1961年,日本,92分
監督:増村保造
原作:井原西鶴
脚本:白坂依志夫
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:市川雷蔵、若尾文子、中村玉緒、船越英二、水谷良重

 京都の豪商のボンボン世之助は女が何よりも好き。女を喜ばせるためなら財産も命も捨てるそんな男だった。そんな男だからもちろん倹約、倹約で財産を築いてきた父親とはそりが合わなかった…
 市川雷蔵が念願だった世之助の役をやるために当時まだ若手だった増村保造と白坂依志夫のコンビに依頼、増村としては初の時代劇、初の京都撮影所作品となった。時代劇でも変わらぬスピード感が増村らしい快作。

 この作品はかなり速い。時代劇でしかも人情劇なんだから、もっとゆっくりとやってもよさそうなものだが、増村は情緒の部分をばっさりと切り捨ててひたすらスピード感にあふれる時代劇を撮って見せた。
 そのスピード感はストーリー展開にあるのだが、なんといっても一人の女性にかける時間がとにかく短い。それでいて主人公の冷淡さを感じさせることもない。そんな主人公に否応なく惹かれてしまうのは、世之助が自分をストレートに表現するいかにも増村的な人物だからだろう。日本の社会の封建的な部分が強調される江戸という時代にこれだけ自分の感情を直接的に表す人物を描くことはすごく異様なことであるはずだ。そのように理性では考えるのだけれど、そこからは推し量れない人間的な魅力というものをさらっと描き出してしまう増村はやはりすごい。
 そして、この映画のもう一つすごいところは中村玉緒演じるお町が棺桶の中でにやりと笑うシーンに集約されている。そしてそれがすらりと過ぎ去ってしまうところに端的に現れる。このシーンが何を意味するのかを考える時間は観客には与えられない。そんなことはなかったかのように次のシーンへと飛んでいく(なんと、地図をはさんだ次のシーンは新潟から熊本までと距離的にも離れている)ので、われわれはすっかりそのことを忘れてしまう。しかし、見終わってふと考えると、「あれはいったいなんだったんだ?」と思う。いろいろと答えらしきものは思いつくけれど、それが何であるかが重要なのではなくて、見終わった後までも楽しみを継続させてくれるところがにくい。
 あるいは、世之助に心底入り込んでしまった我々は若尾文子演じる夕霧の美しさに息を呑む。心のそこから彼女を喜ばせたいと思う。その若尾文子の出番は本当に短く、ほんの一瞬にすら感じられるのだけれど、その余韻はいつまでも続く。
 こんなに終わって欲しくないと思った映画は久しぶりに見た。面白い映画というのは結構あるけれど、それは見終わって「ああ、面白かった」と満足して思う。しかしこの映画は面白くて、見ている間も「終わるな、終わるな」と心で叫び、終わった後は「終わっちゃった」と残念な気持ちを残す。「この映画が永遠に続いてくれたら幸せなのに」と。

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