1993年,日本,109分
監督:崔洋一
原作:梁石日
脚本:崔洋一、鄭義信
撮影:藤澤順一
音楽:佐久間正英
出演:岸谷五朗、ルビー・モレノ、絵沢萠子、小木茂光、磨赤児、萩原聖人

 在日朝鮮人の姜忠夫は同級生の金田が経営するタクシー会社で働いている。二人は友人の結婚式に出席、忠夫はそこで女に声をかけ、金田は同級生の新井と商売の話をする。そんなある日、忠夫はいつものように母の店で働くフィリピン人を店に送っていくが、そこに新しくチーママとして入ったコニーがいた。
 忠夫とコニーの恋愛を中心として、在日朝鮮人の姿を描いた。梁石日の小説「タクシー狂躁曲」を崔洋一が映画化したこの作品はある程度まで事実に基づいているという。全体としてかなり完成度の高いドラマ。

 「在日」というのは身近にあるようでなかなか考えない問題ですから、こういう映画がメジャーなものとしてるというのは非常にいいことなのでしょう。この映画の中に出てくる萩原聖人のようなスタンスが(誇張されて入るけれど)日本人の基本的なスタンスなのかもしれません。差別はしていない、けれど、無意識に差異化してはしまっている。普通に接していれば気がつかないけれど、名前とか、出身校とかそういったことから気づいてしまうと、なんとなく意識してしまうようなもの。
 ここまでは日本人である私の率直な感じ方として書きましたが、しかし、この文章にも在日の人たちがいるかもしれない、というよりむしろいるだろうということも意識せずにいられません。それはつまり、「差異」に対する意識というものが常に差別の培養土となりうるものであり、差異化される側がマイノリティである場合には特にそうであるということを意識しながら、慎重に話を進めてしまうということです。
 そのような(自分の)意識に気づきながらこの映画を振り返ってみると、まずこの映画は誰に語っているのか? ということ。もちろん映画というのは全世界に向けて語りかけられているものであるからには、世界中の人々に向けてということになるのだけれど、第一義的には誰に向けてかということで言えば、日本のマーケットに向けられた日本語のこの映画はまず「日本に住む日本語をしゃべる人々」に向けられているわけです。そこにはもちろん在日の人たちも含まれるわけですが、「日本人」と呼ばれる人に見られることを意識して作られたと考えるのが自然なわけです。
 話が回りくどくなってしまいましたが、そのようなものとしてこの映画を受け入れた上で私が感じることは、「差別を茶化すことによってその差別を回避しようとする姿勢」ですね。これは差別に対応する古典的な手法で、極端な例ではドラァグ・クイーンのようなものがありますが、この映画では、最後に忠夫が、コニーを乗せたときに、「運転手の姜(が)です」といったところがそれを象徴的に表しています。萩原聖人の差異化と無意識の差別をここで茶化し、笑い飛ばすことによって無意味化した。そのようなスタンスで撮られた映画だと私は思いました。
 どうですか? 

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