ゴースト・オブ・マーズ

John Carpentert’s Ghost of Mars
2001年,アメリカ,115分
監督:ジョン・カーペンター
脚本:ラリー・サルキス、ジョン・カーペンター
撮影:ゲイリー・B・キップ
音楽:ジョン・カーペンター、アンスラックス
出演:アイス・キューブ、ナターシャ・ヘントリッジ、ジェイソン・ステーサム、クレア・デュヴァル、パム・グリア

 西暦2176年、火星。84パーセントまでに地球化が進んだ火星の都市に到着した列車。無人のように見えた列車には手錠をかけられた一人の生存者が。彼女は火星の警察の副隊長。いったい何があったのか。他の隊員たちはどこに消えてしまったのか。会議の席上、お偉方が並ぶ中、彼女はことの起こりから語り始めた…
 アメリカホラー界の奇才ジョン・カーペンターが火星を舞台に繰り広げるSFホラー・アクション。舞台を火星にしたところで、カーペンターはカーペンター。トリップ感さえ覚えてしまうほどの勢いで押しまくる。万人に受けるものではないけれど、とにかく痛快。

 いいですねこれは。渓谷についてからはとにかく殺し合いをしているだけなんだけれど、それが痛快。殺し合いが痛快というのはどうも語弊があるけれど、ジョン・カーペンターの殺し合いはあまりに痛快。それは一つはあまりに非現実的であるからであり、もう一つはとにかく徹底的だから。中途半端なヒューマニズムをひけらかしながら殺しを見せるより、こういう風に徹底的に殺す。躊躇なく殺す。とにかく殺したほうが害が少ない。害が少ないというのは娯楽として消化できるということで、「面白かったね」といって現実に戻ることができるというもの。
 同じように痛快な映画に『スターシップ・トゥルーパーズ』というのがあったけれど、これは相手が同じ宇宙人にしても形が昆虫で、だから殺すのに全く躊躇がなかったということ。コミュニケーションも全く取れないし。この映画は姿はほぼ人間なので、『スターシップ・トゥルーパーズ』よりある意味ですごい。人間の姿の敵なのに、殺戮が痛快であるというのはかなりすごい。それでも、自傷行為によってあまりヒトに見えなくするということや、やはりコミュニケーションは全く取れないという点で人ではないということは言える。

 徹底的という点で言えば、徹底的に残酷で、徹底的にグロテスク。CGではなくて特殊メイクで傷なんかを作るのもジョン・カーペンターらしい味で、リアルさは損なわれるけれど、逆にグロテスクさは増すような気がする。
 でも、やっぱり一番感心するのは徹底的に冷たいところだろうね。物語のつくりからして、登場人物たちも観客たちも突き放すような作り方。途中で主役級のヒトがあっさり死んでしまったり(一人しか生き残ってないからどこかで死ぬのはわかっているんだけれど)、とにかく分けもなく殺す。
 結局のところすべての話は殺戮ということに行き着いてしまう。アクションがしょぼいとか、現実的な考察がまるでないとか、行動が理不尽とか、いろいろ文句のつけようはありますが、どれもこれも「殺戮」という話に行き着くということは、そこの部分でこの映画は評価すべきということで、その部分ではこの映画は本当に素晴らしい。だからこの映画は素晴らしい映画だと思う。
 最後の最後の1シーンも、すごくいい。あれがあるとないとでは大違い。さらに観客を突き放すというか、わだかまりを残さないというか、ともかくこれも徹底的なものの一つ。
 その最後も含めて、なんとなくニヤニヤしながら見てしまう。ホラー映画で、結構怖いのに、全体的に言うとニヤニヤという感じ。もちろん生理的に受け付けない人や、怒って席を立ってしまう人もいると思いますが、映画に没入すれば一種のトリップ感を得られる。

 今、思い出しましたが、音楽もカーペンター自身が担当していて、相棒はスラッシュ・メタルの大御所アンスラックス。スラッシュ・メタルとかハード・コアなんて普段は全く聞かないけれど、この映画には非常にフィットしていていい。とてもいい。映画を盛り上げるというよりは、映像と音楽で一つの形になっていて、映画のリズムを作り、映像よりむしろ音楽が観客を操作している。そんな印象もありました。

