私が女になった日

Roozi Khe Zan Shodam
2000年,イラン,78分
監督:マルジエ・メシキニ
脚本:モフセン・マフマルバフ、マルジエ・メシキニ
撮影:モハマド・アフマディ、エブラヒム・ガフォリ
音楽:アフマド・レザ・ダルヴィシ
出演:ファテメフ・チェラグ・アフール、シャブナム・トロウイ、アジゼ・セディギ

 9歳の誕生日を迎えた少女ハブア。彼女は友達のハッサンと遊びたいが、9歳になったらもう男の子とは遊べない。彼女はおばあちゃんに頼んで、生まれた時間の正午までハッサンと遊ぶことを許してもらう。
 このハブアの物語に加え、自転車レースに参加する人妻アフー、ひたすら買い物をする老女フーアを主人公にした3本のオムニバス。これまで描かれることの少なかったイランの女性を描いたメシキニの監督デビュー作。
 マルジエ・メシキニはモフセン・マフマルバフの二人目の妻で、死別した一人目の妻の妹。したがって、サミラの叔母にあたる。モフセンが娘のために作った施設の映画学校でサミラとともに映画作りを学んだマルジエにとって一種の卒業制作的作品。ベネチア映画祭に出品され高い評価をえた。

 ペルシャ湾に浮かぶキシュ島は、一種の自由市で、イランの各地から観光客がおとずれる。そのキシュ等の美しい自然を背景に、素直に映画を作ったという感じ。サミラと比べると、やはり静かな大人の映画を撮るという印象だ。そして、女性というものに対する洞察が深い。
 この映画は要するに、女性の一生を描いたもの。3つの世代を描くことで、女性たちがたどってきた歴史を表現したもの。それはすっかり映画が語っています。少女の時点で社会による束縛を味わい、成長し自立したと思ったら家族という束縛に縛られ、ようやく自由になった老年にはその自由の使い道がない。要約してしまえばそういうこと。
 こう簡単に要約出来てしまうところがこの映画の欠点といえば欠点でしょうか。しかし、メッセージをストレートに伝えるということも時には重要なことですから、必ずしも欠点とはいえないでしょう。
 この映画、かなり構図と色合いにこっているようですが、なんとなくまとまりがない。それぞれの映像はすごく美しいのだけれど、なんとなくそれぞれの映像が思いつき、というか、その場の美しさにとらわれているというか、あくまでなんとなく何ですが、全体としての「映像」像見たいな物が見えてこない。これもまた欠点といえば欠点ですが、その場の最良の瞬間を切り取るというのも映画にとっては重要なことなので、必ずしも欠点とはいえないのです。
 なんだかわからなくなってきましたが、まとめると、ここの瞬間は美しさにあふれ、メッセージもよく伝わるが、完成度にやや難アリというところですかね。

サイレンス

Le Silence
1998年,イラン=フランス=タジキスタン,76分
監督:モフセン・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ
音楽:マジッド・エンテザミ
出演:タハミネー・ノルマトワ、ナデレー・アブデラーイェワ、ゴルビビ・ジアドラーイェワ

 ノックの音、スカーフ、3つ編みの後姿、目を閉じた少年の横顔、この最初のイメージだけで、完全に引き込まれてしまう映像マジック。
 目の見えない少年コルシッドは興味を引く音が聞こえるとついついそっちについていってしまう癖があった。そのため、楽器の調律の仕事にもいつも遅刻して ばかり。果たして少年はどうなるのか…
 ストーリーはそれほど重要ではなくて、氾濫するイメージと不思議な世界観が この映画の中心。「目が見えない」ということがテーマのようで、それほど重きを置かれていないような気もする、まったく不思議な映画。

 マフマルバフの映画はどれも不思議だが、この映画の不思議さはかなりすごい。難解というのではないんだけれど、なんだかよくわからない。コルシッドが「目が見えない」ことはすごく重要なんだけど、映画の中で格別問題にされるわけではない。周りの人も「目が見えない」ということを普通に受け入れ、しかしそれは障害者を大事にとか、そういった視点ではなくて、「彼は目が見えないんだって」「へー、そう」みたいな感じで捉えている。
 とにかく言葉にするのは難しい。マフマルバフの映画を見ていつも思うのは、「言葉に出来ないことを映像にする」という映像の本質を常に実現しているということ。だから、言葉にするのは難しい。表現しようとすると、断片的なことか、抽象的なことしかいえなくなってしまう。
 断片的にいえば、この映画にあるのはある種の反復「運命」がきっかけとなる反復の構造。マフマルバフはこの反復あるいは円還の構造をよく使う。音で言えば、はちの羽音、水の音、耳をふさぐと水の音、そして「雨みたいな音を出す楽士」をコルシッドは探す。クローズアップのときに背景が完全にぼやけているというのも、マフマルバフがよく使う手法。この映画では、市場のシーンで、目をつぶったコルシッドと、親方のところ女の子が歩くシーンで使われていたのが印象的、ここでは、画面の半分がアップの顔、進行方向に半分が空白で、ぼやけた背景の色合いだけが見える。
 抽象的にいえば、この映画の本質は「迷う」こと。しかも、目的があってそれを見失ったというよりはむしろ、目的がない、方向がない迷い方。自分がどこにいてどこに行くのか、それがまったくわからない迷い方。「それが人生」とはいわないけれど、迷ってばかりだ。

