てんやわんや

四国独立という奇抜な話ながら意外に人情話なコメディ映画。

1950年,日本,96分
監督:渋谷実
原作:獅子文六
脚本:斎藤良輔
撮影:長岡博之
音楽:伊福部昭
出演:佐野周二、淡島千景、志村喬、藤原釜足、三井弘次、桂木洋子

 東京でサラリーマンをしていた犬丸順吉は東京がいやになり会社をやめる。しかし世話になった社長の言いつけで社長の郷里である四国は伊予に行くことになる。そこで知り合った町会議員の越智らから四国独立計画の話しを聞かされ、いつの間にか巻き込まれていってしまう…
 獅子文六の同名小説の映画化。宝塚の娘役トップスター淡島千景が松竹に入社し、映画デビューを飾った作品

 敗戦から5年後の日本、まだまだ民主主義なんてものは定着していない。そんな中、四国を独立させようと考える3人の男たち。そもそも四国を独立させようというのに仲間が3人しかいないってのがすごい話しだし、独立しようという理由もよくわからない。しかし、よくわからない時代にはよくわからない人がいるもので、まあそんなこともあるんだろうなぁと納得してしまったりもする。

 しかし、そのことと主人公の犬丸順吉とはあまり関係がない。この若者はただ東京から逃げ、選挙運動がいやだからといって仮病を使い、山奥の家で知り合った美貌の娘(桂木洋子)に熱を上げてしまう。東京には世話になった社長と知らぬ中ではないその秘書のこれまた美貌の娘(淡島千景)がいる。

 この淡島千景は本当にきれいだ。登場シーンからして会社の屋上で水着姿で日光浴をしているというのだから、その美貌と肉体美とがこの映画の売りになっていることは一目瞭然。宝塚の大スターが銀幕デビューするのだから、まあそのくらいのことはやってもいいだろう。淡島千景はこのあと順調にスターへの階段を上っていくだけあってただきれいなだけではなく、演技もそつなくこなす。松竹三羽烏の一人である佐野周二を無効に張って遜色のない存在感だ。

 さらに脇役も志村喬、藤原釜足、三井弘次と芸達者がそろいみんなうまい。

 にもかかわらずこの映画が今ひとつ面白くないのは脚本がよくないせいだろう。ただ時間が過ぎるだけではらはらやどきどきという要素がない。コメディ映画化と思いきや笑いもほとんどない。人情話的な感じは随所に感じられるが、いろいろな話が盛り込まれて注意が散漫になってしまうので今ひとつ盛り上がらない。

 原作は獅子文六の新聞小説。原作のほうはもう少し面白そうな感じがするのでなんとももったいない映画だと思ってしまう。

風花

メロドラマの名手木下恵介の実験的モダニズムメロドラマ

1959年,日本,78分
監督:木下恵介
脚本:木下恵介
撮影:楠田浩之
音楽:木下忠司
出演:岸恵子、久我美子、有馬稲子、川津祐介、笠智衆

 長野県の寒村の名家名倉家の使用人春子は戦時中に名倉家の次男英雄との心中を試みるがひとり生き残り、息子捨雄を生んだ。捨雄は使用人として扱われながらも跡取り娘のさくらに思いを寄せるが、そのさくらもついにお嫁に行くことになり…
 木下恵介が農村を舞台に展開するメロドラマ。時間軸を交錯させる語りが斬新だが、内容はきわめて古典的。

 “家”へのこだわり、体面を過剰なほどに気にする考え方、男女関係に対する頑なな制限、そんな古きよき(?)日本の考え方が如実に現れた農村の名家を舞台にしたメロドラマ。その中心にいるのは東山千栄子演じる“おばあちゃん”。8歳年下の男のところに嫁に来たことで後ろ指を差されながら、夫亡きあとも家名を守るためにひとり奮闘し、“心中”などという恥さらしな行状に及んだ春子と英雄を許すことはない。