華氏451

Fahrenheit 451
1966年,イギリス=フランス,112分
監督:フランソワ・トリュフォー
原作:レイ・ブラッドベリ
脚本:フランソワ・トリュフォー、ジャン=ルイ・リシャール
撮影:ニコラス・ローグ
音楽:バーナード・ハーマン
出演:オスカー・ウェルナー、ジュリー・クリスティ、シリル・キューザック

 モンターグは、全面的に禁止されている本を探索し焼却する「消防士」として有能な青年で、上司に昇進も約束されていた。ある日モンテーグは帰りのモノレールの中で近所に住むクラリスという女性に声をかけられ、クラリスは「本を読んだことがあるの?」と聞く。家でテレビを見、くすりで恍惚感に浸るばかりの妻と見た目はそっくりながらはつらつとしたクラリスに魅かれた彼は徐々に彼女と親しくなっていく。
 トリュフォーがレイ・ブラッドベリの近未来SFを映画化。初の英語圏作品だが、ニコラス・ローグ、バーナード・ハーマンなど多彩な才能に恵まれ、フランス語作品に全く見劣りしない作品に仕上がっている。

 最初の「逃げて」「逃げて」「逃げて」からかなりすごい。
 おそらくこれは原作も非常に面白いはずで、それを見事に映像化したトリュフォーもすごいということ。原作ということで言えば、「本が禁じられる」という設定と、それを取り締まる「消防士(fireman)」という発想が非常にうまい(全部が耐火住宅になったからって、消防士がいらなくなるという設定はかなり無理があるけれど)。禁止されるということと欲望との関係、それを本を利用してうまく描いているということ。
 しかし、やはりさらにすごいのはトリュフォー。近未来の世界観。1960年代から見た近未来なので、今頃のことかもしれない。壁にかけられたスクリーン、モノレール、規格化された住宅、などなど細部ではいろいろと「ちょっとね」と思うところもあるけれど、ひとつの寒々しい時代のイメージを作るのに成功している。「消防車」以外に車が全く走っていないというのも非常に印象的な設定である。そして本が燃えていくシーンのすばらしさ。本を読むシーンのすばらしさ。このすばらしさは主人公のモンターグよりむしろ「本」に焦点を当てることによって可能になっているのだろう。もちろん普通に考えれば主人公はモンターグなのだけれど、無表情で言葉すくなな彼の心情を明らかにすることよりも、彼が魅入られた本を描くことで彼と彼に代表される本に魅入られる人々の心理を審らかにあらわす。
 本が燃えていくシーンに心動かされるのは、そのように「本」というものに感情移入ではないけれど、愛着を覚えているから。そしてそのような「本」への愛着を生み出すのもその本が燃えていくシーンであるというのも面白い。繰り返される本が燃やされるシーン、そのそれぞれを自分がどのように見つめているのか、それを見つめ返してみるとこの映画のすごさがわかるのだと思う。
 そのように「本」への愛着がわけば、おのずとラストシーンもしっくり来るでしょう。ラストシーンは映像もとても効果的。ラストに限らず、この映画の映像はかなりいい。特に人間があまりいないシーンがいいですね。ネガとか、そんな実験的なものはちょっとよくわからなかったですが、ただ風景が映っているようなシーン、あるいは人がすごく小さく写っているようなシーンの構図がとても美しかった。

2001年宇宙の旅

2001 : A Space Odyssey
1968年,アメリカ=イギリス,139分
監督:スタンリー=キューブリック
原作:アーサー・C・クラーク
脚本:スタンリー=キューブリック、アーサー・C・クラーク
撮影:ジェフリー・アンスワース、ジョン・オルコット
出演:ケア・デュリア、ゲイリー・ロックウッド、ウィリアム・シルヴェスター

 人類の夜明け、そこには黒く巨大な直方体があった。それに触った猿達は道具を使うことを覚え、他の猿の群れに優位に立てるようになった。それから数百万年後、月へと向かう宇宙船に乗り込んだフロイド博士は極秘の任務を帯びていた。それからさらに数年後、最新鋭の人工知能HAL9000を搭載したディスカバリー号が初の有人木星航海に向かう。
 壮大に映像でひとつの宇宙像を描き出した言わずと知れたキューブリックの代表作。まだまだ赤子に過ぎない人類への壮大な子守歌だと私は思う。

