Blow-up
1966年,イタリア,111分
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
原作:フリオ・コルタサル
脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ、トニーノ・グエッラ、エドワード・ボンド
撮影:カルロ・ディ・パルマ
音楽:ハービー・ハンコック
出演:デヴィッド・ヘミングス、ヴァネッサ・レッドグレーヴ、サラ・マイルズ、ジェーン・バーキン

 大勢の若者が白塗りの顔で車に乗って騒いでいる、簡易宿泊所(?)から無言で人々が帰ってゆく。そんな映像とハービー・ハンコックの音楽で始まるこの映画の主人公はカメラマンのトーマス。売れっ子カメラマンらしくわがまま放題に行動するトーマスはまた撮影の途中でスタジオを抜け出す。公園へとやってきた彼は、カップルのいる風景を写真に撮るが…
 アントニオーニの後期の代表作のひとつ。カンヌではパルムドールを受賞。

かなり理解しがたい物語であるが、それは登場人物たちの関係性やトーマスの行動原理がまったく見えてこないことにある。スタジオの程近くの家に住む美女はいったい誰なのか? なぜ料理を注文しておいて車で去ってしまうのか?
 この映画の原作者のフリオ・コルタサルはラテンアメリカの多くの作家と同様に幻想的な作品を多く書いている作家である。
 そんなことも考えながら映画を反芻していると、なんとなくいろいろなことがわかってくる。現実と非現実を区別するならば、誰が現実の存在で誰が非現実の存在なのかということ。トーマスがエージェントらしい男に見せる老人たちの写真。映画に写真として現れるのは、この老人たちの写真と公園の写真だけである。映画の冒頭で簡易宿泊所(?)から出てきたトーマスがおそらくそこで撮ったのであろう写真。トーマスの行動は若者が夢想する典型的な自由であるように思える。
 すべてが幻想であり、虚構であると考えることは容易だ。しかしこの映画がそんな単純な「夢」物語なのだとしたら、ちっとも面白くないと思う。何でもありうる「夢」の世界で起こる事々を単純な仕組みで描いただけであるならば、ありがちな映画に過ぎない。この映画の優れている点はこれが「夢」物語であるとしても、少なくともある程度は「夢」物語ではあるわけだが、誰の「夢」であるのかがはっきりとしないことだ。いくつもの解釈の可能性があり、どれが正解であるとは決まらない。単純な「夢」の物語と考えず、その現実とのつながり方を考え、いくつもの可能性を考えたほうが面白い。
 少なくとも一部は「夢」であると考えられるのにこの映画は「リアル」である。トーマスが一人になる場面がいくつかあるが、そこで彼は完全に無言である。不要な独り言やモノローグは存在しない。大仰な身振りも存在しない。トーマスを見つめるカメラの目が彼の行動を解釈しているに過ぎない。

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