 この東山千栄子の「やなババア」加減がものすごい。捨雄や長男の嫁であるたつ子が屈辱に耐えてこぶしを握るその姿が目に浮かぶようだ。しかし最も屈辱的に感じていいはずの春子はまったくと言っていいほど反発心を見せない。忍従しているという感じでもなく、むしろすべてをあきらめているという感じだ。それはこの作品の登場人物のほとんどが縛られている日本的な価値観によるものだろう。心中に失敗したことで春子は自分が死んだも同然だと感じ、何の意欲も希望も持たずに生きる。死んだ英雄とその家族に対する申し訳ない気持ちもそれを後押しする。だから彼女からはもはや感情が失われてしまっているのだ。

 この作品はそのような登場人部たちの感情をつぶさに描きながらクロースアップという手法はとらず、徹底的にロングショットで関係性をとらえる。そのどこか覚めた感じが私はいいと思ったが、メロドラマ的にはもっとそれぞれの人物に迫ってどろどろとした心のうちを吐露させたほうが盛り上がったようにも思える。

 あえて時間軸を交錯させ、まったく同じシーンを反復し、不自然にも思える展開に仕上げたことも含めてこの作品はどこか木下恵介の実験という印象が強い。木下恵介といえば『喜びも悲しみも幾歳月』のような“ベタ”なメロドラマを作るという印象が強いのだが、単に古典的な文法を踏襲してメロドラマを作り続けるだけではこれほどまでに名を残すことは出来なかったはずだ。今の目から見れば“ベタ”と見える作品の数々も実はその時代時代の手法を取り入れ、工夫して作り上げたものなのだということは間違いがない。そしてこの『風花』はそのような時代感覚を取り入れる作品の一つ、50年代末から60年代に日本映画界を席巻するモダニズムとメロドラマを融合させようという試みの一つであったのだろう。

 はっきり言ってその試みは成功してはおらず、ぎこちない作品になってしまった印象は否めないが、黄金期の日本映画を見通す上で一つのヒントを与えてくれる作品ではないかと思う。この時代の日本映画のファンならぜひ見ておきたい作品だ。

地下水道

Kanal
1956年,ポーランド,96分
監督:アンジェイ・ワイダ
脚本:イエジー・ステファン・スタヴィンスキー
撮影:イエジー・ヴォイチック
音楽:ヤン・クレンツ
出演:タデウシュ・ヤンツァー、テルサ・イジェフスカ、エミール・カレヴィッチ、ヴラデク・シェイバル

 1944年ワルシャワ、レジスタンスの一中隊が廃墟で敵に囲まれる。ドイツ軍による攻勢に抵抗するが死者、負傷者を出し本部の指令でやむなく地下水道を通って撤退することに。しかし、その地下水道も汚臭と暗闇に覆われた迷宮で撤退は困難を極める…
 アンジェイ・ワイダがワルシャワ蜂起を描いた“抵抗三部作”の第2作。57年のカンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞した。

 物語はワルシャワ蜂起がすでに鎮圧されようとしているところから始まる。亡命政府の指令でソ連軍の支援を当てにして始まったワルシャワ蜂起だったが、ソ連軍がワルシャワに到達できなかったことで戦況は絶望的になり、レジスタンスは敗走を余儀なくされることになる。ワルシャワ中に張り巡らされた地下水道(つまり下水道)は彼らがドイツ軍に見つかることなく移動できる唯一の手段であり、多くの命を救った。

 この作品は敗走する一中隊がその地下水道を行軍する様子を克明に描く。実際にそれを体験したイエジー・ステファン・スタヴィンスキーによる脚本には迫力があり、モノクロの画面から伝わってくるのは常に絶望だ。

 ここに描かれるのは祖国のために立ち上がった人々が侵略者によって虐げられる姿だ。しかし印象的なのは、そこにドイツ兵の姿がほとんど登場しないということだ。最初に攻撃されるところでも攻撃してくるのは戦車である。しかし銃弾や砲弾によってドイツ軍の存在は明瞭にわかる。そして、この見えないものへの恐怖というのがこの作品全体を覆い、地下水道に入ってからも毒ガスや手投げ弾という形で彼らを襲うのだ。