 この映画を見るといつも寝てしまう。劇場で見れば大丈夫かと思ったけれど、劇場で見てもやはり寝てしまった。何も考えず、物語を追い、映像に浸り、ただスクリーンを目で追っていると、どうしようもない眠気が襲う。その心地よさは何なのか。私はこれは一種の子守歌だと思う。宇宙を舞台とした壮大な子守歌。原作を読むと、かなりプロットも複雑で、物語の背景が説明されていて、SF物語として読むことができるけれど、この映画は原作とは別物であるだろう。
 もちろんこの映画にはいろいろな解釈ができ、じっくり考えて自分なりの解釈を導き出すという営為はキューブリックが狙ったことに一つなのだろうけれど、そのために原作なんかの周辺知識を利用することは私はしたくはないので、ただただ「これは子守歌だ」とつぶやくだけで満足する。

2007年のレビュー
  この映画は私にとって映画探求の端緒となった作品のひとつであった。それは何年か前、私がこの作品を劇場とビデオで立て続けに2度見たとき、同じところで眠ってしまったことから起きる。この作品の最終版、サイケな映像でトリップをするあたりからラストのスペースチャイルドが登場する辺りまでうつらうつらと眠ってしまうということが2度続いたのだ。
  そんなことから考えたのは、眠ることもまた映画を見るあり方の一つだということである。眠っていたら映画を見てはいないのだけれど、しかし途中眠っていたとしても映画は見たことになる。その眠ってしまった時間もあわせて映画の体験なのだ。そんなことを考えながら私はこの作品を「宇宙を舞台とした壮大な子守歌」と名づけた。まだまだ赤子に過ぎない人類への壮大な子守歌、それは映画を見ながら眠ってしまった自分自身への言い訳であると同時に、このように心地よく眠れてしまう映画への自分なりの解釈でもあった。
  そこから私は映画を見るということへの魅力にひきつけられて行ったのだ。

 まあ、それはいい。今回改めて見直してみて、最後まで眠ることなく見て思ったのは、この作品が本当に面白い作品だということだ。序盤の類人猿が登場するシーンの、その類人猿のぬいぐるみ然とした演技には40年という隔世の感を感じざるを得ないし、宇宙船などに使われている技術にもSF的想像力の豊穣さを感じると同時に、限界をも感じるわけだが、作品全体としては本当に40年前の作品とは思えない完成度と面白さを保っている。
  まず思うのは、イメージとサウンドによる絶対的な表現力である。この作品は2時間半という時間の作品にしては極端にセリフが少ない映画である。その代わりに映像によるイメージとサウンドによって観客の想像力を刺激し、様々なイメージや想念を喚起する。とくにサウンドは「美しき青きドナウ」のような音楽に加えて、ノイズの使い方が非常にうまい。船外作業をするときのノイズと呼吸音、ただそれだけで彼らの緊迫感が手に撮るように伝わり、「何かが起こるのではないか」という緊張をわれわれに強いる。そして、そのような明確な効果がない部分でも、この作品にはノイズが溢れ、それが静に私たちに働きかけ続けるのだ。
  そして、イメージも実に豊富だ。モノリスという空白をも意味するのではないかと考えうる漆黒の平面と対照的な形で様々なイメージがわれわれに提示される。もちろん円を回転させて擬似重力を作るという方法を映像化したのも見事だが、それ以上にハルのカメラに点る赤いランプや宇宙飛行士のヘルメットに映る明かりによって観客のイメージを喚起するそのやり方が実に見事だ。特殊な技術を使わずとも、そして言葉を使わずとも、観客の側で何かを考えてしまう。実に綿密に計算された映像であると思う。

