プリピャチ

 チェルノブイリ原発から約4キロにある街プリピャチ、いったんは避難したものの数年後に住み慣れた家に戻ってきた老夫婦は当たり前のように川で水をくみ、畑で育てた野菜を食べて暮らす。そこからほど近い街中の環境研究所で働く女性は毎朝バスでキエフから通ってくるという。そして、事故を起こした4号機の隣にある3号機はまだ稼働中、その技術者は絶対に事故が起こることはないと胸を張る…
事故から12年後のチェルノブイリを白黒の映像で描いたドキュメンタリー。“死の街”というイメージとは違う現実がそこにある。

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サミュエル・L・ジャクソン in ブラック・ヴァンパイア

安っぽくはあるが、スリルもホラーも実現したこれぞB級映画!

Def by Temptation
1990年,アメリカ,95分
監督:ジェームズ・ボンド・三世
脚本:ジェームズ・ボンド・三世
撮影:アーネスト・R・ディッカーソン
音楽:ポール・ローレンス
出演:ジェームズ・ボンド・三世、サミュエル・L・ジャクソン、カディーム・ハーディソン、ビル・ナン

 ニューヨークのとあるバーの常連の女は夜な夜な男を引っ掛けてはその男を殺害していた。牧師志望のジョエルは友人のKを頼ってニューヨークにやってくる。その夜、バーでその女と出会い、意気投合する。その女は実はジョエルをずっと狙っていた…
 ジェームズ・ボンド・三世監督・脚本・主演によるB級サスペンス・ホラー。安っぽいが見ごたえはなかなか。

 この“女”は生き血を吸ういわゆる“ヴァンパイア”ではないわけで、この邦題はどうかと思うが、まあそれはおいておいて、この“女”が男をだまくらかして殺してしまったり、破滅させてしまったりという序盤の展開はなかなか面白く、そして恐ろしい。

 そして、主人公のジョエルがニューヨークにやってくるタイミングでジョエルの友人のKが女と知り合うという、わかりやすいけれどその後の展開に期待を抱かせるプロットもうまいし、その“女”が男を引っ掛けるバーにいつも居合わせるいい加減な男の存在も思わせぶりでいい。つまり、決してよく出来たプロットではないのだけれど、それなりのスリルとそれなりの魅力があるということだ。

 そして終盤はというと、凝った特殊メイクや特撮、非現実的な展開、宗教的モチーフと盛りだくさんになる。どれもこれも安っぽくはあるのだけれど、この作品の世界観にはあっているし、90年という製作年を考えると、それなりにいい出来ではないかと思う。

 総じて見ると、これぞまさにB級映画!という印象。いまやビッグ・ネームのサミュエル・L・ジャクソンが出てはいるが、まだブレイク前だし、予算はかけず、題材もバカバカしい。しかし宗教的なテーマを扱ったりして単なるバカ映画というわけではない。中盤、Kがジョエルにニューヨークについて語るところなどは少々哲学的ですらある。

 ジェームズ・ボンド・三世も子役出身でこの作品を最後に映画界を去った。その後何をしているのかとか、なぜ映画界を去ったのかはわからないが、これだけの作品を作れるのだからちょっと残念という気もする。子役は大成しないというのは通説だが、それはあくまでも俳優としての話で、監督や脚本という別の職掌ではその限りではないのかもしれない。まあ言っても仕方のないことだが…

 そして、ブラック・ムービーとしても十分に映画史の1ページに加えうる作品だ。ジェームズ・ボンド三世もサミュエル・L・ジャクソンも重要な脇役で出演しているビル・ナンもスパイク・リー監督の『スクール・デイズ』の出演者であり、この映画には完全に黒人しか出演していない。人種に対する何らかの主張がなされているわけではないが、いわゆる“普通の”映画との違いがこの映画がまぎれもなく黒人映画であることを主張しているように思える。

 B級スリラーファンか黒人映画ファンなら観ても損はない作品だろう。

モ’・ベター・ブルース

Mo’ Better Blues
1990年,アメリカ,129分
監督:スパイク・リー
脚本:スパイク・リー
撮影:アーネスト・ディッカーソン
音楽:ビル・リー、ブランフォード・マルサリス
出演:デンゼル・ワシントン、スパイク・リー、ウェズリー・スナイプス、ジャンカルロ・エスポジート、ロビン・ハリス、ジョイ・リー、ビル・ナン