 この「見えない」ことによって恐怖はリアルになる。多くの人々にとって恐怖のもとは見えないものだ。それは日常でも戦争でも。見えないからこそいつ襲われるかわからない恐怖が生まれ、人間の心を圧倒してしまう。ワイダは戦争が人に植え付ける恐怖をドイツ兵を“見せない”ことによって描いた。それが彼の非凡なところなのだろう。

 そしてその「見えない」恐怖は彼がこの映画を作ったリアルタイムの現実についても言えるはずだ。彼が味わう、検閲・迫害・粛清という恐怖。現代のわれわれから見ればこの作品にはそんな彼自身の恐怖の匂いも漂っているように思える。祖国のために闘って死んでいった人たちの死が犬死になってしまうような現状、ナチスドイツの残酷さを描いているようでいて、彼は彼らの死の虚しさを描いているのではないかという気がしてくる。

 それでもこの作品に希望があるのはそこにかすかに存在する青春のためだ。どんなに悲惨で絶望的な状況でも若者はどこかに希望を見出し、もがく。その結果がどうあれ、青春とは生きることだ。自身もまだ若かったアンジェイ・ワイダがこの作品でやりたかったのは恐怖に圧倒される中でも希望を失うなと自分に言い聞かせることだったのではないか。そうでなければ暗黒の中では気が狂ってしまうのだ。

 重苦しく、見ていて楽しい作品ではないが、見なければならない作品でもある。

世代

Pokolenie
1954年,ポーランド,88分
監督:アンジェイ・ワイダ
原作:ボフダン・チェシコ
脚本:ボフダン・チェシコ
撮影:イエイジー・リップマン
音楽:アンジェイ・マルコフスキ
出演:タデウシュ・ウォムニッキ、ウルスラ・モジンスカ、ズビグニエフ・チブルスキー、ロマン・ポランスキー

 ナチスドイツ占領下のポーランド、ドイツ軍の石炭を盗んで憂さを晴らしていたスターシュは仲間が殺されたのを機に工場で働くようになる。そしてそこで労働者の団結について知り、レジスタンス活動に関わるようになってゆく…
 アンジェイ・ワイダの長編デビュー作で『地下水道』『灰とダイヤモンド』とつづく“抵抗三部作”の第1作。情熱にあふれた意欲作。

 この作品は何も知らなかった青年スターシュが共産主義思想に触れて感化され、レジスタンス運動へ参加してゆく過程が描かれている。この作品が作られたのは1954年、戦争が終わって約10年、ソ連の強い影響下にある社会主義政権による検閲が映画に対しても行われていた。この作品はもちろん検閲にはまったく引っかからない。むしろマルクス主義の精神を賛美する作品として“文部省推薦”になってもいいくらいのものだ(そんな制度が当時のポーランドにあったかどうかは知らないが)。

 しかし、そんな体制迎合の作品であっても(実はそうではない部分もあるのだが、それは後述する)、アンジェイ・ワイダの才能はあふれ、これがデビュー作とは驚きだ。

 一人の青年の成長をレジスタンスとナチスドイツの対立を軸に語り、そこにもう一つのなぞの勢力を絡めるプロットのうまさ、スターシュを中心に思想と友情と少々の恋愛を描いてゆく物語のふくらみ、それらのストーリーテリングのうまさがまずひかる。

 そしてワイダを特徴付けるのはやはり映像だ。アンジェイ・ワイダの特徴はモンタージュ(映像の組み合わせ)によって語るという映画の古典的な文法の使い方のうまさなのかもしれない。クロースアップ、ロングとさまざまなサイズを使い分け、カットの切り替えによって物語を展開していく。

 たとえば、スターシュが材木運びの際にドイツ軍につかまってしまう場面、ほとんどセリフはないが、画面の動きやスターシュの表情によってそのエピソードの意味、スターシュとドイツ兵たちの感情は手にとるように伝わってくる。この手法はサイレント映画によって洗練されたモンタージュの技法を想起させる。ワイダ自身はサイレント映画を撮ったことはないが、サイレント映画を観ながら育った世代だろう。それが彼の映画美学を育てたのではないかとこのデビュー作から推察できる。

