てんやわんや

四国独立という奇抜な話ながら意外に人情話なコメディ映画。

1950年,日本,96分
監督:渋谷実
原作:獅子文六
脚本:斎藤良輔
撮影:長岡博之
音楽:伊福部昭
出演:佐野周二、淡島千景、志村喬、藤原釜足、三井弘次、桂木洋子

 東京でサラリーマンをしていた犬丸順吉は東京がいやになり会社をやめる。しかし世話になった社長の言いつけで社長の郷里である四国は伊予に行くことになる。そこで知り合った町会議員の越智らから四国独立計画の話しを聞かされ、いつの間にか巻き込まれていってしまう…
 獅子文六の同名小説の映画化。宝塚の娘役トップスター淡島千景が松竹に入社し、映画デビューを飾った作品

 敗戦から5年後の日本、まだまだ民主主義なんてものは定着していない。そんな中、四国を独立させようと考える3人の男たち。そもそも四国を独立させようというのに仲間が3人しかいないってのがすごい話しだし、独立しようという理由もよくわからない。しかし、よくわからない時代にはよくわからない人がいるもので、まあそんなこともあるんだろうなぁと納得してしまったりもする。

 しかし、そのことと主人公の犬丸順吉とはあまり関係がない。この若者はただ東京から逃げ、選挙運動がいやだからといって仮病を使い、山奥の家で知り合った美貌の娘(桂木洋子)に熱を上げてしまう。東京には世話になった社長と知らぬ中ではないその秘書のこれまた美貌の娘(淡島千景)がいる。

 この淡島千景は本当にきれいだ。登場シーンからして会社の屋上で水着姿で日光浴をしているというのだから、その美貌と肉体美とがこの映画の売りになっていることは一目瞭然。宝塚の大スターが銀幕デビューするのだから、まあそのくらいのことはやってもいいだろう。淡島千景はこのあと順調にスターへの階段を上っていくだけあってただきれいなだけではなく、演技もそつなくこなす。松竹三羽烏の一人である佐野周二を無効に張って遜色のない存在感だ。

 さらに脇役も志村喬、藤原釜足、三井弘次と芸達者がそろいみんなうまい。

 にもかかわらずこの映画が今ひとつ面白くないのは脚本がよくないせいだろう。ただ時間が過ぎるだけではらはらやどきどきという要素がない。コメディ映画化と思いきや笑いもほとんどない。人情話的な感じは随所に感じられるが、いろいろな話が盛り込まれて注意が散漫になってしまうので今ひとつ盛り上がらない。

 原作は獅子文六の新聞小説。原作のほうはもう少し面白そうな感じがするのでなんとももったいない映画だと思ってしまう。

風花

メロドラマの名手木下恵介の実験的モダニズムメロドラマ

1959年,日本,78分
監督:木下恵介
脚本:木下恵介
撮影:楠田浩之
音楽:木下忠司
出演:岸恵子、久我美子、有馬稲子、川津祐介、笠智衆

 長野県の寒村の名家名倉家の使用人春子は戦時中に名倉家の次男英雄との心中を試みるがひとり生き残り、息子捨雄を生んだ。捨雄は使用人として扱われながらも跡取り娘のさくらに思いを寄せるが、そのさくらもついにお嫁に行くことになり…
 木下恵介が農村を舞台に展開するメロドラマ。時間軸を交錯させる語りが斬新だが、内容はきわめて古典的。

 “家”へのこだわり、体面を過剰なほどに気にする考え方、男女関係に対する頑なな制限、そんな古きよき(?)日本の考え方が如実に現れた農村の名家を舞台にしたメロドラマ。その中心にいるのは東山千栄子演じる“おばあちゃん”。8歳年下の男のところに嫁に来たことで後ろ指を差されながら、夫亡きあとも家名を守るためにひとり奮闘し、“心中”などという恥さらしな行状に及んだ春子と英雄を許すことはない。

 この東山千栄子の「やなババア」加減がものすごい。捨雄や長男の嫁であるたつ子が屈辱に耐えてこぶしを握るその姿が目に浮かぶようだ。しかし最も屈辱的に感じていいはずの春子はまったくと言っていいほど反発心を見せない。忍従しているという感じでもなく、むしろすべてをあきらめているという感じだ。それはこの作品の登場人物のほとんどが縛られている日本的な価値観によるものだろう。心中に失敗したことで春子は自分が死んだも同然だと感じ、何の意欲も希望も持たずに生きる。死んだ英雄とその家族に対する申し訳ない気持ちもそれを後押しする。だから彼女からはもはや感情が失われてしまっているのだ。

 この作品はそのような登場人部たちの感情をつぶさに描きながらクロースアップという手法はとらず、徹底的にロングショットで関係性をとらえる。そのどこか覚めた感じが私はいいと思ったが、メロドラマ的にはもっとそれぞれの人物に迫ってどろどろとした心のうちを吐露させたほうが盛り上がったようにも思える。

