1960年,日本,96分
監督:増村保造
脚本:菊島隆三、安藤日出男
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:三島由紀夫、若尾文子、船越英二、志村喬、川崎敬三、水谷良重

 東京刑務所、今日出所予定の111番の男に面会が告げられた。しかしその111番はバレーボールの最中で仲間に代理を頼む。代理の男が面会室に行くと、そこにいた妖しげな男は相手の名前を確認して銃を発射した。実は111番の男は朝比奈組の二代目で別の組に命を狙われていたのだった。
 作家の三島由紀夫を主演に起用したかなり型破りな作品。内容もただのやくざものではなく、増村らしい人情劇という感じ。

 なんといっても三島由紀夫の存在感はすごい。いきなり上半身裸でマッチョぶりを見せつけ、その後も棒読みのセリフとお世辞にもうまいとはいえない演技ながら、それを個性としてしまうほどの存在感を示す。増村さえも食ってしまったという印象すらあるが、私はこれは増村の戦略だと思う。増村映画レギュラーの名優達に志村喬を加えた豪華脇役陣を使って三島の個性を引き出す、そんな戦略。
 それが感じられるのは、この映画では三島が前景に出る場面が多いということなどからである。たとえば若尾文子と二人でいる場面で、若尾文子が話している場合でも、前景に三島を置いて、奥の若尾文子にピントを合わせるシーンなどがある。他のシーンでもこのような場面がいくつか見られた。主役ということもあるかもしれないが、増村のほかの作品と比べても主役が画面に閉める延べ面積が大きかったように思える(延べ面積で計算することもないんですが…)。だから逆に三島がいない画面はどことなく寂しく感じられるのだろう。
 だからこれは単純に三島由紀夫の個性の問題ではなくて、増村保造の撮り方のけれど、役者でもなんでもない人を堂々と主役に据えてとるんだからそれくらいの事は仕方ない。そして、役者でもなんでもない人を使い、その個性を前面に押し出したからことで切るラストシーン。このいい画を取るために常識も何も捨ててしまったラストシーンを見れば、増村がいかに三島由紀夫の個性を買っていたかが分かる。
 そういえば、増村も三島も(精神的に)マッチョな感じで近しいところがあるのかもしれない。増村は「女なんて力でねじ伏せちまえば…」的な描写がこの映画にも出てきたし、他の映画でもたまに見られるようにかなりマッチョな性格なようです。見た目はそうでもなさそうなのに。三島由紀夫は言わずもがな。まあ、時代性もあるとは思いますが、いま見ると「そんな…」と思ったりもします。

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