ブリークはハーレム育ちだが、教育ママの母親にトランペットの練習をさせられて、トモダチとろくに遊ばせてもらえなかった。しかしその甲斐あってか新進気鋭のトランペッターとなり、自分のバンドを率いて、幼馴染のジャイアントをマネージャーにして毎日クラブを満員にしていた。しかし彼の生活は音楽一色で、他の人と心を通わせようとすることもなかった…

『ドゥ・ザ・ライト・シング』でブラック・カルチャーの枠から飛び出して広く知られるようになったスパイク・リーがジャズへの思いを込めて撮った静かな映画。デンゼル・ワシントン、ウェズリー・スナイプス、ジャンカルロ・エスポジートなど若き黒人スターが出演しているのも楽しい。

物語を追っていけば、どうということのない映画。ある一人のジャズマンの一生というか、半生を追っただけ。こんなジャズマンはニューヨークにごまんといるだろう。だからこそスパイク・リーはそのような人物を描く。ある一人のジャズマン、それはある一人の野球選手、ある一人のバスケット選手でも同じことなのかもしれない。しかし、映画的にはジャズマン。ブラックの心、アフリカの心、それがジャズにあるのだとスパイク・リーはかたくなに信じているようだ。ヒップホップやリズム・アンド・ブルースだって、あくまで広い意味でのジャズから出てきたもので、アメリカの黒人の心に流れるのはジャズのリズムだ。

デンゼル・ワシントンが映画の中でクロスオーバーについて語り、黒人が俺の音楽を聞きにこないと嘆くその言葉にスパイク・リーの気持ちは込められている。そのような音楽への思いに突き動かされて作られた映画だけに、主役は音楽で、役者ではない。デンゼル・ワシントンがどのような人と関係を結んでもどこか空々しくめいるのは、彼の自己中心性よりもむしろ、それが映画の主題ではないからなのだ。そこにあるのは音楽、音楽、音楽。この映画で人々を動かすのは音楽で、それだけ。

その中で非音楽的な存在としているのがインディゴで、彼女だけは音楽とは関係ないところに存在している。だから彼女は映画に波風を立て、音楽のリズムを乱す。この映画の終盤が面白くないと思えてしまうのは、映画の全般にわたって映画を突き動かしてきた音楽というものが奪われ、非音楽が映画を支配するから。だからどうも違和感を感じ、音楽が覆ってきたこの映画の退屈さがあらわになってしまう。

しかし、私はこの退屈さも好きだ。「吹けなくなったらどうするの?」と聞いたインディゴの言葉、その言葉が映画に立てる波風、それによってもたらされる新たな人生、しかしブリークは音楽を失っておらず、心にはリズムがある。この終盤であらわされるのは、音楽的な人生と非音楽的な人生があるということではなく、人生とは音楽であり、人生とは常に音楽的であるということだ。ブリークは音楽を奪われてしまったけれど、心にはリズムがあり、最初から非音楽的な存在として描かれてきたインディゴも音楽を持たなかったわけではないということ。

スパイク・リーは音楽を特別なものとはみなさずに、人生そのものだと捉えている。この映画では音楽はそのように現れる。だから音楽にあふれているにもかかわらずこの映画はすごく静かだ。

アンナ・マデリーナ

安娜瑪徳蓮娜
1998年,香港=日本,97分
監督:ハイ・チョンマン
脚本:アイヴィ・ホー
撮影:ピーター・パオ
音楽:チュー・ツァンヘイ
出演:金城武、ケリー・チャン、アーロン・クォック、レスリー・チャン、アニタ・ユン、ジャッキー・チュン、エリック・ツァン

ピアノの調律師のチャン・ガーフは調律に行った先の家で小説家を名乗る謎の男モッヤンに出会う。モッヤンは居候していた女の家を飛び出し、ガーフの家に転がり込んでふたりの共同生活が始まる。その共同生活も落ち着きを見せてきたころ、ガーフのアパートの上の階にモク・マンイーという女性が引っ越してくる。モクに弾かれるガーフ、衝突するモクとモッヤン…

日本でも名前が売れていた金城武とケリー・チャンを主役に起用して香港との合作で恋愛映画を撮るという一見売れ線狙いの映画ながら、映画としてのできは非情に地味で、通好みの映画という感じになっている。レスリー・チャンやアニタ・ユンなど脇役人も豪華。

映画の題名は映画の中でも言及されているようにバッハの奥さんの名前から来ている。そしてその奥さんのために書いた「メヌエット」が映画を通して鳴るひとつの響きとしてある。この「メヌエット」はピアノでもバイオリンでも楽器を習ったことがある人なら一度は弾いたことがある曲、なので体にすっと入ってくる感じがする。

