L’Albero Degli Zoccoli
1978年,イタリア,187分
監督:エルマンノ・オルミ
脚本:エルマンノ・オルミ
撮影:エルマンノ・オルミ
出演:ルイジ・オルナーギ、オマール・ブリニョッリ

 19世紀末のイタリアの農村、地主に収穫の3分の2を取られながら、その土地にすがるしかない農民たち。そんな農民の一人バティスティは神父に進められて息子を学校にやることにした。しかし、生活は依然として苦しい。
 貧しい農民たちの暮らしを淡々と描く作品。舞台を19世紀末と設定したことによりかろうじてフィクションの形をとっているが、映画の作り方としてはドキュメンタリーに近いものといえる。

 この映画がフィクションであると断言できるのは、最初に説明される19世紀末という設定があるからである。この映画が撮られた時代を含む現代ではこのような農村は存在しなくなってしまい、このような映画をドキュメンタリーで撮ることは難しくなってしまった。だから、この映画はフィクションとしてとられるしかなかったのだ。しかし、あえて言うならばこの映画はドキュメンタリーであってもよかった。ありえないことは承知でこれを19世紀末の農村に関するドキュメンタリーと言い切ってもよかったはずだ。
 この映画で19世紀末の農民たちを演じているのはおそらく現代の農民たちで、彼らは自分たちの先祖を追体験しているのだ。それほどまでにこの映像は真に迫っている。農民たちの真剣な目、土に向かうひたむきな姿勢、機械のない前近代的な農業にしか宿ることのない美しさがそこにある。
 ここに見えてくるのはフィクションとドキュメンタリーの、あるいは劇映画と記録映画の境界のあいまいさだ。この映画で作家が提示したかったものは、現代には存在せず、19世紀にしか存在しなかった。それが具体的になんであるかということはこの映画はあからさまには主張しないが、おそらく現代に対する一種の批判であるだろう。人と家畜が、あるいは人と植物が、人と土が親密であった時代から現代を批判する。もちろん、その時代はただ美しいだけではなく、非人間的な生活を強要され、生きにくい時代でもあっただろう。この映画はその両方を提示しているが、力点が置かれているのは美しさのほうだ。だから、彼らが悲劇的な境遇から救われたり、自ら抵抗の道を選ぼうとはしない。これがフィクションであり、ひとつのドラマであり、虐げられた人々のドラマであると了解している観客は彼らがどこかで立ち上がり、自由を勝ち取るのだと期待する。そのように期待して遅々として進まないストーリーを追い、画面の端々に注意を向ける。

しかし、この映画ではそのような抵抗や革命は起こらない。それはこの映画から数十年前に同じイタリアで作られたネオ・リアリズモ映画ならありえた展開だが、この映画ではそれは起こりえない。観客は裏切られ、この映画の劇性に疑問を持つ。しかし、観客が裏切られたと気付くのはすでに映画を見始めてから2時間半が経ったときである。単純な日常を切り取っただけの映画、まるでドキュメンタリーのようなフィクション。そのとき観客はすでに、そのような映画であるとわかった映画の世界に入り込んでしまっている。ドキュメンタリーであるフィクション。黙ってただ立ち去る彼らを見ながら、やり場のない怒りを感じながら、しかしその怒りを映画に向けるわけにはいけないことを知っている。これはドキュメンタリーであって、フィクションではないのだから、映画には結末を操作できないのだと。そのような幻覚を抱かざるを得ない。彼らは別の土地に移り住み、やはり土とともに生き、しかし今よりさらに過酷な生活を強いられるのだとわかっているから。

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