 あえて時間軸を交錯させ、まったく同じシーンを反復し、不自然にも思える展開に仕上げたことも含めてこの作品はどこか木下恵介の実験という印象が強い。木下恵介といえば『喜びも悲しみも幾歳月』のような“ベタ”なメロドラマを作るという印象が強いのだが、単に古典的な文法を踏襲してメロドラマを作り続けるだけではこれほどまでに名を残すことは出来なかったはずだ。今の目から見れば“ベタ”と見える作品の数々も実はその時代時代の手法を取り入れ、工夫して作り上げたものなのだということは間違いがない。そしてこの『風花』はそのような時代感覚を取り入れる作品の一つ、50年代末から60年代に日本映画界を席巻するモダニズムとメロドラマを融合させようという試みの一つであったのだろう。

 はっきり言ってその試みは成功してはおらず、ぎこちない作品になってしまった印象は否めないが、黄金期の日本映画を見通す上で一つのヒントを与えてくれる作品ではないかと思う。この時代の日本映画のファンならぜひ見ておきたい作品だ。

地下水道

Kanal
1956年,ポーランド,96分
監督:アンジェイ・ワイダ
脚本:イエジー・ステファン・スタヴィンスキー
撮影:イエジー・ヴォイチック
音楽:ヤン・クレンツ
出演:タデウシュ・ヤンツァー、テルサ・イジェフスカ、エミール・カレヴィッチ、ヴラデク・シェイバル

 1944年ワルシャワ、レジスタンスの一中隊が廃墟で敵に囲まれる。ドイツ軍による攻勢に抵抗するが死者、負傷者を出し本部の指令でやむなく地下水道を通って撤退することに。しかし、その地下水道も汚臭と暗闇に覆われた迷宮で撤退は困難を極める…
 アンジェイ・ワイダがワルシャワ蜂起を描いた“抵抗三部作”の第2作。57年のカンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞した。

 物語はワルシャワ蜂起がすでに鎮圧されようとしているところから始まる。亡命政府の指令でソ連軍の支援を当てにして始まったワルシャワ蜂起だったが、ソ連軍がワルシャワに到達できなかったことで戦況は絶望的になり、レジスタンスは敗走を余儀なくされることになる。ワルシャワ中に張り巡らされた地下水道(つまり下水道)は彼らがドイツ軍に見つかることなく移動できる唯一の手段であり、多くの命を救った。

 この作品は敗走する一中隊がその地下水道を行軍する様子を克明に描く。実際にそれを体験したイエジー・ステファン・スタヴィンスキーによる脚本には迫力があり、モノクロの画面から伝わってくるのは常に絶望だ。

 ここに描かれるのは祖国のために立ち上がった人々が侵略者によって虐げられる姿だ。しかし印象的なのは、そこにドイツ兵の姿がほとんど登場しないということだ。最初に攻撃されるところでも攻撃してくるのは戦車である。しかし銃弾や砲弾によってドイツ軍の存在は明瞭にわかる。そして、この見えないものへの恐怖というのがこの作品全体を覆い、地下水道に入ってからも毒ガスや手投げ弾という形で彼らを襲うのだ。

 この「見えない」ことによって恐怖はリアルになる。多くの人々にとって恐怖のもとは見えないものだ。それは日常でも戦争でも。見えないからこそいつ襲われるかわからない恐怖が生まれ、人間の心を圧倒してしまう。ワイダは戦争が人に植え付ける恐怖をドイツ兵を“見せない”ことによって描いた。それが彼の非凡なところなのだろう。

 そしてその「見えない」恐怖は彼がこの映画を作ったリアルタイムの現実についても言えるはずだ。彼が味わう、検閲・迫害・粛清という恐怖。現代のわれわれから見ればこの作品にはそんな彼自身の恐怖の匂いも漂っているように思える。祖国のために闘って死んでいった人たちの死が犬死になってしまうような現状、ナチスドイツの残酷さを描いているようでいて、彼は彼らの死の虚しさを描いているのではないかという気がしてくる。

 それでもこの作品に希望があるのはそこにかすかに存在する青春のためだ。どんなに悲惨で絶望的な状況でも若者はどこかに希望を見出し、もがく。その結果がどうあれ、青春とは生きることだ。自身もまだ若かったアンジェイ・ワイダがこの作品でやりたかったのは恐怖に圧倒される中でも希望を失うなと自分に言い聞かせることだったのではないか。そうでなければ暗黒の中では気が狂ってしまうのだ。

 重苦しく、見ていて楽しい作品ではないが、見なければならない作品でもある。

世代

Pokolenie
1954年,ポーランド,88分
監督:アンジェイ・ワイダ
原作:ボフダン・チェシコ
脚本:ボフダン・チェシコ
撮影:イエイジー・リップマン
音楽:アンジェイ・マルコフスキ
出演:タデウシュ・ウォムニッキ、ウルスラ・モジンスカ、ズビグニエフ・チブルスキー、ロマン・ポランスキー