映画の構成も第1楽章から第4楽章となっていて、クラッシク音楽の構成によっている。メヌエットが果たして4楽章構成なのかは知りませんが、とにかくこの映画は音楽になぞらえられているということは確か。

しかし、別に映画が音楽的というわけではなく、そういう構成になっているというだけの話。だから実際のところ、この映画は『アンナ・マデリーナ』である必要はなく、『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』でもよかったのかもしれない。

この映画でいい部分というのは実際のところ第4楽章の「変奏曲」の部分だけだといってもいい。第3楽章までは長いプロローグというのか、劇中劇を語るための舞台設定といっていいのか、すべてがこの第4楽章を語るための序章であるといっていいと思う。

ポイントはやはりモク・マンイー、それは第3楽章までのモク・マンイーではなく、あくまでガーフの物語の中でのモク・マンイー。映画を見ていない人には何のことやらさっぱりわからないとは思いますが、それでいいんです。見た人にしかわからない、見ていない人に語ってしまうのはもったいない。そんな映画があってもいい。

おそらく、この映画見て何も感じない人もいるでしょう。むしろ感じない人のほうが多いのかもしれない。あるいは感じたとしてもそれを表面化させない人もいるかもしれない。このモク・マンイーが心の琴線に触れる人はおそらくどこかナイーブな心を持っていて、しかもそれでいいと思っている人のような気がします。それをこの映画ではモク・マンイーのいる人といっているわけですが…

映画を作るものにはそのような感性は必要だとは思いますが、果たしてそれをストレートに映画にこめてしまっていいのか、という疑問が湧かないわけではありません。共感したり、理解したりできる人ならいいんですが、共感できない人には共感できない、感情の押し付けということもできるような作品でもある。ということは確かです。

なので、人に勧めることはできませんが、自分の心のナイーブさに何か肯定的なものを感じている人は見るといいかもしれません。

ホーム・アローン

Home Alone
1990年,アメリカ,102分
監督:クリス・コロンバス
脚本:ジョン・ヒューズ
撮影:ジュリオ・マカット
音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:マコーレー・カルキン、ジョー・ペシ、ダニエル・スターン、ジョン・ハード、キャサリン・オハラ、ジョン・キャンディ

クリスマスが近いある日、翌日から家族でフランスに行くことになっていたマカリスター家は兄夫婦とその子供も来ていて11人の子供を抱えててんやわんやの大騒ぎ、そして翌日停電によって寝坊した一家は大慌てで空港へ。しかし実はマカリスター家の末っ子ケヴィンがひとり家に取り残されていた…

いまや「ハリポタ」の監督として有名になってしまったクリス・コロンバスが監督としては初のヒットを飛ばした作品。脚本にはコメディの名手ジョン・ヒューズ、音楽にはジョン・ウィリアムズとスタッフもしっかりとしてし、脇を固める俳優もいいけれど、やはりなんといってもカルキン君の芸達者ぶりに脱帽。

コメディの名作に解説はいらないというのが私の気持ちなわけですが、やはり解説しなければなりません。

カルキン君は今では離婚なんかもして大変ですが、このころはとても芸達者な子供としていい味を出しています。今というかちょっと前は子役といえばオスメントですが、私はカルキン君のほうがかわいげがあって好きです。そういえば、このクリス・コロンバスは脚本家としても『グレムリン』とか『グーニーズ』とか作ってるし、いまは「ハリポタ」だし、子供ものを作るのが好きなのだと思われます。そもそもがアンブリン(スピルバーグの映画プロダクション)なので基本的に子供向けに強いわけですが、その中でもかなり子供を使う率が高い。だからこそ「ハリポタ」の監督に起用されたのだと思います。 そういう意味でも、この映画は現在まで見られてしかるべきで、しかもいつ見ても面白い。

もちろん、最大のハイライトはカルキン君が泥棒ふたりを撃退する最後のシークエンスなわけで、これをはじめてみた時は子供に帰って痛快感を覚えましたのを思い出します(といっても、たぶん高校生のころ)。

しかも、これは子供だましの映画ではなく、子供向けであっても大人向けと同じクオリティで作っているところがいい。子供の視点から見たファンタジーとして作るのではなくて、ある種のリアリズムを追求して映画が作られている。「そんなバカな!」と思わせるところはなく、すべての出来事がちゃんと複線を持って連綿とつながっているのです。