 さて、そんなワイダがデビューしたこの作品は社会主義体制のお気に召す必要があった。しかし彼自身は決してマルクス主義の信奉者ではなかった。彼はこの作品の中でナチスドイツを批判し、資本主義を批判している。ナチスドイツへの批判はもちろんのこと、資本主義への批判もある程度は本心だろう。しかしだからと言って彼が共産主義者だとはいえない。

 この作品が語りかけるのは体制への反抗である。体制というものは人々のことを考えてはくれない。ここで名指しされ批判されているのはナチスドイツだが、その背後に現在の社会主義体制に対する不満があることも今見れば明らかだ。

 そしてこの“世代”というタイトルも秀逸だと思う。その意味は最後の最後に明らかになり、観客はスターシュと同じ哀しみともあきらめとも、あるいは逆に希望とも取れる感情に襲われる。戦争の時代には一つの“世代”というのは10年20年単位ではなく、数年単位になってしまっている。その厳しい現実の中で若者はあっという間に年をとってしまう。それはなんとも悲しいことだ。

灰とダイヤモンド

Popiol i Diament
1957年,ポーランド,102分
監督:アンジェイ・ワイダ
原作:イエジー・アンジェウスキー
脚本:アンジェイ・ワイダ、イエジー・アンジェウスキー
撮影:イエジー・ヴォイチック
音楽:フィリッパ・ビエンクスキー
出演:ズビグニエフ・チブルスキー、エヴァ・クジジェフスカ、バクラフ・ザストルジンスキー

 1945年、ポーランド。ふたりの男マチェックとアンジェイが共産党の書記シチューカの暗殺を試みるが人違いで失敗。その日、戦争が終結し、祝賀ムードが漂う中、マチェックは偶然にシチューカを発見し、暗殺を実現しようとするが…
 ポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダがその名を世界に知らしめた名作。『世代』『地下水道』につづく“抵抗三部作”の第3作。

 この映画から真っ先に感じるのは「混沌」である。物語は第二次世界大戦が終わった日、ソ連の影響下で共産主義化しつつあるポーランドとそれを阻止しようとする勢力が対立する。この映画が作られた当時、ポーランドは完全に共産主義政権下にあったのでその抵抗勢力は“ゲリラ”として描かれている。しかし、“ゲリラ”である彼らの出自はワルシャワ蜂起にあることが見て取れる。

 ワルシャワ蜂起は1944年、ポーランド国内軍がドイツ占領軍に対して蜂起した事件である。この蜂起にはソ連軍による働きかけもあったのだが、ソ連軍はドイツ軍の抵抗にあってワルシャワに到達できず、ポーランド国内軍はドイツ軍に鎮圧され、国内軍の一部は地下水道を伝って南部の解放区に脱出した。

 最終的にソビエト軍はポーランドをナチス・ドイツから解放したわけだが、同時にこのワルシャワ蜂起の際の苦い記憶もある。映画の中でも描かれているようにブルジョワは共産主義体制が固まる前に西側に脱出してしまう。

 この映画が描いているのは、戦争が終わりドイツ軍はいなくなったがまだ次の支配者は確立されていない混沌がきわまった一日なのである。共産党の書記を暗殺しようという動きと、ゲリラを鎮圧しようという動き、共産党の書記はブルジョワの家とつながりがある。誰もが次の一歩をどこに踏み出すかを迷っているようなもやもやとした空気がそこらじゅうを覆っているのだ。

 そしてそのような政治状況とは別に個人の生活がある。戦時にはいやおうなく抗争や戦争に巻き込まれてしまったが、戦争が終わったのなら平凡な生活がしたいと望む人も多いだろう。しかし抗争は続き、平凡な生活は容易には手に入らない。

 『灰とダイヤモンド』というタイトルが意味するところは、戦火が生み出した大量の灰の中に埋もれる平凡な生活こそがダイヤモンドの輝きを放つものなのだということなのではないか。この言葉はポーランドの詩人ノルヴィトの詩の中の言葉ということだが、作中で語られた詩からは今ひとつこの言葉の意味をつかめなかった(単に私の理解力不足かもしれないが)ので、そんな意味にとって見ることにした。

