愛情萬歳
1994年,台湾,118分
監督:ツァイ・ミンリャン
脚本:ツァイ・ミンリャン、ヤン・ビ・リン、ツァイ・イチャン
撮影:リャオ・ベンジュン
出演:ヤン・クイメイ、リー・カンション、チェン・チャオロン

 セールスマンのシャオカンはある日、高級アパートで扉に刺さったままになっている鍵を見つけ、それを抜き取って持っていく。その夜、そのアパートに行ってみると、そこは空き家のようだった。夜の街で何度かすれ違う男と女が言葉を交わさぬまま、そのアパートにやってくる…
 台湾ニューウェーヴの旗手の一人ツァイ・ミンリャンを一躍世界の舞台へと引き上げた作品。せりふもあまり交わされず、まったく音楽を使わないというところも印象的な作品。

 映画全体にわたって、何かが起こりそうという期待感を抱かせながら、何も起こらないというパターンの繰り返し。その「何かが起こりそう」という期待感は映像の構成の仕方にある。たとえばメイがベットに横たわる場面。画面の左側が大きく開き、メイの視線はその空白の向こう側に注がれている。この画面をぱっと見ると、その視線の先に何かありそうな気がする。そこで何かが起きそうな気がする。しかし、メイの視線はうつろになり、そのまま何も起こらずにシーンが切り替わる。同じように、シャオカンがベットに横たわるシーン。シャオカンのクロースアップから仰向けになったところを正面から写すショットに変わる。そのとき、シャオカンの顔や視線は映らない。このように近いショットから、いわば他者の視線へと移ると、そこには具体的にその画面を見つめる誰かがいるのでは?という気持ちにさせられる。しかし、それは具体的な誰かのショットではなく、誰もおらず、言葉にならないシャオカンの一人語りが続くだけだ。
 このような裏切りというか肩透かしは、われわれが映画による感情の操作に慣らされているせいでおきるのだと気づく。映画を見るということを繰り返すうちに、そこにあるひとつのパターンに染まり、ひとつの典型的な映像の作り方が出てくると、その後起こるべきことを勝手に想像する。もちろんそれは常にあたるわけではないけれど、あたることが多いからこそ一つのパターンとして無意識のうちに認識されるようになるのだ。
 そのようなパターンを裏切ることが映画に驚きを加え、映画を面白くするということもわかる。だから、そのようなパターンはたびたび裏切られる。しかしそれはあくまで驚きを「加える」ためだ。この映画はすべての場面でその期待を裏切る。それは最初のうちは生じていた驚きを最後には拭い去ってしまう。裏切られることを当然として映画を見るようになる。
 最後の一連のシーン。ただただ歩くメイを映すカット、長い長いパン移動のカットこれらはその後に何かが起こることを期待させるカットであるはずだ。しかし、2時間この映画に浸ってしまうと、普通にこのシーンを見た場合とはなんだか感触が変わってしまっている気がする。それはこの映画が執拗に浮き出させようとする「孤独」というものとも関連があるかもしれないが、今日のところは画面に映ったものだけにこだわって考えてみた。

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