そして、コメディだけではなくファミリー・ドラマ的なものも盛り込むわけですが、これは家族向けとしては仕方のないこと。コメディとしてはそんなハートフルなものは取り除いて、とにかく笑わせればいいということになりがちで、基本的にはそういうコメディのほうが私は好きなんですが、この映画の場合はこのハートフルな面を入れることで物語全体がうまくまとまっているのでいいと思います。

2も3も今ひとつだったし、こういういいファミリー向けコメディというのは最近ないなぁ…

テルマ&ルイーズ

Telma & Louise
1991年,アメリカ,128分
監督:リドリー・スコット
脚本:カーリー・クォーリ
撮影:エイドリアン・ビドル
音楽:ハンス・ジマー
出演:スーザン・サランドン、ジーナ・デイヴィス、ハーヴェイ・カイテル、マイケル・マドセン、クリストファー・マクドナルド、ブラッド・ピット

ウェイトレスをして暮らす独身のルイーズと抑圧的な夫と暮らす主婦のテルマ、仲のよい二人は週末をルイーズの勤める店のオーナーの別荘で過ごそうとしていたが、テルマはそれを夫のダリルに言い出せず、結局黙って家を出てしまう。そして、開放的になったテルマは立ち寄ったパブではめをはずし、男と夜通し踊ったが…

大作のイメージのあるリドリー・スコットがふたりの女性を主人公にしたロードムーヴィー現代作った。なんといっても主人公のふたりがはまり役で、物語にも力がある。それまで泣かず飛ばずだったブラッド・ピットがブレイクするきっかけとなった作品でもある。

とにかく痛快。女性版『明日に向って撃て!』という観もあるわけですが、逃亡というのは非常に映画的で面白くなります。やはり緊張感が持続するというのが最大の要因なんでしょうけれど、ただそれだけでは伸びっぱなしのゴムのようで面白くはならない。たまにふっと緩む場所があるとそこに抑揚がついて面白くなるわけです。

その点で、この映画は非常にうまい、最初から2人のキャラクターが対照的な正確に描かれている。象徴的なのはもちろん2人が旅の荷物をパッキングする場面ですね。ここできっちりと几帳面なルイーズと大雑把で行き当たりばったり、しかし心配性なテルマというキャラクター設定がはっきりとわかる。そして、事件がおきるまでは「何か起きそう…」という緊張感を保ちながら、テルマがそれを緩ませる役を負っている。その役割は事件後もしばらくは続くわけですが、ある一点で、その二人の立場が逆転する。ネタばれ防止のためどこかは言いませんが、それはあからさまにわかることなので、大丈夫でしょう。

ふたりの間には常に主導権争い(別に争っているわけではないと思うけど)があって、どちらがリードしていくのかが流動的に動いている。そしてそれを示すのが運転とタバコ。運転は結構しょっちゅう変わるわけですが、主導権を握っているほうが運転することが多い。そして、主導権を握っているほうはタバコをすっているカットが多い。そもそもタバコをすっているのはルイーズだけだったのに、いつの間にかふたりともすうようになっているわけですが、この映画ではタバコというものはかなり意識的に使われている。最近のアメリカ映画ではタバコが小道具として使われることはなくなってしまったわけですが(タバコを吸っている人が出てきただけでR指定にするという案も出ているらしい)、80年代くらいまではタバコというのは非常にいい小道具として使われていたなぁ… などとも思ったりします。

とにかく、そのような小道具なんかに注目してみると、また主人公ふたりの心理の動きとかが見えるようになって面白い。

そのようにして二人の役割とか立場が変化していくことがこの映画の大きな原動力になっているわけです。だから、このふたりはアカデミー主演女優賞にダブル・ノミネートされたのもまったくうなずける話です。

あとは、脇役にも存在感があります。ブラッド・ピットもいいし、ハーヴェイ・カイテルもいい。ブラッド・ピットは実はウィリアム・ボールドウィンの代役で出演したらしいですが、これ以前にはほとんどテレビ俳優だったようです。ハーヴェイ・カイテルのほうもこの年『レザボアドッグス』にも出演し、ブレイクの年となったわけです。『レザボアドッグス』といえばルイーズの恋人役のマイケル・マドセンも『レザボア』で印象的な役を演じていました。

そう考えると、タランティーノを中心とした90年代のアメリカ映画とも関係がありそうなこの映画。その流れはウォシャウスキー兄弟あたりまでつながりそうな気がします。ウォシャウスキー兄弟の出世作も女性2人が主人公の『バウンド』だったし、リドリー・スコットといえば『ブレード・ランナー』で、90年代あたりのSF(あるいはオタク文化)の流れを先取りしたという印象もある。