 そのダイヤモンドをつかむため混沌という灰の中を這い回らなければならない人々、そんな人々にとってこの混沌の意味するところは何なのか。そこにワイダはある種の虚しさを見出してしまっているのではないか、そんな気がしてならなかった。

 アンジェイ・ワイダの演出はその混沌を非常にうまく表現する。逆さ吊りのキリスト像、突然現れる馬、楽隊の調子はずれの音楽、そして最後のゴミ捨て場、それらは整然と物語を進行させる映画の構築の仕方とは異なる混沌の表現に違いない。そして混沌の中で局面局面に生じる緊張感がこの映画を稀有なものにしているということができるだろう。

 このように混沌とした作品になった理由には共産主義体制化での検閲を通過しつつメッセージを伝えるために象徴的な表現を使わざるを得なかったことにも起因しているだろう。しかし、それがポーランドにとって決定的な終戦の日を描くのに最も適した方法でもあり、映画が作られた当時の状況をも表現しうる手段であったともいえるだろう。

 アンジェイ・ワイダが体現する世界をもっと掘り下げてみたいと思わせてくれる作品だ。

地獄門

1953年,日本,89分
監督:衣笠貞之助
原作:菊池寛
脚色:衣笠貞之助
撮影:杉山公平
音楽:芥川也寸志
出演:長谷川一夫、京マチ子、山形勲、黒川弥太郎、阪東好太郎、沢村国太郎、殿山泰司

 平安末期、平清盛の臣下の武士・盛遠は平康の乱で上西門院の身代わりにたった袈裟という女の車を守る役に任ぜられ、その袈裟を助けて兄の家に連れて行ったとき、その袈裟の美しさに心を奪われる。盛遠は京を留守にしている清盛の下に謀反の知らせを届けて武勲を挙げる…
  菊池寛の原作を衣笠貞之助が脚色し、監督。大映第一回の総天然色映画で、大映の看板スター長谷川一夫と京マチ子が共演した時代劇ドラマ。

 時代劇とは、そもそも日本のアクション映画であった。日本で映画が作られ始めた当初から、時代劇での大立ち回りは映画の花、観客を喜ばせる時代劇の目玉だった。そして、黒沢明の登場により、時代劇のアクション映画として娯楽性はさらに増し、現代劇にも劣らないスピード感と面白さを持つ時代劇が次々に作られた。そして、その多くはシリーズという形で同じ主人公を擁して次々と作品が作らるにいたり、完全に娯楽映画の花形となる。長谷川一夫もその例に漏れず、51年には『銭形平次捕物帳』という人気シリーズを生み、10年間で17本が制作されている。しかし、この作品では、立ち回りといえるようなアクションシーンはほとんどない。映画の中盤で唯一、浜辺での斬りあいのシーンがあるが、これはオマケのようなもので、このシーンがどうしても必要だったというわけではない。
  そう考えてみると、永遠の二枚目・長谷川一夫には必ずしもアクションシーンは必要なかった。勝新太郎の時代劇にはどうしてもアクションシーンが必要、というよりはアクション映画として作られなければ勝新太郎の映画になり得ないわけだが、長谷川一夫の時代劇は彼のアクションがなくとも成り立つということである。