 この作品が“名作”とされながらどこかで無条件に絶賛されるわけではないのは、理解しがたい部分があるからだ。見終わって誰しもが感じるであろう「だから何なの?」という感覚、この消化不良な感じが引っかかりとして残るのだ。そして、そこから何かを導き出すことができなければ、結局この作品はなんでもなくなってしまう。ただ退屈なだけの映像詩となってしまうのだ。
  そしてそれはこの作品が持つ必然的な欠点である。この作品は基本的に哲学として作られている。それはこの作品のテーマ曲のひとつが「ツァラトゥストラはかく語りき」というリヒャルト・シュトラウスの交響詩であることからも明確に示唆されている。
  哲学とは問であり、それに対峙する人はそれに対する答えを求めるのではなく、答えを探すのだ。哲学に答えはない。哲学にとって重要なのはその答えを探す過程であるのだ。だからこの作品を見ることも、作品が何を言っているかが重要なのではなく、作品が何を言っているのかを考えることが重要なのだ。
  しかし、それは無駄かもしれない。それは結局何の役にも立たないかもしれないのだ。私はそのような無駄も尊いものだと思うからこの作品は絶賛されるべきものだと思うが、果たして本当にそうなのだろうかという疑問は当然だ。
  あるいは、何らかの答えを出して、その答えから演繹して作品に対して否定的な態度をとるというあり方もありえるだろう。そのあり方に対しては私は間違っていると言いたい。なぜならば、この作品自体は何も結論じみたことを行っていないからだ、見る人それぞれが導き出した結論は、作品よりもその見る人それぞれを反映している。人それぞれの世界と人類に対する見方を反映しているのだ。それをもって作品を批判するというのは、結局は思い込みによって世界を観ている自分自身の姿を露呈しているにすぎないのではないか。

 この作品が投げかける、世界とは何か、人類とは何かという問、類人猿と人類の境界はどこにあるのか、そして人間とコンピュータの境界はどこにあるのか。この広大な宇宙において独立独歩歩んできたと一般的には考えられている人類と宇宙との関係をどう捉えるか、それらの問に対する答えは用意されていないし、導き出すこともできない。類人猿は棒を持った瞬間にヒトとなったのか、ハルは機械に閉じ込められた人間ではないのか、デイブの新宇宙での経験は果たして何なのか、それらの問に答えようと真摯に考えること、それこそがこの作品の意味なのではないか。

ミッション・トゥー・マーズ

Mission to Mars
2000年,アメリカ,114分
監督:ブライアン・デ・パルマ
脚本:ジム・トーマス、グレアム・ヨスト、ジョン・C・トーマス
撮影:スティーヴン・H・ブラム
音楽:エンニオ・モリコーネ
出演:ゲイリー・シニーズ、ティム・ロビンス、ドン・チードル、コニー・ニールセン

 2020年、初の有人火星飛行に向かう宇宙飛行士たち。第1陣として出発したマース1の乗組員達は奇妙な山から現れた強靭な力に吸い込まれてしまった。突然消息を絶った飛行士達を心配する宇宙ステーションの飛行士達は…
 火星の謎をサスペンスタッチに描いた作品。物語り全体や、ここのエピソードに出会ってわれわれが期待するよりも全体的にソフトな仕上がりなのはディズニー製作のせいなのか? ファミリー向けSFというところでしょう。

 やはりディズニーが作ると、残酷シーンはなくなるし、火星人も非常に良心的になってしまうし、CGも Bug’s Life と同じになってしまうし、ということなのでしょう。ちょっとあのCG火星人はあまりにちゃち過ぎるんじゃない? と不満たらたら。わざわざ夫婦で宇宙船に乗せるもの「家族愛って大事よ」っていうメッセージを送るための仕掛けなんじゃない? とうがった見方しか出来なくなってしまう。
 山からの「力」に体が吹き飛ばされるシーンも、実際に体がちぎれるというシーンをせっかく入れたのに、そのCG具合が見え見えすぎてちっとも迫力がない。ティム・ロビンスが死ぬところも「あんなもんかー?」という疑問はつきません。やはりファミリー向けなのね。
 文句ばかりが口をつきますが、火星の風景あたりはなかなかうまく出来ていて、特に宇宙空間から火星を見下ろすところなんかはかなりきれい。そのあたりが見所かね。ストーリー的にも全員がいい人なのでどうしても厚みが出にくいのですね。火星人ですら基本的には善意だし、ルークもあっという間に正気に戻っちまうしね。やはりそのあたりがディズニー…(しつこい)

インビジブル

Hollow Man
2000年,アメリカ,112分
監督:ポール・ヴァーホーヴェン
原案:ゲイリー・スコット・トンプソン、アンドリュー・W・マーロウ
脚本:アンドリュー・W・マーロウ
撮影:ヨスト・ヴァカーノ
音楽:ジェリー・ゴールドスミス
出演:エリザベス・シュー、ケヴィン・ベーコン、ジョシュ・ブローリン、キム・ディケンズ、ジョーイ・スロトニック、メアリー・グランバーグ