 ナチスドイツ占領下のポーランド、ドイツ軍の石炭を盗んで憂さを晴らしていたスターシュは仲間が殺されたのを機に工場で働くようになる。そしてそこで労働者の団結について知り、レジスタンス活動に関わるようになってゆく…
 アンジェイ・ワイダの長編デビュー作で『地下水道』『灰とダイヤモンド』とつづく“抵抗三部作”の第1作。情熱にあふれた意欲作。

 この作品は何も知らなかった青年スターシュが共産主義思想に触れて感化され、レジスタンス運動へ参加してゆく過程が描かれている。この作品が作られたのは1954年、戦争が終わって約10年、ソ連の強い影響下にある社会主義政権による検閲が映画に対しても行われていた。この作品はもちろん検閲にはまったく引っかからない。むしろマルクス主義の精神を賛美する作品として“文部省推薦”になってもいいくらいのものだ(そんな制度が当時のポーランドにあったかどうかは知らないが)。

 しかし、そんな体制迎合の作品であっても(実はそうではない部分もあるのだが、それは後述する)、アンジェイ・ワイダの才能はあふれ、これがデビュー作とは驚きだ。

 一人の青年の成長をレジスタンスとナチスドイツの対立を軸に語り、そこにもう一つのなぞの勢力を絡めるプロットのうまさ、スターシュを中心に思想と友情と少々の恋愛を描いてゆく物語のふくらみ、それらのストーリーテリングのうまさがまずひかる。

 そしてワイダを特徴付けるのはやはり映像だ。アンジェイ・ワイダの特徴はモンタージュ(映像の組み合わせ)によって語るという映画の古典的な文法の使い方のうまさなのかもしれない。クロースアップ、ロングとさまざまなサイズを使い分け、カットの切り替えによって物語を展開していく。

 たとえば、スターシュが材木運びの際にドイツ軍につかまってしまう場面、ほとんどセリフはないが、画面の動きやスターシュの表情によってそのエピソードの意味、スターシュとドイツ兵たちの感情は手にとるように伝わってくる。この手法はサイレント映画によって洗練されたモンタージュの技法を想起させる。ワイダ自身はサイレント映画を撮ったことはないが、サイレント映画を観ながら育った世代だろう。それが彼の映画美学を育てたのではないかとこのデビュー作から推察できる。

 さて、そんなワイダがデビューしたこの作品は社会主義体制のお気に召す必要があった。しかし彼自身は決してマルクス主義の信奉者ではなかった。彼はこの作品の中でナチスドイツを批判し、資本主義を批判している。ナチスドイツへの批判はもちろんのこと、資本主義への批判もある程度は本心だろう。しかしだからと言って彼が共産主義者だとはいえない。

 この作品が語りかけるのは体制への反抗である。体制というものは人々のことを考えてはくれない。ここで名指しされ批判されているのはナチスドイツだが、その背後に現在の社会主義体制に対する不満があることも今見れば明らかだ。

 そしてこの“世代”というタイトルも秀逸だと思う。その意味は最後の最後に明らかになり、観客はスターシュと同じ哀しみともあきらめとも、あるいは逆に希望とも取れる感情に襲われる。戦争の時代には一つの“世代”というのは10年20年単位ではなく、数年単位になってしまっている。その厳しい現実の中で若者はあっという間に年をとってしまう。それはなんとも悲しいことだ。

灰とダイヤモンド

Popiol i Diament
1957年,ポーランド,102分
監督:アンジェイ・ワイダ
原作:イエジー・アンジェウスキー
脚本:アンジェイ・ワイダ、イエジー・アンジェウスキー
撮影:イエジー・ヴォイチック
音楽:フィリッパ・ビエンクスキー
出演:ズビグニエフ・チブルスキー、エヴァ・クジジェフスカ、バクラフ・ザストルジンスキー

 1945年、ポーランド。ふたりの男マチェックとアンジェイが共産党の書記シチューカの暗殺を試みるが人違いで失敗。その日、戦争が終結し、祝賀ムードが漂う中、マチェックは偶然にシチューカを発見し、暗殺を実現しようとするが…
 ポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダがその名を世界に知らしめた名作。『世代』『地下水道』につづく“抵抗三部作”の第3作。

 この映画から真っ先に感じるのは「混沌」である。物語は第二次世界大戦が終わった日、ソ連の影響下で共産主義化しつつあるポーランドとそれを阻止しようとする勢力が対立する。この映画が作られた当時、ポーランドは完全に共産主義政権下にあったのでその抵抗勢力は“ゲリラ”として描かれている。しかし、“ゲリラ”である彼らの出自はワルシャワ蜂起にあることが見て取れる。

