大理石の男

社会主義体制下でしたたかに社会に訴えかけるワイダの労作

Czlowiek z marmuru
1977年,ポーランド,160分
監督:アンジェイ・ワイダ
脚本:アレクサンドル・シチ、ボル・リルスキ
撮影:エドワルド・クウォシンスキ
音楽:アンジェイ・コジンスキー
出演:イエジー・ラジヴィオヴィッチ、ミハウ・タルコフスキ、クリスティナ・ヤンダ、タデウシュ・ウォムニッキ

 大学の卒業制作の映画制作に取り組むアニエスカは大理石像にもなった労働者の英雄ビルクートの生涯を追う。“技術的理由から”未発表となったニュースフィルムに彼の姿を認めたアニエスカは昔の彼を知る人物にインタビューをしていくが、なかなか彼の実像に近づくことができない…
 “抵抗三部作”以来久々にワイダがポーランド社会を正面から捉えた労作。カンヌ映画祭国際批評家賞を獲得。

 レンガ工としてレンガ積みの新記録を作り、英雄に祭り上げられた男ビルクート、いまはその消息すら聞こえてこないその男を映画にしようと考えたアニエスカは博物館の倉庫に埋もれている彼の大理石像を発見する。

 そして、映画は彼女がビルクートの生涯を追っていくのに伴って彼の生涯を描いていく。彼が名を上げたレンガ積みを記録した映画監督、その時代に彼と親交があった男、その話を基に作られた再現映像が積み重ねられ、彼の実像が徐々に明らかになっていく。なぜ英雄であった彼の写真が壁からはがされ、行方も知れぬ存在になってしまったのか。その物語は非常に面白い。

 彼を知る人々は警戒心を抱きながら、彼に関する事実を少しずつ明らかにしてゆく。未発表のニュース映像なども見つかり、このビルクートという人物に観客の興味はひきつけられていく。そして、その中でポーランド社会の誤謬や体制の理不尽さなどが明らかにされてゆくのだ。

 なぜこの映画がポーランドで可能になったのかと疑問を覚えたが、よく考えればこの作品が槍玉に挙げている社会の不正はあくまでも昔のものであり、おそらく旧体制のものだったのだろう。この映画が作られたそのときの現存する政権に対する批判が含まれていなければ検閲は通る。そういうことだったのではないかと私は思った。

 2時間40分という長尺はさすがに長く感じられ、終盤には見疲れてしまう感じもあったが、最後の最後まで考えられた構成はさすがとしか言いようがない。最後にアニエスカはビルクートの息子を見つける。その息子は再現映像に登場したビルクートにそっくりなのだ。そして彼は淡々と「父は亡くなりました」という。このアンチクライマックスは拍子抜けのように思えるが、最後の最後アニエスカはビルクートの息子とテレビ局に行く。そのときふと気づくのだ。再現映像に出ていたのはこの息子なのだと。

 そこからこの長い映画の持つ意味ががらりと変わる。この作品に挿入されていたもしかしたら再現映像は彼女がこの息子を発見してから撮ったものかもしれないのだ。だとすると、ニュース映像として提示されているそっくりの人物が登場する映像も…? ビルクートとそっくりな息子が登場することでこの映画には多くの謎が生まれ、さまざまな解釈が生まれる。

 そして、ワイダが4年後に同じ二人を起用した『鉄の男』を撮っていることも意味深だ。しかも、この『鉄の男』はポーランドに成立した“連帯”を支持する作品として作られた。

 ワイダはこの『大理石の男』で“連帯”へと向かう若者たちを予言しているかのようにも見える。あるいは、“落ちた英雄”の伝記という形を借りて、現在の若者が抱える社会に対する疑問を映像化したというべきか。しかもその疑問は表立っていわれることは決してなく、幾重にもカモフラージュされた表現の中にのみ見出すことができるのだ。

未知との遭遇

Close Encounters of the Third Kind
1977年,アメリカ,135分
監督:スティーヴン・スピルバーグ
脚本:スティーヴン・スピルバーグ
撮影:ヴィルモス・ジグモンド、ラズロ・コヴァックス
音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:リチャード・ドレイファス、フランソワ・トリュフォー、テリー・ガー、リンダ・ディロン

