Duli Shidai
1994年,台湾,127分
監督:エドワード・ヤン
脚本:エドワード・ヤン
撮影:アーサー・ウォン、ズァン・ズァン、リー・ロンユー、ホン・ウクシュー
音楽:アントニオ・リー
出演:チェン・シャン、チニー・シュー、チュンワン・ウェイミン、リチー・リー、ダニー・デン、リン・ルービン

 広告製作会社の社長モーリー、学生時代からの親友で会社でも片腕のチチ、モーリーの婚約者でお坊ちゃまのアキン、アキンとモーリーのもので働くラリー、チチの恋人ミン、など台北で暮らす若者たちの2日間を描いた群像劇。彼らにとって激動の2日間の心の葛藤を見事に描いた秀作。
 なんと言っても脚本が素晴らしいこの作品は、エドワード・ヤンの哲学をフィルムに刻み付けたというイメージ。2時間の中にすさまじいほどたくさんのセリフが詰め込まれ、ぐんぐん頭の中に打ち込まれてくる感動的な作品。

 普通、これだけ語る部分が多い映画というのは疲れるものなのだけれど、この映画は疲れない。見終わった後も爽やかな感動が心に残るだけで疲労感は感じなかった。むしろもう一回見てもいいかなと思ってしまうくらい。
 やはり本が素晴らしいと言うしかないが、もちろん映像がその助けをしていることも確かだ。しかしそれは際立った映像美というわけではなく、あくまでセリフが言わんということを引き立たせるため邪魔しない映像技術ということ。この映画で目立った効果といえば、完全に黒い画面で語られるセリフと、シーンとシーンの間に挟み込まれるキャプションくらい。特に暗い画面は完全に黒い画面以外にもかなりあった。やはり画面を暗くすると、人の意識は耳に行き(あるいは字幕に行き)、それだけセリフに集中できるということなのだろう。かなり哲学的ともいえる(決して小難しいわけではないが)セリフをあれだけのスピードでしゃべらせてそれを観衆の頭に詰め込むのはかなり大変なはず。しかしそれがすんなりと入ってくるのは、その映像的工夫があってこそだろう。シーンとシーンの間のキャプションというのも、字幕で見るわれわれにはわからないが、北京語を理解する人たちならば、目と耳から同時に言語情報が入ってくるわけで、それなりの効果を生むのだろう。
 ここで登場人物たちの心理が変化してゆく様子を解説するのは止めよう。この映画の素晴らしさはそれぞれの登場人物がそれぞれ「勝手に」考え方を変化させていくことである。といってみたところでこの映画の魅力はちっとも伝わらないし、逆にまとまりのない散逸な映画であるようなイメージを湧かせるだけだから。しかしひとつ言っておきたいのは、この映画を見ると、いわゆるラブロマンスの「相手の考えていることがわかる」なんていう演出は安っぽい作り物にしか見えなくなってしまうということ。決して結末に向かって物語が収束していくわけではないところがこの映画の最大の魅力なのだ。

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