 ワルシャワ蜂起は1944年、ポーランド国内軍がドイツ占領軍に対して蜂起した事件である。この蜂起にはソ連軍による働きかけもあったのだが、ソ連軍はドイツ軍の抵抗にあってワルシャワに到達できず、ポーランド国内軍はドイツ軍に鎮圧され、国内軍の一部は地下水道を伝って南部の解放区に脱出した。

 最終的にソビエト軍はポーランドをナチス・ドイツから解放したわけだが、同時にこのワルシャワ蜂起の際の苦い記憶もある。映画の中でも描かれているようにブルジョワは共産主義体制が固まる前に西側に脱出してしまう。

 この映画が描いているのは、戦争が終わりドイツ軍はいなくなったがまだ次の支配者は確立されていない混沌がきわまった一日なのである。共産党の書記を暗殺しようという動きと、ゲリラを鎮圧しようという動き、共産党の書記はブルジョワの家とつながりがある。誰もが次の一歩をどこに踏み出すかを迷っているようなもやもやとした空気がそこらじゅうを覆っているのだ。

 そしてそのような政治状況とは別に個人の生活がある。戦時にはいやおうなく抗争や戦争に巻き込まれてしまったが、戦争が終わったのなら平凡な生活がしたいと望む人も多いだろう。しかし抗争は続き、平凡な生活は容易には手に入らない。

 『灰とダイヤモンド』というタイトルが意味するところは、戦火が生み出した大量の灰の中に埋もれる平凡な生活こそがダイヤモンドの輝きを放つものなのだということなのではないか。この言葉はポーランドの詩人ノルヴィトの詩の中の言葉ということだが、作中で語られた詩からは今ひとつこの言葉の意味をつかめなかった(単に私の理解力不足かもしれないが)ので、そんな意味にとって見ることにした。

 そのダイヤモンドをつかむため混沌という灰の中を這い回らなければならない人々、そんな人々にとってこの混沌の意味するところは何なのか。そこにワイダはある種の虚しさを見出してしまっているのではないか、そんな気がしてならなかった。

 アンジェイ・ワイダの演出はその混沌を非常にうまく表現する。逆さ吊りのキリスト像、突然現れる馬、楽隊の調子はずれの音楽、そして最後のゴミ捨て場、それらは整然と物語を進行させる映画の構築の仕方とは異なる混沌の表現に違いない。そして混沌の中で局面局面に生じる緊張感がこの映画を稀有なものにしているということができるだろう。

 このように混沌とした作品になった理由には共産主義体制化での検閲を通過しつつメッセージを伝えるために象徴的な表現を使わざるを得なかったことにも起因しているだろう。しかし、それがポーランドにとって決定的な終戦の日を描くのに最も適した方法でもあり、映画が作られた当時の状況をも表現しうる手段であったともいえるだろう。

 アンジェイ・ワイダが体現する世界をもっと掘り下げてみたいと思わせてくれる作品だ。

西鶴一代女

1952年,日本,148分
監督:溝口健二
原作:井原西鶴
脚本:依田義賢
撮影:平野好美
音楽:斎藤一郎
出演:田中絹代、三船敏郎、菅井一郎、宇野重吉、山根寿子、大泉滉、加東大介、沢村貞子

 若作りの化粧をして男の袖を引く50女のお春、遊女仲間と焚き火にあたる。そして、羅漢のひとつに昔の男の面影を見て、数奇な一生を思い出す。もとは裕福な家の出で、御所に上がるほどだったが、身分の違う男と密会しているところを見つかり、洛外追放となってしまったのだった…
 一人の女の数奇な運命を描いた「西鶴一代女」を女性映画の巨匠溝口が見事に映像化。10代から50代まで演じ分ける田中絹代の熱演も見所。三船敏郎や加東大介などの名優が少しずつ登場するところも見もの。

 「西鶴一代女」は「好色一代男」と対照を成すような物語。「好色一代男」は次から次へと女を渡り歩く男の物語、「西鶴一代女」は次々と男を失ってしまう女の物語である。『西鶴一代女』を溝口が監督したのに対して、『好色一代男』(1961)を増村が監督したのはいかにもという感じで面白い。「男」のほうは能動的に次から次へと女を渡り歩いてはいるけれど、それも抗えない運命に翻弄されているという点では「女」と同じなわけで、それを二人の監督がどう描き分けているのかというのに注目するのも面白い。
 この『西鶴一代女』を中心に話しを進めると、さすがに溝口という感じで、映画に落ち着きがある。30年くらいの歳月を追っていくというよりは、一つ一つのエピソードをどっしりと構え、間の経過を描くことはしない。カットが変わったら10年たっているなんてことも多い。したがって、一つ一つのエピソードのなかでは物語りはゆっくりと進む。それを端的にあらわすのは、人物がフレームから出て行ったあとの空舞台を映すカット。この余韻が溝口らしいところといえる。その空舞台は寂しさをわかりやすく表現しているとともに、観客に考える余裕を与えるのだろう。『好色一代男』の場合、その余韻は作られず、とにかくものすごいスピードでエピソードが語られていく。
 さて、この映画で一番好きな部分であり、「男」との対比にもなると私が思うのはお春が遊女となって越後の金持ちを迎えるというシーン、その男が金をばら撒いても振り向かないお春は『好色一代男』の夕霧(若尾文子)とパラレルである。しかし、もちろん視点は「女」がお春の側にあるのに対し、「男」では世之助(市川雷蔵)の側にある。しかも観客はそのお春と世之助の視点に引き込まれるように操作されているから、ほぼ同じエピソードを見ていてもその見え方はかなり違う。溝口の助監督でもあった増村はこの『西鶴一代女』を意識して『好色一代男』を撮っただろうから、このシーンなどはかなり対照性を明確にしようとして作ったのではないだろうか。

