっている。そしてその彼女の心理の機微や心境を見事に演出する成瀬も非常にうまい。私は、映画の最後の最後、杉村春子が駅の改札を抜けようとするときに、切符をなくしてあっちこっちを探すシーンがとても好きだ。

<前のレビュー>

 本当にただ元芸者の4人の女たちの日常を描いただけの物語。何か事件が起こりそうな雰囲気はあるのだけれど、結局何も起こらず、淡々と終わる。それでも、あるいはむしろそのことで、4人の女たちのそれぞれの人間性のようなものが見えてくる。しかも、それは単純にキャラクタライズされた紋切り型の人間性ではなく、どこか多面性を持っているもの。もちろん人間誰しも多面的で、一つのキャラクターに押し込むことはできないけれど、映画という限られた時間の空間の中で、その多面性を描くのは難しいと思う。しかも、何かの事件があって、そこから明らかになっていくのではなく、シンプルなまったく日常的な交わりの中でそれを描いていくということの難しさ。そして、その難しさを感じさせないほどさらりと描ききってしまう「いき」さ。そこにやはり成瀬のすごさを感じてしまう。
 しかし、そうはいってもこの映画はあまりに渋い。その渋さを破るのは、きんの家の昼の場面でかならずなっている何かをリズミカルに叩く音(何の音だろう?)と物語の終盤で突然入る杉村春子のモノローグ。このふたつの変化球は映画全体を純文学的にしてしまうことを防いでいる。言葉にならない感情の機微を観客に読み取らせようとするような難解な映画にはせず、渋いけれども肩を張らずに見れる映画にしていると思う。特にあの音は、お手伝いさんが聾唖であることもあって無音になりがちな家の場面にさりげなく音を加える。単純なリズムであることで、音楽のように余分な意味がこめられることもない。あの場面が無音だったら、と仮定してみると、きんはもっと思いつめた、何か心ぐらいことか差し迫った理由があってお金儲けをしているように見えてしまったかもしれない。そう考えると、あの単純なリズムによって主人公のキャラクターが軽くなり、映画も軽くなったということができるような気がする。
 そういうさりげなさが成瀬巳喜男の「いき」さの素なのだと思います。なるほど、もともと女性を描くのがうまい成瀬がお気に入りの女流作家林芙美子の作品を映画化すれば、こうなるよね。という作品。

めし

1951年,日本,100分
監督:成瀬巳喜男
原作:林芙美子
脚本:井出俊郎、田中澄江
撮影:玉井正夫
音楽:早坂文雄
出演:上原謙、原節子、島崎雪子、杉村春子、杉葉子、風見章子、大泉滉

 結婚して5年、東京から大阪に越して3年、子供もなく平凡な毎日を繰り返す三千代は日々の単調さに息が詰まっていた。そんなとき東京から夫の姪の里子が家出をしたといって転がり込んできた。そんな居候の存在も今の三千代には夫との関係をさらに寒々とさせるものでしかなかった…
 林芙美子の原作を成瀬が淡々としたタッチで映像化。端々まで注意の行き届いたつくりで倦怠期の夫婦の心理をうまく描いた傑作。川端康成が監修という形でクレジットされているのも注目に値する。

 こういうのが本当にしゃれた映画というのだろう。静かに淡々と夫婦の間の心理の行き来を描くその描き方は芸術的ともいえる。登場する誰もが多くを語らない。言葉少なに、しかし的確に言葉を発する。しかしストレートな物言いではなく、婉曲に言葉を使い、しかしそれがいやらしくない。こういう台詞まわしの機微が味わえるのは古い日本映画ならではという感じがする。それはもちろん古きよき時代への郷愁であり(生きてないけど)、それによって現代の映画のせりふの使い方を貶めるものではないけれど、こういう空間をたまには味わいたいと思う。
 そしてその細かい気遣いはせりふ使いにとどまらない。小さなしぐさの一つ一つが納得させられる感じ。ひとつ非常に印象に残っているのは、終盤で三千代と初之輔が食堂に入り、話をする。話をしていると、画面の後ろで誰かが店に入ってくる。二人はそちらをふっと見遣る。そしてすぐに向き直る。その人はまったく物語とは関係ない人だから、別に振り返らなくてもいいし、そもそも入ってこなくてもいい。しかし、そこで人が入ってきて、そこに目をやる。この映画全体とは本当にまったく関係ないひとつの仕草はとても自然で、彼らの存在にぐっと現実感を与える気がする。
 本筋は語りすぎず、しかし気の利いた遊びも忘れない。こういうのが本当にしゃれたというか粋な映画なんだと思いました。こういう日本映画のよさというものを忘れていはいけないなと思いましたね。ふとセルジュ・ダネー(フランスの人ね)が溝口の『雨月物語』のワンシーンについて書いていたことを思い出しました。それは、「溝口は、その死が起こっても起こらなくてもよいことがわかるような、漠然とした運命として宮木の死をフィルムに収めたからである。」というものでした。ダネーの論点とはちょっとずれている気はしますが、そこに漠然としたひとつのイメージがわいてきます。日本流の「粋」のこころがなんとなくそこにある気がしました。

女の中にいる他人

1966年,日本,100分
監督:成瀬巳喜男
原作:エドワード・アタイヤ
脚本:井出俊郎
撮影:福沢康道
音楽:林光
出演:小林桂樹、新珠三千代、三橋達也、若林映子、草笛光子

 思いつめた顔をした男・田代。ひとりカフェに入り、ビールを飲んでいると偶然友人・杉本が通りかかった。鎌倉に住む古い友人同士の2人はそろって鎌倉の行きつけのバーに行く。そこで杉本は妻さゆりが事件にあったと聞かされ、東京にとんぼ返りした。田代はひとり家に帰るが…
 成瀬巳喜男の晩年のストレートなサスペンス映画。

 基本的にスリルを楽しむサスペンスというよりは、人間の心を描こうとしている作品だとは思う。もちろん表情やしぐさから感情の動きは存分に伝わってくるのだけれど、それが過ぎると物語としての面白みが削られてしまう。人々の表情やしぐさから伝わってくる感情や考えというものは物語と絡み合って、サスペンスならではの観客の意識に微妙な揺れを生み出すからこそ意味があるのであって、タダひたすら「我」を言葉なしに語ってしまうだけでは意味がない。
 しかしさすがに巨匠といわれる成瀬巳喜男、映画の作りにそつはなく、特にカットとカットのつなぎ方があまりにスムーズ。あまりに自然なので、するすると目の前を通り過ぎていってしまうけれど、よく見てみればこれほどのよどみない繋ぎを生み出すのは至難の技なのだろうなと感心する。それは専門技術的なことではなくて、単純にカット同士の繋ぎに違和感がないということ。1つのシーンを見ても果たしてそのシーンが1カットだったのか複数のカットからなっていたのか一瞬わからないくらいの自然さ。おそらく全編を綿密に見れば、いろいろなつなぎ方で見事な流れを作り出しているのでしょう。
 そんな巨匠ならではのすごさも感じつつ、サスペンスとしては「並」と判断せざるを得ません。小林桂樹が悪いわけではないのでしょうが、ちょっと眉間にしわを寄せすぎたか。