 「透明人間」のハイテク・ポール・ヴァーホーヴェン版。
 苦労の末ついに生物の透明化と復元をゴリラの段階まで成功させた天才科学者のセバスチャンは、自らを実験台に人体実験をやることを決意する。透明にして3日後に戻すという計画で、軍部の委員会には内緒で。そうして透明になったセバスチャンはいったいどうなるのか?
 SFXを駆使して「透明人間」に現実感を持たせたところはさすが、SFXを使った映像には迫力がある。しかし、いつものっヴァーホーヴェン節と比べるとプロットにはちゃめちゃさがなく、普通の映画になってしまっているのが残念。

 たしかに、映像はすごい。消えてくとこも戻ってくとこも、本当にすごいし、透明なケヴィン・ベーコンが透明なのに、やっぱりケヴィン・ベーコンなところもすごい。しかし、やはりプロットがね。透明になって、精神的にきつくて(つまりストレスね)、それがいつしか周りに対する憎悪に… なんて、普通のハリウッド映画じゃん。やっぱり、ヴァーホーヴェンは警官がロボットとか、宇宙人が昆虫とか、そう言った奇想天外な設定があってこそじゃないですかねえ。  と思いました。
 (ここからは、勝手な話になって行きますが)たとえば、精神的なストレスが原因とかじゃなくて、透明になったがゆえに殺人鬼になるとか(これは怖い。とりあえず意識を取り戻したとたん、近くにいた人を殺してしまう)。
 そのあたりが、不満ですね。しかし、これだけエロイ、グロイ映画を作ったということは素晴らしいと思います。とかくヒューマニズムに傾きがちで、SFX使ってヒューマンドラマを作ってしまうようなハリウッドで、彼の存在は貴重です。PG12くらいはつけてもらわないと、ヴァーホーヴェンも泣きます。
 と、いうことで、懲りずに次回作も見に行くことでしょう。

スターシップ・トゥルーパーズ

Starship Troopers
1997年,アメリカ,128分
監督:ポール・ヴァーホーヴェン
原作:ロバート・A・ハインライン
脚本:エド・ニューマイヤー
撮影:ヨスト・ヴァカーノ
音楽:ベイジル・ポールドゥリス
出演:キャスパー・ヴァン・ディーン、ディナ・メイヤー、デニース・リチャーズ、ジェイク・ビューシイ、ニール・パトリック・ハリス

 地球は銀河系の反対側クレンダス星に住む昆虫が進化した宇宙人バグズの攻撃を受けていた。そんな頃、ブエノスアイレスで高校生活を送っていたジョニー・リコと恋人のカルメン、友人で超能力を持つポールの三人はともに軍隊に入った。3人がそれぞれ軍隊で別の道を歩み始めた頃、地球はバグズとの全面戦争に突入した。
 ロバート・A・ハーラインの1959年の小説の映画化。とにかく単純明快。人間と虫の殺し合い、涙あり感動あり笑いあり、大スペクタクル・スペース・ドラマ。
 とても痛快、素晴らしい作品だと思うが、見ようによってはひどい映画とも言える。特に、残虐シーンが多いので生理的に受け付けないという人は要注意。 

 とにかく、なにもかもがわかりやすい。何せ、相手が昆虫だからね。殺すのに躊躇がいらない(昆虫好きには怒られるか)。そして、権威主義も恋愛も、すべてがもう教科書どおりに描かれている。わかっちゃいるけど熱くなってしまうんだよね。そして、エイリアン的なスリルあり、友情あり、なのですよ。
 さらに面白いのは、人がちぎられたり、虐殺された後の光景だったりといった残虐なはずのシーンがすべて作りものくさいところ。リアルであるような気もするんだけれど、やっぱり作りものなんですね。これはわざとでしょうねやはり。あんなに人形じみた死人を置く必要はないですから。そして、連邦軍のコマーシャル。あのわざとらしい作り方がなんともいえない。これが、ヴァーホーヴェンの反戦の訴えだとは言わないけれど、さまざまな物事を皮肉ったヴァーホーヴェンなりのメッセージであることは確かでしょう。
 ヴァーホーヴェンという監督は何だか、こういう妙な才能がありますね。ヴァーホーヴェンといえば、「トータル・リコール」に「ロボ・コップ」ただの娯楽SFのようでいて、裏になにかにおう。この映画もまたそんな作品でした。 