 私がこのシーンでもうひとつ思い出した映画は『千と千尋の神隠し』。ちょっとネタばれにはなりますが、こういうことです。
 カオナシが次々と金の粒を出すと、湯屋の人(?)たちはそれを懸命に拾うが、千だけは拾おうとしない。それでカオナシは千に惹かれるという話。その金が贋物であるという点ものこの映画とまったく同じ。古典的な物語のつくりということもできるけれど、私は宮崎駿がこの映画ないし原作(にこのエピソードがあるかどうかは知らないけれど)からヒントを得て作ったんじゃないかと思います。これだけシチュエーションが違うのに、頭に浮かぶってことはそれだけ内容的な類似性があるということですから。
 もしかしたら、宮崎駿と溝口健二というのは似ているという話に行き着くのかもしれません。溝口の作品はあまり見ていないので、ちょっとわかりませんが、そんな結論になるのかもしれないという気もします。
 ということで、宮崎ファンの人は溝口を見て、溝口ファンの人は宮崎を見て、共通点が見つかったら教えてくださいね。

現金に手を出すな

Touchez pas au Grisbi
1954年,フランス=イタリア,96分
監督:ジャック・ベッケル
原作:アルベール・シナモン
脚本:ジャック・ベッケル、モーリス・グリフ、アルベール・シナモン
撮影:ピエール・モンタゼル
音楽:ジャン・ウィエネル
出演:ジャン・ギャバン、ルネ・ダリー、ジャンヌ・モロー、リノ・ヴェンチュラ

 老境に差し掛かったギャングのマックスは空港で奪われた5000万円の金塊の記事を食い入るように見る。友人のリトンと愛人たちとなじみのレストランで食事をし、その愛人たちがステージに立つキャバレーに向かう。そこにはアンジェロという別のギャングが来ており、マックスはアンジェロとリトンの愛人ジョジーが一緒に部屋にいるところに出くわす。そこから物語りは意外な展開に…
 ジャック・ベッケルの傑作サスペンス、単なるギャング映画ではなく、老境に差し掛かったギャングの心を映し出す味わい深い一作。

 表面上は老境に差し掛かったジャン・ギャバン演じるマックスとまだ若いリノ・ヴェンチュラ演じるアンジェロとの抗争を描いたギャングものにありがちな話だが、それはあくまで物語として必要だっただけで、本当に描きたかったのはマックスの心だろう。
 ジャック・ベッケルはフィルム・ノワールに類するハードボイルドな映画を撮っているようでいて、実は非常に精神的な映画を撮っている。それが一番現れているのは、マックスとリトンのふたりが隠れ家で夜を過ごす場面、ふたりのいい年をした男が並んでワインを飲んでラスクを食べ、パジャマに着替えて、歯を磨き、寝る。プロットからするとここはリトンの精神的なゆれとかそういったものを描く場面ということになるのだが、それにしては長い。この場面からわかるのはふたりが年齢を気にしているということだ。明確に「引退」という言葉がセリフに出てくるということもあるし、皺について話したりする。
 また、その翌日には同じ部屋でマックスのモノローグ(というよりは心の声が声として描かれるシーン)がある。このあたりもなんだかくよくよしている感じがして、単純に犯罪映画という感じはしない。初老の男がそろそろ引退しようと考えていて、そのけじめをつけようとするけれど、まだまだ老いちゃいないという気持ちと、それとは裏腹に年齢を感じさせる現実がある。その初老の男がたまたまギャングだったというだけの話なのかもしれない。

 この犯罪映画というよりは老人映画という感じが私には非常に面白かったわけですが、犯罪映画としてももちろん一流品なわけで、一つ一つのシーンの面白さは50年たっても色あせることはない。主に映画の後半の話になるので、少しネタばれ気味になりますが、たとえばマルコが見張りの男が電話をかけに行く隙をついて… のシーン、このリズムがいい。電話を使おうとしてふさがっていたり、「何か起こるのか?」という緊迫感を保ちながらリズムよく展開していく。
 50年という時間は長いようで短いような、さまざまな仕掛けは今では通じなくなっているものもあるが(エレベータが上から透けて見えたり)、いまだに面白く見られるというのはやはりすごい。ジャン・ギャバンもなくなってすでに25年、この映画の時点で50歳、それでもなんだか色気を感じさせる。まだまだ若いジャンヌ・モローもいて、物語に限らず見所盛りだくさんという映画になっていますね。

