La Dolce Vita
1959年,イタリア=フランス,185分
監督:フェデリコ・フェリーニ
脚本:フェデリコ・フェリーニ、エンニオ・フライアーノ、トゥリオ・ピネッリ、ブルネッロ・ロンディ
撮影:オテッロ・マルテッリ
音楽:ニーノ・ロータ
出演:マルチェロ・マストロヤンニ、アニタ・エクバーグ、アヌーク・エーメ、バーバラ・スティール、ナディア・グレイ
雑誌記者マルチェロの見たイタリアの社交界、芸能界のエピソードをモザイク的に描いた3時間の大作。そのプロットはマルチェロと様々な女性との関係によって展開してゆくが、陰の主役とも言えるのはローマの街であり、ローマの姿を描くための作品であるといってもいいかもしれない。
喧騒と頽廃の街ローマ、その街に田舎からやってきたマルチェロ。ローマ人然として振舞うマルチェロは年の頽廃の香りと田舎の純粋さとを併せ持った人間であり、その間で揺らぐ存在である。その揺らぎを象徴的に示す女性たちの中から彼は誰を選び、誰を捨て、誰に捨てられるのか?
マルチェロが主に関わる女性は、婚約者のエンマ、富豪の娘マッダレーナ、ハリウッド女優シルビア、それに加えてレストランの少女である。それぞれが象徴しているものを単純に示すことはできないが、空間的に解けば、エンマ=街、マッダレーナ=社交界、シルビア=芸能界、少女=田舎、あるいは時間的に解けば、エンマ=現状、マッダレーナまたはシルビア=別世界、少女=過去。
つまり、これらの女性が示しているマルチェロの揺らぎというのは、現状のローマの街人としての生活から抜け出し、社交界あるいは芸能界に入り込見たいという気持ち、しかし現状あるいは過去の純粋さというものを捨てきれないという点にある。しかし、シルビアとマッダレーナには結果的に拒否され、社交界あるいは芸能界に入り込むことは成功しない。それでも、社交界の端っこに何とかとどまったマルチェロが、ローマの浜に打ち上げられた奇妙な魚を見、少女の呼ぶ声を振り切って去ってゆくラストシーンは何を象徴しているのか?
あるいは、マルチェロの視点にとらわれず、観衆としてこの作品を見るならば、長々としたエピソードで語られるシルビアとのデート?や城でのパーティは貴族的な頽廃と非生産性を象徴しているに過ぎない。意味のない退屈な遊びを繰り返す人々の冗長な生活は魅力的であるよりむしろ不毛な朽ちつつあるもののように映った。そう考えるならば、ラストシーンの奇妙な魚(多分エイダと思う)こそがその社交界というものの暗喩として登場しているのであり、それは奇妙な魅力を放ちはするけれど、(エイだとすれば食べられないのだから)現実的な有用性にはかけ、かつ朽ちつつある滅び行くものであるという意味がこめられているのかもしれない。
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