エイリアン4

Alien Resurrection 
1997年,アメリカ,107分
監督:ジャン=ピエール・ジュネ
脚本:ジョン・ウェドン
撮影:ダリウス・コンジ
音楽:ジョン・フリッゼル
出演:シガニー・ウィーヴァー、ウィノナ・ライダー、ロン・パールマン、ダン・ヘダヤ

 死んだはずのリプリーが200年の時を経て、クローンとしてよみがえった。しかし7度の失敗を経て誕生した8番目のリプリーはエイリアンのDNAを併せ持つ新たな生命体となっていた。宇宙船内でエイリアンを繁殖させる軍人と科学者、そこに密輸にやってくる海賊たち、もちろんエイリアンは逃げ出し、パニックが起きるのだが…
 「デリカテッセン」や「ロスト・チルドレン」といった幻想的な作品で知られるジャン=ピエール・ジュネが監督した異色の「エイリアン」。かなりCGが多用され、前3作とはかなり異なった味付けがなされている。

 3を見て、もう続編はないなと思っていたのに、何だかんだとできてしまった4。それなりに面白いのだけれど、ストーリー展開は単純だし、しかも短いということもあって、「エイリアン」らしさに欠けるという気がした。あまりエイリアンの迫りくる恐怖というのも感じないし。それでもプロットには工夫があってなかなかよかった。特に、ウィノナ・ライダーがXXXX(ネタばれ防止)だという設定は秀逸。
 特撮について言えば、エイリアンそのもののリアルさはCGのおかげか増していたように思えるが、口から飛び出る液なんかはあまりにCGなのがみえみえで残念。
 ジャン=ピエール・ジュネ監督で、ウィノナ・ライダーが出るというので期待していたので、少々期待はずれ。もっとジュネワールドを展開してくれれば(「エイリアン」ではなくなってしまうかもしれないけれど)面白くなったかもしれない。「ロスト・チルドレン」のあの雰囲気を期待してしまったのがいけなかったのだろうか?
 「エイリアン」は“2”が一番好きかな。シガニー・ウィーバーがシュワルツネガー張りで、かなり楽しめたような記憶があります。
 皆さんのお気に入りの「エイリアン」は何ですか?

遊星からの物体X

The Thing
1982年,アメリカ,109分
監督:ジョン・カーペンター
原作:ジョン・W・キャンベル・Jr
脚本:ビル・ランカスター
撮影:ディーン・カンディ
音楽:エンニオ・モリコーネ
出演:カート・ラッセル、ウィルフォード・ブリムリー、リチャード・ダイサート、ドナルド・モファット

 南極のアメリカベースに突然現れたノルウェー隊のヘリコプター。彼等は執拗に一匹の犬を追っていた。狂気に犯されたようなノルウェー隊の二人の隊員は二人とも死んでしまう。それを不審に思ったアメリカ隊の隊員がノルウェーの基地に行ってみると、そこは全滅し、人々の死体と、奇妙な生物の焼死体が残されていた…
 サイコな要素を取り込んで、「エイリアン」とともにこれ以降のSFエイリアン・ホラーの原型となった名作。ホラーの巨匠ジョン・カーペンターの出世作でもある。

 この作品はもちろんエイリアンもののホラー映画ではあるが、同時に犯人探しのサスペンスの要素も持っている。見た目からはエイリアンが寄生しているかどうかわからないために生まれるサスペンスがこの作品の面白みを大いに増す。この構造はもちろん『エイリアン』と同じである。『エイリアン』の公開は1979年でこの作品より3年前だか、『エイリアン』の脚本家はもちろんジョン・カーペンターの盟友ダン・オバノンであり、このアイデアが昔から彼らの作品の構想の中にあったことは想像に難くない。だから、ふたつの作品が似ているのはいたしかたないのだろう。そして、それが現在に至るまでエイリアンもののサスペンス・ホラーのひとつの雛形となったのだ。
 そのような作品としてこの作品は非常に完成度が高い。外界との通交がまったく絶たれるという設定、その中でどこから迫ってくるかわからないエイリアン、仲間に対する疑心暗鬼、エイリアンの気色の悪さ、それをとっても抜群の出来。
 もちろん、この閉鎖空間という設定はジョン・カーペンターのお得意の設定であり、閉じられた中に恐怖の源があり、そこから逃れようと奮闘するというのも彼がずっと繰り返してきた物語展開である。

