カエルを解剖し、取り出しても動き続ける心臓を映像に記録し、YouTubeにアップする少女、彼女は2005年にタリウムで母親を毒殺しようとした「タリウム少女」を2011年に置き換えたと仮定した人物像。学校ではいじめられるが、数字に執着し、様々な実験の一環として母親にタリウムの投与を始める。果たして今回の実験の結果は…
『新しい神様』の土屋豊が実際の事件をモチーフに現実と虚構、人間をどれだけコントロールできるかなどをテーマに描いた異色作。「身体改造アーティスト」Takahashiも異様な存在感を放つ。

タリウム少女の毒殺日記
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この映画はかなり癖が強い。(おそらく監督の)ナレーションが映画に介入し、物語は分断され、キャラクターはブレる。もちろんそれは演出上の狙いなのだが、こういう映画は苦手な人にはちっとも面白さがわからないものだ。

そんなこともあって、前半は今ひとつ乗り切れない。いきなりカエルの解剖というショッキングな映像からはじまり、タリウム事件、いじめなどかなりスキャンダラスな内容が羅列されるが、ブツ切れのストーリーテリングが劇映画らしさを奪い、かと言ってドキュメンタリーの生々しさもないからだ。しかしその中でも、具体的な科学的事実に触れられる部分は興味を引く。東京国際映画祭出品時の題名「GFP BUNNY」というのは発光するタンパク質を遺伝子に組み込まれたひかるうさぎのこと、そのようなSF的な科学が現実と虚構の境界を曖昧にしていく。

そもそもこの映画は実際に起きた事件をモチーフにしながら、決してそれを再現したドラマではない。時代を置き換え、場所を置き換え、人物を置き換えてしまっているので、どこまでが元の事件に基づいているのかはもはや判然としない。その中にさらにSF的な科学が盛り込まれていくことで、その何が本当の事実なのかわからなくなってしまう。登場するのは本物の大学の先生らしいが、映画の中では彼らが本物かどうかは明らかにされず、その発言が本当かどうかは乏しい知識から推測するしかない。それによってこの映画はますます現実と虚構の境界を曖昧にしていく。

そしてさらには映画と現実の境界をも曖昧にしようとする。映画の中でこの主人公の「タリウム少女」の撮った動画が「だれでも見ることができ、著作権も放棄されている」と語られるが、実際にそうなのだ。そのことは映画を見ながら確認することはできない。劇中に登場し、強烈な存在感を放つTakahashiも実在する身体改造アーティストだが、彼女が演技をしているのか、現実でもそのままなのかは判然としない。

つまりこの映画はここで上映される映画という枠を越えて現実にまで侵入していく。あるいは現実と虚構との区別を設けずその両方をがぐちゃぐちゃになった世界の一部を切り取っている。

私たちの日常というのも実は現実と虚構がごっちゃになった世界に成立している。この映画はそのことを「身体」に焦点を当てて私たちに見せるのだ。整形をした身体は現実なのか虚構なのか、遺伝子改変した生物は現実なのか、「人体にICチップを埋めるなんて倫理的に許されない」なんていうセリフも出てくるが、人間の倫理なんてそもそも虚構なのではないか?

そのようにしていろいろなものをどんどん曖昧にしていくことで観る者を混乱させる。混乱の先に何があるかはわからない。この監督はパンクなのだ。常識を疑い、常識を疑えと訴え、混乱させる。だから見ていてすごく居心地が悪い。面白いと思えない。でも見終わってみると気になって仕方がない。そうではないかもしれないけれど、そういうことだ。

DATA
2012年,日本,82分
監督: 土屋豊
脚本: 土屋豊
撮影: 飯塚諒
出演: Takahashi、倉持由香、古舘寛治、渡辺真起子

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