羅生門

1950年,日本,88分
監督:黒澤明
原作:芥川龍之介
脚本:黒澤明、橋本忍
撮影:宮川一夫
音楽:早坂文雄
出演:三船敏郎、京マチ子、志村喬、千秋実、森雅之

 崩れかけた羅生門でボーっと雨宿りをする坊さんと百姓の男、そこにもう一人の男がやってきて、「さっぱりわかんねぇ」とばかり言っている百姓から話を聞く。その百姓の話は都に程近い山中で一人の侍の以外を見つけ、3日後にそのことで検非違使庁から呼び出しを受けたことに始まる…
 芥川龍之介の『藪の中』の映画化。大映製作ということもあり、黒澤作品には珍しく女性が重要な役割を果たす。三船敏郎も京マチ子もこの作品で世界的に知られるようになった。

 原作が芥川龍之介ということもあって、力強い余韻が残る。話としては事件の当事者である人たちの話が食い違うというだけの単純な話ではあるのだけれど、すべてが終わったあとでも何か背筋がぞっとするような感じが残る。
 私にはこの作品は黒澤明が自分らしさを殺してとった作品のように見える。そもそも黒澤作品でこの作品のように女性がクローズアップされることはあまりない。主役級といえるのは『わが青春に悔なし』の原節子くらいで、あとは『蜘蛛巣城』の山田五十鈴、『椿三十郎』の入江たか子がいい味を出しているというくらい。
 これは根本的に黒澤の映画が「男」の映画であるということである。男と男の対決や友情が常に物語の軸になっているということで、そこにあるのは至極単純なドラマトゥルギーであって、精神的なもの、つまり人間の心の葛藤とかそういうものをドラマの柱にすえることはあまりない。
 この映画もそういう意味では決して人間の心を主題にしているわけではないく、基本的には男の話なのだが、何かが違う。それは京マチ子が語るエピソードよりも志村喬が語るエピソードの異常さだ。そこには男と男の物語は存在せず、男と女の物語があるだけなのだ。それは黒澤らしからぬことだ。
 そしてこの終わり方。三十郎の捨て台詞「あばよっ」が象徴的に示すように黒澤の映画は大体の場合ばっさりと気持ちよく終わるものだ。しかし、この映画の余韻はすごい。これはいくら黒澤でも芥川龍之介の原作を自分のものとしきれなかったということなのか、東宝争議の影響で菊島隆三や小国英雄を欠いていたためなのかはわからないが、他の黒澤作品らしさがシナリオの段階から感じられないようだ。
 しかし、これはこれでひとつの完成形というか、作品として成立しているところが黒澤のすごさなのだろう。
 もうひとつ、この映画ではカットとカットの切れ目がすべてシンプルにつないである。黒澤は常日頃カットとカットの間が重要だといっており、普段はワイプ(次のカットが前のカットにかぶさる)やフェイド(画面が徐々に暗くなったり徐々に明るくなったりする)やオーバーラップ(二つのカットが重なり合う)を多用するだけに、この作品の単純なつなぎの繰り返しはとても気になる。それがどのような効果を生んでいるのかを分析するのはなかなか難しいが、とりあえず、現在と過去、現実と空想、現世と霊界などの位相とされるものを区別していないということはあるだろう。それを別物と考えるのではなく、すべてをひとつのつながりと考えているからこそ、カットの切れ目で断絶を表すことなくすんなりとつないだということ。そういうことだとは思います。巫女の登場もそのことを示しているし。このあたりがヨーロッパで受けた理由なのかもしれないとも思いました。

 それにしても、この作品の京マチ子はとてもいい。京マチ子この作品は数あれど、今まで見た中では一番いいと思う。三船敏郎と京マチ子は相性がよかったと誰かが書いていた気がするが、二人の競演作はこの作品と翌年にとられた木村圭吾監督の『馬喰一代』しかない。それを見て、その誰かの発言の真偽を問うてみたいが、もしそれが本当なのだとしたら、もっと共演作をとってほしかったところだが、それは仕方のないこと。
 なんだか話があっちゃこっちゃに行ってしまいましたが、京マチ子の話。京マチ子はこのとき26歳、それまでの出演作で目立つものは宇野重吉と共演した木村圭吾監督の『痴人の愛』(1949)くらいなので、この作品が事実上の出世作ということになります。この作品以降日本人離れしたグラマラスな肉体美を武器に大映の看板女優になったわけですから、ここでも黒澤の力はすごいものだと感じさせられます。