行商人

Peddler
1987年,イラン,95分
監督:モフセン・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ
撮影:ホマユン・バイヴァール、メヘルダッド・ファミヒ、アリレザ・ザリンダスト
音楽:マジド・エンテザミィ
出演:ゾーレ・スルマディ、エスマイル・ソルタニアン、モルテザ・ザラビ、マハムード・バシリ、ベヘザード・ベヘザードブール

 マフマルバフが強烈な映像で貧困層の人々を描いた3話オムニバス。
 第1話は「幸せな子供」。4人の障害児を抱え、スラム街の廃バスで暮らす貧乏な夫婦が、今度生まれる子供は幸せにしようと、子供を自分たちでは育てずに、誰かに育ててもらおうと奮闘する物語。
 第2話は「老婆の誕生」。年老いた車椅子生活の母と暮らす一人の青年。少し頭の弱い彼は日々懸命に母親の世話を焼いていたが…
 第3話は「行商人」。市場で服を売っていた行商人が突然ギャングに連れて行かれる。それは顔見知りのギャングで、彼にはなにか後ろめたいことがあるらしい。彼はギャングに連れていかれる途中、逃げる方法を考えるが…
 いきなり、氷付けになっているような赤ん坊の映像ではじまるショッキングな作品は、貧困と恐怖で織り上げられた絶妙のオムニバス。果たして万人に受けるのかどうかは別にして、一見の価値はある快作(怪作)。

 とりあえず、各作品の印象に残ったところを羅列しましょう。
第1話:社会批判ともとれるテーマ。父親の鼻にかかった「ハーニエ」。
第2話:主人公が揺り椅子に寝ているショットから部屋をぐるりと回ると朝になっ  ているシーン。割れたガラスをくっつけた鏡。さまざまな映像的工夫。
第3話:羊をさばくシーンは圧巻。3本の中ではいちばん明快。
 と、いうことですが、とにかく、この映画は恐怖と狂気を縦糸と横糸にして織り込んだ織物(ギャベ)のような映画。何だかわからないけど、心臓の鼓動が早まり、ドキドキしてしまう。恐怖映画ではないんだけれど、じわじわと恐怖が内部から涌き出てくるような感覚。
 マフマルバフはイランの中ではかなり社会派の監督として位置付けられ、この映画も、貧困層を扱っているということで社会批判的なメッセージを込めたものとして受け取られるだろう。もちろんそのようなメッセージも込められているのだろうけれど、とにかく映画として素晴らしい。
 とにかくさまざまなアイデアが素晴らしい。アイデアでいえば特に2話目。まず、様々なものを操るひも。死んだように見える母親(時折口をもごもごと動かすことでかろうじて生きているのが確認できる、そのかろうじさが素晴らしい)。割れた鏡をジグソーパズルのようにはめて行くところ、そしてその鏡で見る顔。部屋にかけられた絵(あの絵はかなりいいと思うんだけど、いったい誰が書いたんだろう?)。
 あまり無条件に誉めすぎなので、少々難をいえば、3話目がちょっと弱かった。話としても普通だし、想像を映像化して、どれが現実なのかわからなくするという発想も決して独特とはいえない。3話目でよかったのは、阿片窟のような地下のギャングのたまり場。あんな雰囲気で全編が統一されていれば、かなり不思議でいいものになったかもしれない。しかし、羊をさばくところは本当にすごかった。あれは絶対に本物。喉から空気が漏れる音までがリアル。あー、こわ。

ギャベ

Gabbeh 
1996年,イラン,73分
監督:モフセン・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ
撮影:アームード・カラリ
音楽:ホセイン・アリサデ
出演:ジャガイエグ・ジョタト、アッバス・サヤヒ、ホセイン・モハラミ、ロギエ・モハラミ

 大きな絨毯(ギャベ)を洗う老夫婦の前に一人の美しい娘が現れる。娘の名前はギャベ。しかし、彼女が現実の存在なのかはわからない。幻想か現実か、ともかく、娘は自分の身の上を話し始める。映画は、老夫婦と娘の語る物語を行ったり来たりするが、娘の物語は老夫婦の回想なのか?それとも…
 鮮烈な色彩溢れる映像でファンタジックな世界を描く。実際に1000キロもの道のりをロケして歩いたというマフバルバフの野心作。色鮮やかなギャベをモチーフにした色彩の映画。

