1954年,日本,102分
監督:成瀬巳喜男
原作:林芙美子
脚本:田中澄江、井手敏郎
撮影:玉井正夫
音楽:斎藤一郎
出演:杉村春子、沢村貞子、細川ちか子、望月優子、上原謙

 広い屋敷に聾唖のお手伝いと二人暮しのきんは不動産を売買したりしながら小金を貯めこんでいる。昔の芸者時代の友達にも金を貸し、足しげく取り立てに向かう。そんなきんときんから金を借りている3人のむかしの仲間。40を過ぎ、華々しい生活とは離れてしまった彼女たちの日常を淡々と描く。
 「めし」と同様、成瀬巳喜男が林芙美子の原作を映画化。味のある女優たちを使って渋くて味のあるドラマを作ったという感じ。

 この作品はすごく面白い。それはここに登場する主に4人の女の人たちが非常に魅力的だからだ。主人公の“きん”を演じる杉村春子はもちろんだが、他の沢村貞子、細川ちか子、望月優子も本当に素晴らしい。なかでも、いちばんよかったのは望月優子演じる“とみ”である。
 他の3人がかなり名前がある女優であるのに対し、この望月優子だけはかなり地味である。しかし彼女は劇団のたたき上げであるだけに確かな演技力を持ち、脇役としてはかなり活躍していたし、1953年の木下恵介監督の『日本の悲劇』では見事に主役を演じ、毎日映画コンクールの女優賞も受賞している。ちなみにだが、71年には社会党から参議院選に出馬し当選、女性層の支持が強かった。
 その望月優子がこの作品で見せる演技は本当に素晴らしい。彼女はどっかの寮で掃除婦をしていて、細川ちか子演じる“たまえ”とひとつ家に同居している。最初に登場するのはそのたまえへの借金の催促に行こうとするおきんがたまえがいるかどうかをとみに確かめに来るのだ。とみはおきんからは借金していないが、寮の若い男から借金しているらしく、催促されるのだが、それを色目だかなんだかわからない表情をして「もうちょっと待ってよー」と甘ったるい声でいう。この独特の雰囲気でもうかなり面白い。
 さらにはギャンブル好きの酒好きという設定で、映画の終盤で細川ちか子とふたりで酔っ払うシーンがまた面白い。文字で書いてもちっとも面白くないと思うので、詳しく書く事はやめるが、中年女性さもありなんという感じのふたりの酔っ払い具合と関係がほほえましくも面白い。
 この望月優子と細川ちか子はもう大きい子供がいて、夫はいないという点で共通点があり、ひとつのわかりやすいキャラクターとして成立している。望月優子がもと芸者であったのに対して、細川ちか子のほうはそうではなく、仲居だったようなことを言っていた気がするが、今では別な形ではあるがふたりとも掃除をして生活している。
 この夫なし、子供ありの水商売の女性というのは成瀬映画にたびたび登場してきたキャラクターである。小さな子供を抱えながら生活して行くためにバーで働かなければならない女性、その女性のなれの果てというか、十数年後がこのふたりということになるのだろう。その点でもこのふたりのキャラクターは面白い。子供がいれば幸せだという母性の肯定も実は成瀬が女性を描くときの特徴のひとつだったのだとこの作品を観ながら思う。
 成瀬映画といえば自立しようとする女性が主人公で男や家族がその足かせになる。というものが多く、普通に考えたら子供も足かせになりそうなものだが、成瀬の考え方はそうではない。子供は女性の自立のうちに入っており、子供を抱えながらも独立独歩頑張って行くという女性を成瀬は応援するのだ。

 それに対して、沢村貞子が演じるのぶは成瀬が描く女性の典型から外れている。なんと言っても夫婦仲がよい。夫(沢村宗之助)は情けない男の類型に入りそうだが以外にしっかりしていて、妻の尻にしかれているような体裁をとりながら妻との関係をうまく保っているようだ。つまりふたりは幸せなのだ。沢村貞子があまり登場しないのは、幸せな人を描いてもあまり面白くないからだろう。
 そして、杉村春子である。杉村春子は成瀬が描く重要なモチーフである女と金を集約したようなキャラクターである。しかも最終的に金に頼ることを選択した女、成瀬は女は男に(その男は必ず情けない男なのに)頼ってしまうという女の生き方を書き続けてきたが、ここで男に頼らない女、お金に頼ることで一人で生きて行く女を描いた。それは、彼女が散々男に苦労してきたからであるが、やはりじつは、男に頼りたいというかやっぱり男が好きで、上原謙演じる田部がやってくるのをうきうきと待ったりする。
 そのうきうきとした姿を金を勘定している彼女の姿と対比してみると、杉村春子という女優がいかにすごいかがよくわかる。そのどちらが本当の彼女の幸せか、あるいはどちらも幸せではないのか、どちらも幸せなのか、そのあたりの微妙な心理を見事に演じきっている。そしてその彼女の心理の機微や心境を見事に演出する成瀬も非常にうまい。私は、映画の最後の最後、杉村春子が駅の改札を抜けようとするときに、切符をなくしてあっちこっちを探すシーンがとても好きだ。

<前のレビュー>

 本当にただ元芸者の4人の女たちの日常を描いただけの物語。何か事件が起こりそうな雰囲気はあるのだけれど、結局何も起こらず、淡々と終わる。それでも、あるいはむしろそのことで、4人の女たちのそれぞれの人間性のようなものが見えてくる。しかも、それは単純にキャラクタライズされた紋切り型の人間性ではなく、どこか多面性を持っているもの。もちろん人間誰しも多面的で、一つのキャラクターに押し込むことはできないけれど、映画という限られた時間の空間の中で、その多面性を描くのは難しいと思う。しかも、何かの事件があって、そこから明らかになっていくのではなく、シンプルなまったく日常的な交わりの中でそれを描いていくということの難しさ。そして、その難しさを感じさせないほどさらりと描ききってしまう「いき」さ。そこにやはり成瀬のすごさを感じてしまう。
 しかし、そうはいってもこの映画はあまりに渋い。その渋さを破るのは、きんの家の昼の場面でかならずなっている何かをリズミカルに叩く音(何の音だろう?)と物語の終盤で突然入る杉村春子のモノローグ。このふたつの変化球は映画全体を純文学的にしてしまうことを防いでいる。言葉にならない感情の機微を観客に読み取らせようとするような難解な映画にはせず、渋いけれども肩を張らずに見れる映画にしていると思う。特にあの音は、お手伝いさんが聾唖であることもあって無音になりがちな家の場面にさりげなく音を加える。単純なリズムであることで、音楽のように余分な意味がこめられることもない。あの場面が無音だったら、と仮定してみると、きんはもっと思いつめた、何か心ぐらいことか差し迫った理由があってお金儲けをしているように見えてしまったかもしれない。そう考えると、あの単純なリズムによって主人公のキャラクターが軽くなり、映画も軽くなったということができるような気がする。
 そういうさりげなさが成瀬巳喜男の「いき」さの素なのだと思います。なるほど、もともと女性を描くのがうまい成瀬がお気に入りの女流作家林芙美子の作品を映画化すれば、こうなるよね。という作品。

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