生きものの記録

1955年,日本,113分
監督:黒澤明
脚本:橋本忍、小国英雄、黒澤明
撮影:中井朝一
音楽:早坂文雄
出演:三船敏郎、志村喬、千秋実、三好栄子、東野英治郎

 家庭裁判所の参与員をやっている歯科医の原田のもとに裁判所から電話がかかってくる。今回の懸案は原水爆と放射能に対する恐怖から、全財産を売り払って家族全員でブラジルに移住しようとする工場主の中島老人を、家族が準禁治産者に認定してもらおうと家族が訴えたというものであった。精神錯乱でもない老人の対処に裁判所は頭を痛め、さらに老人には何人もの妾とその間に作った子供もいて…
 三船敏郎が老人役で怪演を披露する社会派ドラマ。一本の映画で扱うにはテーマが大きすぎた感があり、興行的にも成功しなかったが、これも黒澤のひとつのチャレンジであり、思想的な面が伺える作品ではある。

 この映画の評判が今ひとつ芳しくないのは、プロットが今ひとつだからだろう。時代としては第五福竜丸事件なんかがあって、原水爆に対する意識が盛り上がっていたころで、このようなテーマが取り上げられることは必然的でもあるし、それだけ面白いものになる可能性もあった。しかし、この映画はその原水爆を正面から描いたものではなく、人間の「狂気」という問題を原水爆という最も切迫した問題を使って描こうとしたものだ。
 しかも、その狂気の捉え方が今ひとつはっきりしない。狂気と正気の境のあいまいさとかいうことではなく、人間が狂気へと落ち込んでいく過程を淡々と描いていく。それは題名が暗示するとおり一種の「記録」であり、ドラマではない。
 この作品を境に再び時代劇に回帰する黒澤にとって、この作品は失敗した実験だったのだろうか。それを考えるためにはこの映画の題名にある「生きもの」という言葉に注目する必要があるだろう。この生きものとはもちろん中島老人を含めた人間たちを示すのだが、志村喬が『死の灰』という本を読んで吐く「鳥や獣がこの本を読んだら、日本から逃げ出すね」というセリフは人間の生きものとしての危うさを示す、少々鼻白いくらいの暗示になっている。
 おそらく黒澤はこの人間と野生動物の対比から人間の利己性やその利己性が招いてしまう自滅的な結果について考えようとしている。それにたいして中島老人は自分たちの家族を守ることを一途に思い、その家族に仕事や財産を奪われそうになっても彼らを守ろうとするある種のヒーローになる。そして、このキャラクターは黒澤が追い求めたムイシュキン(ドストエフスキーの『白痴』の主人公)の一変形であるとも考えられる。1951年に黒澤はドストエフスキーの『白痴』を映画化しているが、それ以後もこのムイシュキン的キャラクターを描こうと腐心している姿が見える(典型的な例はもちろん『どですかん』だろう)。
 つまりこの映画はやはり失敗した実験だったといわざるを得ない。

 しかしそれでも、三船敏郎はすごい。タイトルクレジットの配役のトップに出てくる三船の姿が見えない。観客は映画を見はじめてしばらくはそのようにして三船を捜すことになる。そして、「あれが、三船だ」とあるとき気づく。その驚きは隠せない。そして三船はすばらしい演技を見せる。ほかの多くの映画と同様に、三船に拮抗できているのはただ志村喬だけだ。
 だから、千秋実がどんなにがんばってもこの映画は三船敏郎の独壇場となり、プロットが今ひとつなことでさらに三船の映画となってしまう。まあ、しかしこの映画はおそらくそれでよくて、三船ってすごいなと思えばよろしい。
 黒澤明とは人それぞれ好きな作品・嫌いな作品が分かれるもので、「これは失敗作だ」という意見も分かれる。だから本当は黒澤作品の評価というのは無意味で、人それぞれの意見があればそれでいいはずだ。なぜそのように評価が分かれるのかというのも少し追求してみたいテーマだが、とりあえずそういう意味でこの映画は私にフィットしなかったということ。原水爆を扱った映画ならほかにもっといい映画がいくらでもあるし、黒澤のドラマとしてももっといいものがいくらでもある。ただそれだけの理由で私はこの作品が今ひとつ気に入らない。

七人の侍

1954年,日本,207分
監督:黒澤明
脚本:橋本忍、小国英雄、黒澤明
撮影:中井朝一
音楽:早坂文雄
出演:志村喬、三船敏郎、加東大介、藤原釜足、木村功、千秋実、宮口精二、津島恵子

 時は戦国時代、野武士の来襲に怯える山間の農村、村人たちは知恵を絞り、村の長老の忠告に従って、食事を供するという条件だけで村のために戦ってくれる浪人者を探すことに。そのために4人の百姓が町に出たが、なかなか見つからず仲間割れも起こりそうになったころ、ある村で子供を人質に立てこもった盗人を見事に成敗した侍に出会う。そしてその侍に話を持ちかけると、じっくり考えた末、侍が7人いれば村を守れるだろうといって百姓の頼みを聞き入れ、仲間探しが始まった。
 いわずと知れた日本映画の金字塔。3時間半もの上映時間、型破りのアクション、何をとっても偉大なる作品。三船敏郎よりも志村喬が光っている。1960年に、ハリウッドで『荒野の七人』として西部劇にリメイクされたのもいまさら言うには及ばぬ話。