 「人生は色彩だ!」と叫ぶ伯父さんの言葉がこの映画の核心を伝える。この叔父さんが唐突に先生として登場するシーンで、花や空を手で捕まえるそのシーンは「色」というものがこの映画の確信であることを十分に伝える。しかし十分過ぎるかもしれない。我々は老婆とギャベなる娘のその鮮やかな青い衣装の一致と、ギェベ(絨毯)の鮮やかな色彩に魅せられ、この映画が色彩の映画であることを即座に了解しているのだから、何の脈略もなくさらりと叫ばれる「人生は色彩だ!」というその叫びだけですべてを了解するのだ。ひたすら白い雪の風景を見て、その色彩の不在に心を打たれるのだ。だから、余計な、子供を諭すような、そして過度に前衛的なそのシーンはなくてもよかった。この映画の色彩はそれだけ鮮烈で、人生が色彩であり、映画が色彩であることはまったく何の説明も不要なくらい明らかなのだ。だから、私は監督のそのサービス過剰に敢えて苦言を呈したい。
 衣装と毛布と自然の色合いだけで、十分物語が成立するのだと言うことを私は学んだ。茶色い山にぽつんと残る色鮮やかな妹の衣装はさまざまなことを語ってくれる、そのことが一度も語られなくとも、白い山にポツリと立つくろい馬の影と、雪の上の残されたスカーフは愛を語る。
 「色」は心を浮き立たせる。土の上に並べられた色とりどりの毛糸玉を見て、川辺に並べられた無数のギャベを見て、私はこの映画を見てよかったと思った。

サイクリスト

The Cyclist 
1989年,イラン,83分
監督:モフセン・マフマルバフ
原作:モフセン・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ
撮影:アリレザ・ザリンダスト
音楽:マジド・エンテザミィ
出演:モハラム・ゼイナルザデ、エスマイル・ソルタニアン、マフシード・マフシャールザデ、サミラ・マフマルバフ、フィルズ・キャニ

 妻が重い病気にかかり、高額の入院費を工面しなくてはならなくなったナシムは、元アフガンの元自転車チャンピオンで、イランにやってきたばかりで仕事もない。何とか見つけた井戸掘りの仕事も入院費の足しにはならない。そんな時、友人が世話になっている興行師から、1週間自転車に乗りつづけるという賭けの対象にならないかと持ちかけられる。愛する妻のためひたすら狭い広場を自転車でくるくる回るナシム。果たして彼は自転車に乗りつづけることができるのか?
 イランでは全国民が見たと言われる、モフセン・マフバルバフ監督の幻の名作。ファンタジックともシュールとも言える独特の味わいがほかのイラン映画とは一線を画する。広角レンズを多用した映像もアバンギャルドで、まったく古さは感じさせない。
 「りんご」を監督した娘のサミラも子役で出演。

 「果たしてこの映画は面白かったのか?」という疑問。「でも、もう1回見たい」くらいの感動。いや、感動といってもそれはいわゆる感動ではなく、こんな映画が存在していたのかという感動。あるいはこんな映画が存在していいのかという感動。
 なにが幻想でなにが現実なのか?と言ってしまうと非常に陳腐になってしまうが、ひたすら自転車に乗るというちょっと考えるとおかしいはずの行為がいつしか英雄的な行為へとすりかわって行く過程、周囲の人々は彼の行為になぜか心を動かされ、彼の姿に感動するのだけれど、自転車に乗っているナシム自身はまったく別の衝動に動かされているかのように自転車をこぎつづける。
 1回ずるをしたからってそれがどうした。妨害する人々と応援する人々がいて、そこに多額のお金が動いているからって、それがどうした。そんなこととはまったく無関係にナシムはこぎつづけるんだ。もう、息子も妻さえも、どうでも良くなっているかもしれない。
 もしかしたら、ここでこぐのを止めてしまったら世界そのものが崩壊してしまうのではないかというような恐怖感にさいなまれながら彼は自転車をこいでいるのかもしれない。
 しかし、しかし、映画自体は彼のそんな心を映し出すわけではない。映画は彼の周囲を執拗に映しつづける。興行師やジプシーの女や、なんか、領事や大使やいろいろな大変な人が出てきて、ドタバタと繰り広げる。
 しかし、しかし、しかし、私が心打たれたのは、ナシムと息子がいっしょに自転車に乗っている場面。自転車側に固定されたカメラは二人の顔をアップで捉え、周りを取り囲んでいるはずの観衆は抽象的な色の集合でしかなくなってしまう。ただ左から右へと移動する抽象的なピントの合っていない図形。その場面は感動的だ。
 でも、いったい何に感動したんだろう? 何が面白かったんだろう? 本当に不思議な映画だ。エンドロール(ペルシャ語だからまったく文様にしか見えない)の背景になったナシム(と自転車)をローアングルから撮ったスチルもなんとなく心に残った。