 しかも、この映画がすごいのは、主役である長谷川一夫演じる盛遠が決して「いいもの」ではないという点だ。映画の冒頭では謀反を起こした兄に与せず、結果的に兄が加わった謀反の軍に勝利して武勲を挙げるということで、彼がヒーローになる可能性を秘めているわけだが、「おごる平家は久しからず」の言葉もあるように、彼らの行く末は歴史の証言がすでに語ってしまっている。滅び行く平家の中で彼がどのような活躍を見せることができるのかというのは、映画が進んで行く中で疑問を強めて行く。
  そこでこの映画は物語を大きく展開する。歴史上の出来事を描いたものから、その時代の色恋を描いたものへと物語をすりかえて行くのである。その中で盛遠はひとの女房に横恋慕をする横暴な男へと変貌する。気持ちがまっすぐなのだといえば聞こえはいいが、結局はひとの女房を寝取ろうとしている男、今ならばそんな話はごろごろしているが、時は平安、ひとの妻が他に好きな男が出来たからと言っておいそれと夫を捨ててその男のもとへと行っていいはずもない。しかも、その相手の袈裟が盛遠に恋しているわけでもなさそうなのだ。いったいこれはどんな物語なのだろうか。男の純愛の物語なのか、それとも男のエゴイズムの物語なのか。これがもし成瀬巳喜男によって映画化されていたならば、情けない男に振り回される女の悲劇として描かれていただろう。しかし、衣笠貞之助は基本的に盛遠を「悪者」にし、袈裟の夫である渡を「いいもの」にした。盛遠は無軌道で自分勝手な武士の代表であり、渡は思慮分別のある人物として描かれているのだ。しかし、この構図からいったい何が見えてくるのか。
  私にはここから見えてくるのは男の身勝手さしかないように思える。盛遠はもちろんのことながら、渡も結局は袈裟のことがわかっていたのか。自分も渦中に巻き込まれた袈裟と盛遠の事件を気にしないということは、袈裟に対する態度表明としてはやさしさになるのかもしれないが、世間に対しては妻に対する風評を野放しにしているということになってしまう。彼は武士ではなく貴族だから、そのような柔らかな物腰を取ることが美学として成立しているのかもしれないが、この作品に登場する彼の同僚たちは必ずしもそのような彼の態度をよしとはせず、武士的な価値観を見せる。そのような世間に対しては彼も武士的な強い態度を見せなければならなかったのではないか。そうしなければ、結局袈裟は盛遠に振り回され、どうにもならない苦境へと追い込まれていかざるを得ないのだ。
  そう考えると、この作品はひとつの時代の大きな変化、貴族の時代から武士の時代へという大きな変化を描いてもいると考えることもできるのかもしれない。旧時代の象徴たる渡と新時代の象徴たる盛遠、このふたりが一人の女をめぐって争うことで、その時代の違いを明らかにする。そして、そのどちらが、ということではなく、その違い時代の意味を浮かび上がらせようとするのだ。
  そのような映画の中で長谷川一夫はやはりスター性を発揮する。悪者であるのに魅力的、袈裟も夫への貞節と夫への思いを引きずりながら、盛遠に魅かれずにはいられない。あからさまに盛遠になびくということはないのだが、彼の体からは魅力が発散され、彼女をひきつけている事は画面を通してうかがい知ることが出来る。若かりし日の余りマスクとは違うけれど、さすがに武士らしい力強い演技が光る。

 さて、この作品はイーストマンカラーでの総天然色作品。大映は初めてのカラー映画の制作の題材に時代劇を選んだ。日本初の総天然色映画といえば、松竹の『カルメン故郷に帰る』だが、これはもちろん現代劇、しかもほとんどがロケでの撮影であった。これは当時のカラーフィルムが非常に強い光を必要としたため、スタジオ撮影での撮影は困難だったからだ。にもかかわらず、大映はセット撮影による時代劇を企画した。もちろん全てが人工の照明ではないが、それでもその挑戦には頭が下がる。
  そのために、衣装をはじめとした美術の色彩に力が注がれる。今はもう失われた平安時代の人々の生活のなかの色彩を再現すること。それは歌舞伎などの演劇での経験はあるものの、映像としてそれを再現するのは初めての体験である。それはまるで無から何かを作り出す作業であり、非常に困難を伴うことだったのではないかと思う。この作品はカンヌ映画際でグランプリを撮ったことで有名だが、実はアカデミー賞も受賞していて、しかもその賞は「衣装デザイン賞」、受賞したのは色彩考証を担当した和田三造であった。この和田三造は50年代に大映・東映の時代劇で色彩考証を担当している。この和田三造は本業は洋画家で、日本色彩研究所を設立した研究者でもある。アメリカのアカデミー賞が日本の時代劇に衣装デザイン賞を贈ったというのも不思議な話だが、この作品にはそれだけ大映の力が込められているということは確かだ。さらにいうならば、この作品の撮影は杉山公平となっているが、ロケ撮影では宮川一夫がカメラを握ったらしい。杉山公平は昭和初年の『狂った一頁』から衣笠貞之助とコンビを組んでいる巨匠だが、宮川一夫も戦前から定評のある名手、このふたりを起用したということはそれだけ映像に力が入っているということの証拠である。
  出演者たちのメイキャップには違和感がないこともない(ほっぺたが妙に紅い)が、衣装の絢爛さや馬あわせのシーンなどの映像のダイナミックさなどは見事の一言に尽きる。