 この映画の脚本と編集は本当にすばらしい。3時間半という長い時間をどのように配分するか。1時間半や2時間という上映時間になれた観客をどのようにそれだけ長い間引っ張っていくか。その点ではこの映画は本当にすばらしく、まったく飽きるということがない。ヨーロッパでの上映の際にあまりに長すぎるということでカットを余儀なくされたようだが、それは本当におろかなことで、黒澤明の言うとおりこの映画に削ることができる部分はまったくない(休憩はちょっと長いけど)。映画の序盤、村の水車だけに費やした3カットも必要なカットだったと思う。
 全体のバランスからすると、最後の合戦の場面が少々長いような気もする。それよりも7人を集める過程とか、村人たちとともに準備する過程とか、そのほうが面白い。しかしやはり、合戦の場面こそが見せ場で、それがあるからこそそれまでの話が面白いというのも事実。このあたりは個人の好みになるでしょう。おそらく村での場面がダレるという意見のほうが大勢を占めるかと思います。
 この物語の面白さというのは、基本的に「侍-百姓-野武士」という関係性によっている。まったく立場が違うようでいて、実は微妙に重なり合っている3者の戦い。最後に志村喬が言うように、この戦は百姓にとっての勝ち戦であって、侍と野武士にとっては負け戦であった。その3者の(主に侍と百姓の)関係性が刻一刻と変化していくところがこの映画が飽きることなく見られる映画になる最大の要因になっているといえる。
 その関係性の最大の鍵になっているのは、三船敏郎の存在で、三船が馬小屋でぼそりと「思い出すなぁ」というところは、私がこの映画のなかで最も好きなシーンのひとつである。そのシーンをはじめとして、三船演じる菊千代が存在するからこそこの映画が展開していけるということは確かである。

 しかし、その一方で私はこの映画の主人公というのは三船敏郎ではなく志村喬だと思うし、侍たちの関係だけを考えたなら、三船敏郎の存在というのはある種バランスを崩す存在になってしまっていると思う。映画全体として三船敏郎の役割を果たす存在は絶対に必要だった。しかし彼のキャラクターは危ういバランスの上に成り立っているということもいえる。彼が三船敏郎であるがゆえにようやくこなすことができた役、しかし逆に三船敏郎であるがゆえにこのような役になってしまったとも言える。
 つまり、この役はおそらく本来は一人でこなせるような役ではない。侍たちの間に漣をおこし、和ませ、一方で百姓と侍の橋渡しをし、百姓たちの中にもいろいろな種を植え、さらにさまざまな面倒の種にもなる。普通の役者なら2人か3人が役割を分担しなければ演じられないような役、それを一人で演じてしまう三船敏郎はすごい。しかし、同時にそれによってアンバランスも生じている。たとえば、千秋実演じる平八が果たすべき場を和ませる存在としての役割をも菊千代は奪ってしまった。タイトルに七人とある割にはその七人の役割分担がぼんやりとしているのは、このようにして菊千代がその構図を突き崩してしまっているからだろう。

 見方によって変わるであろうこの菊千代=三船の捉え方によってこの映画の評価は大きく変わる。それはこの映画を誰の立場で見るのかという見方にもよる。黒澤はいつものように特定の視点を設けず、第三者の視点からすべてを見通させる。しかし、「七人の」というタイトルの割には群像劇というわけではなく、誰でも好きな侍に、あるいは百姓たちにでも自己を没入させることができるように作っている。それはおそらくこの長時間をずっと客観的に過ごすのは退屈すぎると考えたからかもしれないが、とにかく2時間そこそこの映画とは少し趣が違っている。
 そのようなわけもあって、この映画はさまざまな見方を受け入れる。私は今回どのようにこの映画を見たのか自己分析してみたら、自分でも意外なことに加東大介演じる七郎次に肩入れしてみていたような気がした。多分それは加東大介という役者が好きだからというだけの理由だと思うが、だからなんとなく菊千代にある種の胡散臭さのようなものを感じていたのかもしれない。
 別の誰かに肩入れしてみたなら、菊千代の、そして映画の見方はがらりと変わったのだろうと強く感じました。それが「七人の」という冠にこめられた黒澤の意図のひとつであると私は信じます。そして、いろいろな人に愛される理由であるとも思います。『荒野の七人』とか『宇宙の七人』とか、を見るとその監督が誰に身を置いて見たかがわかるかもしれないとも思います。
 皆さんは自分が誰に身をおいてこの映画を見ましたか?