 砂漠で、なぞの飛行物体が目撃され、そこには第二次大戦中に消息を絶った飛行機が一隊丸ごと新品同様でとまっていた。一方アメリカでは、子供部屋のおもちゃやレコードが動き出し、それを見たバリー少年は何かに誘われるようにして部屋を出て行った。電気工事員のロイは電話で呼び出され、停電を直しに車を走らせる途中、巨大な光る飛行物体を眼にする。そして何かに導かれるように山に行くと、何台ものUFOが道に沿って飛んでいった…
 スピルバーグが『激突』、『ジョーズ』に続いてとった、いわずと知れた名作。制作されたのは『スター・ウォーズ』と同年で、宇宙をスペクタクルとしてとるルーカスとの対比がこのころから明らかである。

 宇宙人が人々の頭にある種の共同幻想を植え付けるという発想はなかなかいい。この映画で一番面白いのは「山」で、「この山はいったい何なんだ」という謎解きが映画の展開に最も重要なものとなっている。これによってただ宇宙人がやってきたというだけの話しを2時間以上も引っ張れるんだと思う。本当は宇宙人がやってくるということ自体よりも、そのことが引き起こす社会的な問題。個人のレベルでおきるいろいろな問題を描きたかったんだと思う。
 しかし、映画としては宇宙人のほうが確実に人類より上である種の神のような存在として描かれているという問題もある。人類は宇宙人にすべてをゆだね、こちらから見れば固体の区別もつかないような宇宙人が人間を選ぶに任せる。これは宇宙人の一種の全能性を信じてしまっているということだ。
 スピルバーグの映画の魅力と欠点はいつもこの「素朴さ」に由来するような気がする。素朴にひとつのことを信じ、それを疑うことなく映画にしてしまう。この映画の場合はユダヤ的な選民思想の一変形という気もしなくはないけれど、それはまあおいておいて、とにかく神的な存在に対する信念というか、絶対的な何かが存在していることを手放しで信じているという節がある。そのあたりがどうも見ていて気持ちが悪いところ。帰ってきた人たちが遺伝子操作とかされていて、地球を何らかの形でコントロールしようとしているのかもしれないとか、時間に対する捕らえ方が違うかもしれないとか、いろいろと疑問がわくのが普通だろうに、特に何かコミュニケーションをとろうとすることもなく、一人の人間を宇宙人に渡してしまう。その素朴さがどうにも気にかかる。
 スピルバーグの「素朴さ」はある種のわかりやすさとなって映画に出現するので、それはそれでいいのだけれど、それが一面的な見方しか見せないために無視されてしまうものがあまりに多い。スピルバーグぐらいの人になると、世界に与える影響も強いだけに、その一面的であることに対して自己言及的に語ろうとしないのは問題であると思う。

 この映画自体は『2001年』の影響が如実に感じられ、しかし10年も前に作られた『2001年』のほうが緻密で美しく、キューブリックの域には達していないわけですが、特撮というか宇宙船なんかをリアルに見せる点ではかなりうまい。SFと現実をうまくミックスして映像化するという点においてはスピルバーグが先駆者であることは間違いない(ルーカスもすごいけど、ルーカスの場合は基本的に非現実/非日常のなかで映像を作っている)。
 ということで、やはりスピルバーグにはメッセージとか、ある種の思想とかではなくて、エンターテインメントを求めるべきだということでしょうか。作られてから25年がたち、名作となってもそこから思想性は出てきません。

チェブラーシカ

CHEBYPAWKA
1974年,ソ連,64分
監督:ロマン・カチャーノフ
原作:エドワード・ウスペンスキー
音楽:ウラジーミル・シャインスキー

 何故かオレンジの箱の中で眠っていた不思議な生き物、見つけた果物やさんが「チェブラーシカ」(ばったりたおれ屋さん)となづけて、動物園に連れて行くけど受け入れてもらえず、ディスカウントストアの前の電話ボックスに住むことに。でも、ワニのゲーナという友達もできて…
 ロシア人なら誰でも知っている(らしい)ソ連時代のアニメーション、人形をコマ撮りで動かすというとても手間の掛かることをやっているが、とにかくかわいいのでそれでよし。

 えー、物語の内容はもちろんどうでもいいわけですが、2話目のあたりとか社会主義思想を子供たちに広めようというか、子供のうちからそういう価値観を植え付けようというか、そんな意図がなんだか透けて見えてしまうのですが、いまとなっては、歴史の1ページ。
 アニメが振りまく思想性というものは多分子供に大きな影響を与えるので、気にして見なければいけないという気はします。この映画がそのことを教えてくれるというのは確かでしょう。ディズニーもジブリも多かれ少なかれ子供たちの考え方に影響を与えている。そこには意識するものと意識しないものが混在していて、その映画を見ただけではなかなか判断しがたいものもありますが、ディズニーならディズニーの、ジブリならジブリの傾向があることは複数の作品を見ればわかってきます。重要なのは、望ましくないものを見せないことではなくて、いろいろなものを見せること。できればこれみたいなソ連のものとか、何があるかはわかりませんがアラブのものとか、そういったものも見せるほうがいいんだろうなぁという気がします。とはいえ、本当にそうなのかどうかはわかりませんが。少なくとも大人は、そのようにアニメの背後にある思想性というものに意識的でなければいけないと思います。