ということなのかもしれませんが、そんなことはともかくこの作品は面白い。特に女性にはよいでしょう。痛快爽快。

リュシアン 赤い小人

Le Nain Rouge
1998年,ベルギー=フランス,102分
監督:イヴァン・ル・モワーヌ
原作:ミシェル・トゥルニエ
脚本:イヴァン・ル・モワーヌ
撮影:ダニエル・イルセン
音楽:アレクセイ・シェリジン、ダニエル・プラント
出演:ジャン=イヴ・チュアル、アニタ・エクバーグ、ティナ・ゴージ、ミシェル・ペルロン、アルノ・シュヴリエ

法律事務所に勤めるリュシアンは身長が1m28cmしかないいわゆる小人、周囲の人々にバカにされている視線を感じつつも誠実に仕事をこないしている。その彼が担当した離婚問題で離婚を実現するための手紙の代筆をしていたが、その依頼主である伯爵夫人に手紙を気に入られて婦人の邸宅に呼ばれる。同じころリュシアンは旅回りのサーカスの少女イジスと知り合う…

ベルギーの監督イヴァン・ル・モワーヌの長編デビュー作。モノクロに粗い画面を使って意識的にクラッシクな雰囲気を作り出し時代設定も現在というよりは20世紀前半にしてある。地味ではあるけれど実力を感じさせる作品。

全体としては1930年代の映画を今作ろうとしているという感じがする。舞台から人物、小物、フィルムにいたるまでその時代の設定で完璧に作りこむ。そんな意気込みがこの映画からは感じられる。何も知らずに見たなら、昔の映画だと思ったままずっと映画を見てしまうかもしれない。その仕掛けの意図はよくわからないが、とりあえず出来上がった映像はなかなか面白い。どれだけ古典に親しんでいるかによって受け取り方は違うだろうけれど、映像の完成度は高く、あまり古典を見たことがない人ならば、古典の魅力を発見する助けになるかもしれないと思う。

物語としては心理劇というか、リュシアンという主人公に矛盾する人間の心理を表現させているという感じ。くよくよ悩んだり、ぐだぐだとくだを巻いたり、といった直接的な表現を使うのではなく、彼の行動によってその心理を推察させる。心理劇としてはよくあるというか古典的な手法ではあるが、主人公を小人に設定することで複雑さが生まれるとともに、観客の先入観を利用することで観客の意識を誘導するのを容易にしているということも言える。

だから、観客はリュシアンの心理の動きを的確に読み取ることができる。監督が衝撃を与えようと考えたところは衝撃的に、共感を得させようとしたところは共感を感じられるように、映画を見られる。もちろん個人差あると思うが、この監督は丁寧に丁寧にだれも映画に乗り遅れないように配慮している気がする。

そのために重要なのはなんといってもゆっくりとしたテンポ。ハリウッド映画のようにぱっと見てすぐわかる映画の場合テンポをあげて観客を引っ張っていくほうが観客を映画に引き込むことができるが、この映画のように観客に推察させて導いていく映画の場合、考える「間」を的確に配して観客が自発的に映画の中に入り込むようにするのがいい。

この映画でそれが最も感じられたシーンは、リュシアンが伯爵夫人の家に忍び込むシーンだ。これは伯爵夫人がいる家にリュシアンが忍び込んで酒を飲み、夫人の夫人のカツラをかぶり、化粧をするというシーンだが、ここでも物語を急速に展開させず、リュシアンの心理を酒とカツラと化粧という小道具を使って映像的に表現していく。そして猫を何度も何度もインサートすることで、考えるべき「間」を与える。そしていつ見つかってしまうのかという緊迫感もある。視線もほぼリュシアンの視線にカメラが置かれ、リュシアンに同一化してその場にとどまることができるように配慮されている。

だから、観客は迷うことなくリュシアンの立場に身をおき、苛立ちや安らぎや憎しみや愛情を感じることができる。ある意味では陳腐といえてしまうかもしれないが、非常に観客に優しく、全体の暗い雰囲気とは裏腹に決して暗澹たる気持ちになる映画ではない。

古典的な映像の作り方というのもこの映画の雰囲気にマッチして、まさに昔の映画を見たような観後感(読後感のようなもの)がある。1930年代の映画というのはもう増えることがなく、その良さを味わうには優れた映画を繰り返し見るしかないと考えるのが普通だが、この監督はそういう映画を自分で新たに作ってしまえばいいと考えたのかもしれない。古典映画の再生産とでも言えばいいのか、そのような古典映画を現代に作るということもひとつのジャンルとして面白いかもしれないとも感じた。