張込み

1958年,日本,116分
監督:野村芳太郎
原作:松本清張
脚本:橋本忍
撮影:井上晴二
音楽:黛敏郎
出演:大木実、宮口精二、高峰秀子、田村高広、菅井きん、高千穂ひずる、浦辺粂子

東京発鹿児島行きの汽車に駆け込んだふたりの刑事、電車は混みあってなかなか座れず、まる1日以上かけてようやくたどり着いたのは佐賀。まず地元の警察により、犯人がやってくるのではという目当ての家の目の前にある旅館に部屋をとる。犯人の元恋人と思われる女は毎日平凡な日常を送る主婦で、張り込みは成果のないまま何日も続いていく。

10本以上の清張作品を映画化した野村芳太郎による清張作品の第1作。脚本には黒澤作品で知られる橋本忍、音楽は市川崑、小津安二郎など数多くの作品に参加している黛敏郎と豪華な顔ぶれ。

映画はいかにも良質のサスペンスという感じだが、直接ストーリーにはかかわりのない部分を膨らませ、ゆったりとしたリズムで進むあたりが、味がある。

最初の汽車での長い旅から、徐々に事件の全貌と柚木の抱える事情が明らかになっていく展開の仕方がなかなかうまく、「どういうことなんだ?」という疑問を抱かせたまま中盤までトントンと進んでしまう。そして後半は一気に物語が展開し、サスペンスらしい面白さに満ちる。

とは言っても、決して派手な立ち回りなんかがあるわけではなく、非情に微妙な真理的な展開で話を転がしていくところがいい。

宮口精二扮する下岡刑事と旅館の仲居たちとのやり取りなんて物語にはまったく関係ないのにとても魅力的だ。こういう瑣末なことが実は重要で、隣に泊まったアベック(アベックという言葉もなかなか時代がかっていて印象的)が事件に絡んでくるんじゃないかとかいらない邪推をしてしまうのもサスペンス映画を見る楽しみなわけです。

サスペンスを見るとどうしても、いまのTVサスペンスと比べてしまう(いま日本映画ではこういうサスペンスというものはほとんど存在していない)けれど、それと比べるとやはり非情に慎ましやかでいい。扇情的な音楽を使うのでもなく、クロースアップを使うのでもなく、唯一映画的な効果といえば大木実のモノローグくらいでそれでも十分にサスペンスフルな展開にする。画面のサイズとか予算の違いもあるけれど、それだけ力強いものを現在の日本では作れなくなっているということなんだろう。

クロースアップといえば、ふたりの刑事のクロースアップはたまにはさまれる(1度などはおでことあごが切れるくらいのものすごいクロースアップ)のに、高峰秀子のクロースアップはまったく出てこない。これは張込みする刑事の側に視点を置くために非情に周到なやり方で、なかなかその表情をうかがい知ることができないところで張込みする刑事の焦燥感のようなものを観客が共有できるように作られている。

そんななか、ロングで捉えても高峰秀子はすばらしい演技をしている。背中で、肩で、そして傘でも感情を表す。高峰秀子はこのとき34歳で、3人の子がいる母親役をやってもおかしくないはずなのに、童顔のせいかすごく若く見えるし、そのような立場に不似合いに見えるというのも映画にぴたりとはまる。

高峰秀子はいいですねぇ。

獅子座

Le Sugne du Lion
1959年,フランス,100分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:ニコラ・エイエ
音楽:ルイ・サゲール
出演:ジェス・ハーン、ヴァン・トード、ミシェル・ジラルドン、ステファーヌ・オードラン、マーシャ・メリル、ジャン=リュック・ゴダール