 しかし、その恐怖の源とはいったい何なのだろうか。果たしてそれは文字通りエイリアンなのか。ジョン・カーペンターがこのような恐怖を繰り返し描いていることからもわかるように、これは必ずしもエイリアンである必要はない。気の狂った殺人鬼でも、若者のギャング団でもなんでもいいが、とにかくそれはわけがわからないが“私”に襲い掛かってくるものでなければならないということだ。それらの映画とこの映画が違うのは、『ハロウィン』のブギーマンはそのものが恐怖の対象であるのに対して、この作品では人間がそのように恐怖の対象になるのは何かに取り憑かれたからだということだ。人間が何かに取りつかれることでわけのわからない恐怖の対象になる。それは非常に示唆的なことではないか。彼らは何かに取り付かれ、他の人間を食い物にし始めるのだ。
 それは別にエイリアンであろうと、狂気であろうと、欲望であろうと、何も変わらないのだ。つまりここでのエイリアンというのは人間か取り憑かれるなにものかの隠喩なのである。
 この物語の主人公であるはずのマクレディも「実はエイリアンなんじゃないか」と思わせる瞬間が映画の中に何度もあるのは、彼もまた何かに取り憑かれているからだ。彼はもちろんエイリアンを抹殺し、基地の外に出ないように奮闘してはいるけれど、果たして本当にそうだろうか。人間側が一枚岩ではないようにエイリアンも一枚岩ではないとしたら、エイリアン同士の殺し合いもあってもおかしくはないのではないか。実はマクレディは他のエイリアンを抹殺し、自分が地球に進出しようとたくらんでいるエイリアンなのかも知れないではないか。
 そのように考えてみると、この映画のラストはある意味ではハッピーエンドのように見えるけれど、非常にもやもやしていやな感じも残す。ジョン・カーペンターはこの作品の続編の構想があった(今もある)らしいのだが、それがどうなるのかはまったく予想がつかない。
 この作品に描かれたエイリアンは、われわれを果てしない不安に陥れる。

金星怪人ゾンターの襲撃

Zontar, The Thing from Venus
1966年,アメリカ,80分
監督:ラリー・ブキャナン
脚本:ラリー・ブキャナン、H・テイラー
撮影:ロバート・B・オルコット
出演:ジョン・エイガー、スーザン・ビューマン、アンソニー・ヒューストン、パトリシア・デラニー

 金星人との交信に成功した科学者のキースは、友人の科学者カートが打ち上げた衛星を利用して、金星人を地球に招く。金星人は進んだ科学力を生かして人間たちを操ろうとするのだが…
 50年代のSF「金星人地球を征服」(ロジャー・コーマン監督)のリメイク。いわゆるB級SFで、セットもちゃちい、役者もへたくそ、ストーリーもよめよめ、という感じですが、60年代のSFってこんなもんかということはわかる。 

 私はB級SFはかなり好きですが、これはかなりすごい。何がすごいって、セットが見るからに張りぼて、金星人が人間を襲わせる鳥みたいのが異常にちゃちい。役者がショボイ。あの将軍が死ぬシーンとか爆笑してしまいました。そして金星人の着ぐるみ加減。登場を引き伸ばすから、どんなのがでてくるのかと思えば、仮面ライダーの敵役よりひどい着ぐるみ具合。あー、脱力、苦笑。
 これを裏返して楽しめるほど、私の懐は深くなかったようですが、これでも楽しめてしまうあなたはきっとB級SFの達人。
 という感じですが、この映画を見て感じたのは、「デジタル」という発想の欠如。サンダーバードを見ているときも思ったんですが、60年代というのは、デジタルという発想がなくて、すべてがアナログです。あんなに高性能なロケットがあるのに、発射の秒読みをする時計はアナログ。「あー、そうなんだー、そうだよね」と妙に感心することしきりでした。