Beshkempir
1998年,キルギスタン=フランス,81分
監督:アクタン・アブディカリコフ
脚本:アクタン・アブディカリコフ、アヴタンディル・アディクロフ、マラト・サルル
撮影:ハッサン・キディリアレフ
音楽:ヌーラン・ニシャノフ
出演:ミルラン・アブディカリコフ、アルビナ・イマスメワ、アディール・アブリカシモフ
キルギスタンで暮らす少年が、自分より背の高い少女に抱く淡い恋心。少年から思春期に達そうとする年代に共通の感情を大部分モノクロのパートカラーで描いた作品。監督の自伝的物語であるらしい。主演の男の子は監督の実の息子であるらしい。
キルギスタンというほとんど知られていない国から届いた映画は、そのイメージに違わず素朴で純粋な物語を紡ぎ出している。
色鮮やかなカラーの映像で始まった映画が、モノクロ(というよりセピア色)の画面に転じ、そしてそれは延々続く。時々思い出したようにカラーの画面が挿入される。監督の自伝的作品であることを知っていれば、セピア色の記憶のなかに鮮明に残っているカラーの記憶を強調する意図だということはわかるけれど、それがどれほどの効果を生んでいるのか? どれほどの意味があるのか? 確かにやりたいことはわかる。自分の記憶を映像に定着させ、それが自分だけのものではないことを実証して見せること。それは映画監督の誰しもがやることではある。しかし、このやり方はあまりに自慰的ではないか? 自分の分身である主人公の心理をさらけ出すことなしに、美しいものを美しく描くだけ。 今なに素朴で純粋であるはずがないと思うのは、都市国家に住む汚れた心のうがった見方なのだろうか?
このパートカラーはちょっとうなずけないが、この監督の映像に対する感性はなかなか。砂で作った女の人を牛が踏んでいくシーンとか、最初の老婆たちがフレームに一人また一人と入ってくるシーンとか、かなり「はっ」とさせられるシーンはあった。
となると、むしろ全編カラーで見てみたかったという気がしてくる。これだけいい画が撮れるんだから、しかも色彩をすごく鮮やかに撮れるのだから、カラーのめくるめく映像美を見てみたかった。
最後に、ストーリーははっきり言って退屈。「養子」ということがテーマになっているのはわかるけれど、それに対してクライマックスがあるわけでもなく(あるとすれば、網戸を張るシーンかな)、かつ話はずるずると女の子の方へと移行してしまう。おばあちゃんの葬儀のシーンもちっとも感動的じゃなかったし。
というわけで、可もあり、不可もあり、秋の夜長にはいいかもしれない。
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