Zir-e Derakhatan-e Zeyton
1994年,イラン,103分
監督:アッバス・キアロスタミ
脚本:アッバス・キアロスタミ
撮影:ホセイン・ジャファリアン、ファルハッド・サバ
出演:ホセイン・レザイ、モハマッド・アリ・シャハーズ、タヘレ・ラダニアン

 この映画は「映画監督役をする」という俳優のセリフから始まる。そして彼以外の出演者はみな素人であると宣言され、出演する女性を探すシーンで映画がスタートする。その後も映画の撮影そのものとそれにまつわる出演者たちのエピソードで映画は展開されていく。
 どの出演者も実名で登場することもあって、どこまでがフィクショナルな部分なのかはまったく判別がつかない。しかし、キアロスタミ本人は登場しないことから、全体としてはひとつのフィクションとして作られているということなのだろう。

 これはとても不思議な映画だ。おそらく多くの部分は素人の出演者たちの生な部分なのだろう。演じるように指示されたものかもしれないが、それは事実に基づく物語であるように思える。とはいえ、ここではどこまでが事実でどこからがフィクションであるのかの線引きをすることはまったく重要ではない。重要なのはこれがフィクションであるにしろ、イランの現実を反映しているということだ。「友だちのうちはどこ?」の撮影で訪れた土地が地震に襲われ、多くの死者が出たことから紡がれることとなった2つの物語。それは「そして人生はつづく」とこの「オリーブの林をぬけて」だが、その二つの物語に登場する人々はまったくの現地の人たちであり、たとえばホセインは映画の中で述べているように25人の親戚を地震で失ったのだろう。
 そのように非常に事実であるにもかかわらず、全体はフィクションであり、しかも映画の撮影を撮った映画であるという複雑さが全体を不思議な雰囲気にしているといえる。そして素人たちが映画作りに加わることから生じるさまざまな事態も不思議な雰囲気を醸し出す一因だ。これは推測だが、この素人が加わることによって生じる事態というのはキアロスタミ自身が前2作を撮るときに感じたものをそのまま映画に表現したものなのだろう。映画の中での監督が、どうしても「ホセインさん」といわないタヘレに怒りを爆発させそうになるが、相手役のホセインに「最近は夫にさんなんてつけない」とたしなめられて、自分の主張を引っ込める。これなどはキアロスタミが実際に経験したことなのだろうと思える。そのような事態はプロの役者を使ったら絶対に起こらないことだろう。
 このようなことが起きることでキアロスタミは映画のすべてをコントロールすることはできないと気づいたかもしれない。そしてそれを表現するべくこの映画を撮ったのかもしれないと思う。そう思うのはこの作品以後もキアロスタミが素人の役者たちを使い、それによって起こる予想外の事態を積極的に映画に取り入れているように見えるからだ。このような傾向はキアロスタミにとどまらず、イランの監督たち一般に言える傾向である。この監督に統御しきれないところから生まれた要素というのが私にとってのイラン映画の魅力のひとつである。
 しかし、キアロスタミはしっかりと自分の仕事もし、自己を強烈に主張する。それは、ラストシーンである。それまでまったく使わなかった音楽を使い、そしてあの圧倒的なロングショット。誰もがただの白い点になってしまった人物の一挙手一投足を目を細めてみてしまうだろう。それはもちろんこのラストシーンに至るまでの二人の物語にわれわれが入り込んでしまったからこそなのだろう。そんな非常に魅力的なラストシーンはキアロスタミの映画の中でも最上の5分間だと思う。そして映画史上においても屈指のものだと思う。

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