 が、とりあえずそれさえ意識していれば、あとは楽しめばいいわけで、この映画はまさに癒し系という感じ。安っぽいぬいぐるみ状のチェブラーシカはもちろんですが、出てくる登場人物(生物?)たちがみなかわいいですね。縮尺のあり方とか、そういうのがいいんですかね。チェス板がどう見ても16マスくらいしかなかったり、人より扉のほうが小さかったり、その辺りに味がある。あとは、色使いがなかなか独特でとてもよい。アメリカなんかの70年代のサイケな色使いとはまた違った感じで、今見ると非常にいいのです。
 あとは、ゲーナの歌(多分ロシアの伝統的な歌のアレンジ)もとてもいいですね。アニメとあわせてみているからこそいいのだろうけれど、「サントラないのかな?」と一瞬思ってしまいました。ちょっと『アメリ』に似ているかもしれない。『アメリ』の音楽のヤン・ティルセンはロシアあるいはスラヴ系の人なんだろうか?
 癒されたい人はぜひどうぞ。

おしゃれ大作戦

1976年,日本,85分
監督:古沢憲吾
脚本:松木ひろし
撮影:鷲尾馨
音楽:広瀬健次郎
出演:由美かおる、岡崎友紀、沢田雅美、志垣太郎、磯野洋子

 浅野夫婦が校長(妻)と理事長(夫)を勤めるとある服飾学校が企業のバックアップでファッションイベントをすることにした。しかし、その学校のオーナーである実業家の吉良はそのイベントに自分の名前が入っていないことに腹を立て、スポンサーを撤退させ、イベント開催を条件に校長に言い寄ったが失敗し、イベントをつぶしてしまった。それを聞いた理事長は自棄酒を飲んで車を運転し、事故を起こして死んでしまう…
 監督の古沢憲吾は「無責任シリーズ」や「若大将シリーズ」の監督を務めてきたコメディの名手。これが遺作となった。お正月映画ということで、スターというか有名俳優がこぞって出演しているのも魅力。

 映画のすべての要素が「くだらなさ」に還元されてゆく。
 作られた当時の意図はわからないけれど、今見るととにかくくだらないことに一生懸命に見える。これは一種のお祭りなのだ。とにかくスターというかスター一歩手前ぐらいのおなじみの顔が多数出演しているのがまずこれがお祭り騒ぎであるという何よりの証拠だ。それに加えて、物語の下敷きが忠臣蔵というのもなんだか、お祭りだか恒例行事だかの匂いがする。
 などといっていますが、要するに言いたいのは「お祭り!」ということで、つまり面白ければいいということ。で、面白いのかといえば、面白い。くだらないと面白いとは必ずしもイコールでつながるわけではないけれど、徹底的にくだらない映画というのは概して面白いものが多い。

 ただ、この映画の場合、あまりにくだらなすぎる。というのは、普通の徹底的にくだらなくて面白い映画というのは映画を通して一貫したくだらなさを持っている。つまり傾向というか、全体が一つのネタになっていて、その中でいろいろとふざけて見せる。しかしこの映画の場合は、とにかく小さなくだらないことを集め集めて、その小さな物事をくっつけて映画にしている。たとえるならば、コントを演るお笑いコンビではなく、とにかくダジャレを連発する芸人集団という感じ。
 そのようなくだらなさだから、弱いといえば弱い。ずっと一貫してくだらないことは確かなんだけれど、ずっと面白いかといえばそうでもなくて、結構ムラがある。見る人による個人差はもっとあるだろう。とにかく勢いで持っていくので、笑って終わることはできる、素人はだませる、でも玄人の目はごまかせんぞ、フッフッフッフッフ。みたいな感じである(わかるかな?)。しかし、一方で出ている人たちや細かいネタをチェックしたいというマニア心もくすぐる。
 このマニア心というのは、今見ているからわいてくるのであって、みている当時はそのような観客層はなかっただろう。今となっては「なんじゃそりゃ」という笑いのネタになる冒頭の水前寺清子の歌も、歌手の八代亜紀さんとして登場する八代亜紀も、当時は一つの娯楽として映画の中に一つの役割を持っていたのでしょう。そんな時代性というものをつとに感じる映画でした。

