1962年,日本,96分
監督:川島雄三
原作:新藤兼人
脚本:新藤兼人
撮影:宗川信夫
音楽:池野成
出演:若尾文子、川畑愛光、伊藤雄之助、山岡久乃、浜田ゆう子、高松英郎、船越英二
息子が会社の金を着服し、娘は作家の妾に納まって優雅な生活を送っている岡田家。息子の会社の社長が殴りこんでくるというので、普段の豪勢な内装をみすぼらしいものにかえ、そ知らぬ顔で社長を迎える。そこには会計係の美しい女がついてきたが、実は彼女こそが…
川島雄三がアパートの一室を舞台に、作り上げた一風変わったドラマ。サスペンスというかなんというか、とにかく川島雄三の天分と自由さがいかんなく発揮された作品。登場する人たちもはまり役ばかり。特に若尾文子はすごいですね。
川島雄三は自由である。その自由が許されるのはやはり才能ゆえなのであろう。ゴダールも自由だが、彼もまた天才であるからこそ自由でありえる。
最初のシーンから、窓から2つの部屋を同時に見るというショットである。2つの部屋を同時に撮ること自体はそれほど新しいことではない。しかし、この仕掛けが映画を通して繰り返され、窓からにとどまらず、上から下からのぞき穴から、区切られた二つの空間をさまざまな形で同時に移しているのを見ると、この監督がいかに空間というものから自由であるかがわかる。ひとつの部屋をひとつの空間としてとらえることは容易だけれど、複数の部屋をひとつの空間と考えて、それが作り出すさまざまな空間構成を操作することは難しい。そこに必要なのは自由な発想である。天井があるはずのところにカメラをおく、ありえないようなのぞき窓を作ってしまう。そのようなことができる自由さが保障されるのは、やはりそこから出来上がるものがあってこそ。それが自由と才能を結びつけるものだと思う。
しかし、天才というのは理解できないからこそ天才であるという面もある。この川島雄三の映画も、そんな空間の扱い方にとどまらず、やたらと画面の中に人物を詰め込むやり方などを見ても、「すごい」とは思うけれど、そのそれぞれにどのような意味や効果がこめられているのかを理解することは(私には)できない。それらのつながりが見えてこず、ばらばらな印象を受けることもある。だから手放しにその才能を賛美することはできないが、どの作品を見ても感じられる自由な感覚には酔うことができる。
川島雄三はすごい画面を作り、なかなか理解しがたい仕掛けを映画に仕込む。それは天才であるということかもしれないし、人とは違う感性を持った理解できない人間であるだけかもしれない。重要なのはそのどちらであるのかという判断は、川島雄三という映画監督にかかわることに過ぎず、それが個々の映画の見方を縛るわけではないということだ。川島雄三という名に固執して映画を見ること彼が最も重要視していたと推測できる「自由」に反することだ。川島雄三が撮った自由な映画を見るとき、見る側もまた自由でなければならないと思う。この映画で言えば、すべてのドラマが展開されるアパートの一室を中空に浮いたひとつの透明な箱ととらえたい。見るものはその透明な箱の周りを自由に飛び回ることのできる翼を持った存在だ。そのような自由な存在にわれわれをしてくれるのが川島雄三だ。
川島雄三はこのように、閉じられた空間をとらえることによって自由な感覚を生み出したけれど、それができたのは、彼が誰にもまして自由だったからだろう。
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