音楽家を名乗って遊び暮らすピエールのもとに大金持ちのおばが死んだという電報が届く。遺産で大金持ちだといきまくピエールはパリ・マッチで記者をするジャン=ピエールをはじめとする友達を呼び、ジャン=ピエールにお金を借りて派手なパーティをする。しばらく後、ピエールは姿を消し、人々はピエールに遺産がはいらなっかったのだとうわさする…

「カイエ・ドゥ・シネマ」の編集長として理論面でヌーベル・ヴァーグを支えてきたエリック・ロメールが39歳にして始めて撮った長編映画。現在ではヌーベル・ヴァーグを代表する監督のひとりとなっているロメールの見事なデビュー。

何が“ヌーヴェル・バーグ”か? という疑問は常に頭から離れることはないが、この映画が“ヌーベル・ヴァーグ”であることは疑いがない。それはある種の新しさであり、50年代後半にフランスの若い映画監督たちが作り出した共通する独特の「空気」である。緻密に分析すると、編集の仕方とか音の入れ方とかいろいろと分析することはできるのだろうけれど、そういう小難しいことを抜きにしても、“ヌーベル・ヴァーグ”っぽさというものを経験として蓄積することはできる。この映画はまさにその“ヌーベル・ヴァーグ”っぽさを全編に感じさせる映画だ。

などといっても、実質的には何も言っていないような気がする。イメージとしてのヌーベル・ヴァーグはこんなものだといっても、何にもならない。だから、これがヌーベル・ヴァーグかどうかはおいておこう。

この映画にもっとも特徴的に思えるのは、パン・フォーカス。パン・フォーカスとは焦点距離を長くして、画面の手前にあるもの遠くにあるものの両方にピントをあわせる撮影方法で、ビデオ時代の今となっては簡単にできる方法だが、フィルムでやる場合、(カメラをやる人はわかると思いますが)絞りを大きく(ゆるく)する必要があるため、大きな光量が必要になる。日本ではパン・フォーカスといえば黒澤明で、それをやるために隣のスタジオからも電源を引っ張ってくるのが日常的な光景だったというくらいのものなわけです。

光量の問題はいいとしても、この作品でもパン・フォーカスが多用される。この映画ではそのパン・フォーカスが画面に冷たい感じを与える。パン・フォーカスをしていながら、画面の奥にあるのがものだけだったりすると画面がさびしい感じがして、そこから冷たさが生まれてくるものと思われる。これが一番発揮されるのはピエールがパリの街をさ迷う長い長いほとんどセリフのないシーン、画面に移るパリの街や人々のすべてにピントが合いながら、それらと交わりあうことのないピエールの姿の孤独さを冷酷なまでに冷静に見つめる視線。その迫力は圧倒的な力を持って迫ってくる。

「絶望」という無限の広がりを持つ言葉を一連の映像として見事に表現したシーン。その言葉には言葉にならないさまざまな感情、怒り、あきらめ、などなどが含まれながら、それは非常に空疎で、やり場がなく、しかし自分には跳ね返ってきたり、などなど。やはり言葉にはならないわけですが、その言葉にならないある種の宇宙をそこに見事に表現したロメールの技量の見事さ。これはなんといってもパン・フォーカスとモンタージュの妙だ。最後にパリの空撮ショットが入れ込まれるのも非常に効果的になっている。

このシーンがものすごくいいシーンだったわけですが、いまのロメールにつながる物を拾うなら、自然さというかアドリブっぽさ、偶然性、というものでしょう。こっちのほうの典型的なシーンは最初のほうのパーティーのシーンで、たしかジャン=フランソワがドアを開けるときに、ドアが一回では開かず、2回か3回がたがたとやる。これが果たして演出なのか偶然なのかはわかりませんが、このアクションひとつでこのシーン、この映画に自然さとリアルさが生まれる。今に至るまでこのような自然さというのがロメールの映画にはあふれている。何気なく見ていると何気なく見過ごしてしまう。だからこそ自然なわけだけれど、そのようなカットやアクションをさりげなくはさんでいく。それこそが“ヌーベル・ヴァーグ”というよくわからない枠組みを越えて、ロメールがロメールらしくあるひとつの要素であると私は思うので、デビュー作のこの作品にもそれが垣間見えたことは非常にうれしいことだったわけです。