ドラゴン危機一発

唐山大兄
1971年,香港,100分
監督:ロー・ウェイ
脚本:レイモンド・チョウ
撮影:チェン・チン・チェー
音楽:ジョセフ・クー
出演:ブルース・リー、マリア・イー、ジェームズ・ティエン

 チェンは田舎からいとこたちのいる町に出てきた。いとこたちの紹介で彼らと同じ製氷工場で働くことになる。その初日、チェンのミスで氷が割れてしまい、なかから袋が出てきた。それを目にしたいとこのうち二人が、仕事のあと工場長に呼び出され、そのまま姿を消してしまう…
 ブルース・リーの香港主演第一作。たいした映画ではない、というか基本的にはB級映画で、それをブルース・リーのために作ったという感じ。なので、見所はブルース・リーのアクションと、B級テイストの両方。

 この映画の製作は1971年、実質的にこの映画はTVシリーズの『グリーン・ホーネット』で人気が出たブルース・リーの初主演映画で、ブルース・リーがなくなるのが、1973年だから、ブルース・リーの映画活動というのは実質3年しかないということになる。だからこそ伝説的であるということもいえるけれど、そんな短期間で伝説的なスターとなりえたブルース・リーの原型があるのがこの映画。
 この映画は武術指導もブルース・リーがやっているので、まさにブルース・リーの映画である。ブルース・リーが母親との誓いで喧嘩を封印しているというのも、アクションシーンを引っ張って、そこを盛り上げるための戦略。結局は待ちに待ったブルース・リーのアクションというところにすべてが集約する。そのアクションはもちろんすごく、かなりの迫力だけれど、『燃えよドラゴン』で見せる悲壮感というか、哀愁のようなものはない。これは演出の成果、それともブルース・リー自身の演じ方の違いなのかはわからないけれど、ブルース・リーの味のひとつがう弱められるということはある。
 しかし、そのために純粋なアクションとして楽しめるということもあるし、B級映画として、全体にコメディテイストが含まれているのにもあっていることは言える。
 わたしがこの映画で気に入ったのはむしろこのコメディ的な面で、建物の壁が人型に抜けるところとか、香港映画特有の漫画的なギャグが時々はさまれるのがなかなかいい。
 それはわたしがそれほどブルース・リーに思い入れがあるわけではないからで、ブルース・リー・ファンの人からすれば、むしろそういうコメディ的な部分は邪魔なもので、アクションプロパーのブルース・リーの魅力全開!見たいな映画のほうがいいのかもしれませんが、わたしにはこんな変化球な感じのほうがいい。

煉瓦工

Murarz
1973年,ポーランド,18分
監督:クシシュトフ・キエシロフスキー
撮影:ヴィトール・シュトック
出演:ジョセフ・メレサ

 一人の初老の男のモノローグで全編が語られるこの映画は、そのモノローグによってポーランドの歴史を垣間見せる。男ジョセフ・メレサは昔からの共産党員で、その視点から歴史を振り返る。そして、しっかりと身づくろいをして向かった先は党大会のパレードだった。旧知の人たちとにこやかにパレードするメレサ。彼以外の人々も非常に楽しそうだ。
 すでに開放的雰囲気の中、党は変わりつつあるが、そのパレードは昔の華やかな姿を想像させるものがある。
 最後の最後、パレードの場面からモノローグは続いたまま、煉瓦工の姿が映る。煉瓦とセメントで煉瓦の壁を積み上げる。不意に現れるその姿が妙に印象的で、感動的だった。

ある党員の履歴書

Zyciorys
1975年,ポーランド,47分
監督:クシシュトフ・キェシロフスキ
脚本:ヤヌス・ファスティン、クシシュトフ・キェシロフスキ
撮影:ヤシェク・ペトリツキ、タデアス・ルシネック

 映画が撮られた当時のポーランドはいまだ社会主義体制下。その社会主義体制の中で、ある工場に勤める男が党から除名されるか否かを決めるために呼び出される。予備的な議論の後、本人が呼び出され、討論が始まる。男は委員会の意見に執拗に食い下がり、除名を避けようとする。党に不信感を抱きながら、党から除名されないように必死な男とその鼻が非常に印象的。
 キエシロフスキーは社会主義体制下で数多くのドキュメンタリーを撮ってきた。そのスタンスは必ずしも反体制であるとは限らないが、真摯なドキュメンタリーを作っていたようだ。

 作者の意図がどうであれ、この映画は共産党の幹部(おそらく地方の幹部)たちをネガティヴに映し出している。彼らの議論は理念ばかりが先に立ち、実際的な議論は全く先に進まない。そもそも問題としているのは、除名されようとしている男の内心の問題であり、彼の党に対する姿勢の問題なのである。
 男は党に対して不審や不満をもち、それを表明することに正当性を感じている。幹部たちはその党を疑う態度を批判する。男はそのようにして発言することを押さえつける党に疑問を投げかける。また男は批判される。
 結局はこのような空転する議論の繰り返しであり、延々とそれを見せられるだけなのだ。およそ40分間ただ進むことのない議論が映っている。それでも微妙に話の内容が滑っていき、男と幹部の意見は平行線をたどるどころか、どんどんかけ離れていくようだ。
 見ていると、男のほうに肩入れしたくなるが、その男が党に残ることに固執する。おそらく除名されることで生きにくくなるのだろうけれど、その男の態度も解釈するのは難しい。
 極めつけは幹部の一人が言う「共産党に内部対立はありえない」という言葉だ。この言葉が表しているのは、彼らの議論がそもそも理念から始まっており、その理念を覆すような現実はありえないものとして排除するという考え方だ。つまり、除名されようとしている男は党に対して不満を述べ、疑問を抱いている。彼が党内に存在しているということは党内に意見の相違が対立があるということであり、それはありえないことである。となると、男を除名して、その対立が存在しないようにするしかない。という論理。 
 これでは、焦点がぼやけ、どうにもならない議論になることは明らかだ。そのような体制によって支配された国が(理念的には素晴らしいものであっても)袋小路に陥るのは仕方のないことだったのかもしれない。ポーランドの共産党独裁が崩れるのはこれからさらに十数年後だが、この映画にはすでに、その崩壊の兆しが写し取られていたのだと(今見れば)思える。

軍事演習

Manoeuvre
1979年,アメリカ,115分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイビー

 毎年行われているNATOの合同軍事演習。今回は西ドイツで、米軍も参加して行われた。ワイズマンは米軍の一部隊に、米国出発から従軍し、一部始終を記録する。
 機銃を持ち、戦車を繰ってはいるが、あくまでも演習に過ぎず、兵士たちの間に緊迫感はない。ワイズマンが描き出すのは、そんな戦争のようで戦争ではない緩やかな空気。日常生活に突如闖入した戦争のようなもの。
 ずんずんと突き刺さり、眉間にしわを寄せざるを得ないような難しさはないけれど、これもワイズマンのひとつの方法であると感じる。

 全編から伝わってくるのは、これが壮大な「戦争ごっこ」でしかないということ。音を出して臨場感を高めるために戦車にすえつけられたダイナマイト、それを操る兵士たちにまったく緊張感はない。
 ワイズ漫画監督官(コントローラー)という役割の人々を特に映画の中盤以降執拗に追うのは、彼らこそがこの戦争ごっこの体現者であるからだ。彼らは文字通り鼓の戦争をコントロールし、笑いながら互いの戦果をそして被害を操作する。もちろんいく人かの人間にコントロールしうる戦争など戦争ではなく、それはルールに従って指揮官たちが戦果を上げようと争うゲームに過ぎない。兵士たちはそれを察して、自由気ままに振舞う。ワイズマンの撮影班はひとつの中隊につくが、そこで真剣なまなざしでこの演習に望んでいるのは中隊長である大尉だけで、兵士たちは気ままに雑談をし、除隊までの日にちを数える。
 戦場のようなところであるにもかかわらず、亡霊のように子供たちがいる。ワイズマンは明らかに意図的に彼らの姿を何度も捉える。兵士たちが彼らを気にも留めないというある種異様な光景。それもやはりこの演習が毒にも薬にもならない戦争ごっこに過ぎないということをあらわしている。

 そんなどうにもならない戦争ごっこをワイズマンが撮り続けるのはなぜなのか。ただこのくだらなさを伝えるためだけなのか。わたしが注目するのは(それはつまりワイズマンが注目させるということだが)演習が行われる土地の人々と、その土地自体である。アメリカ軍にはドイツ語をしゃべれるものすらいない。アメリカ軍の兵士たちも土地の人々と積極的に係わり合い、あるいはか係わり合わざるを得ない場合もあるが、アメリカ軍が交渉できるのは英語をしゃべれるドイツ人ばかりである。そして彼らはそんなドイツ人たちと交流し、アメリカがドイツ人に好かれているらしいと考えて満足する。英語をしゃべれず、彼らの通行を拒否するドイツ人の男は、彼らにとってはわけのわからないことを言うドイツ人に過ぎない。決まりがあるから、彼の権利を尊重しはするが、それはしぶしぶであり、明らかに納得してはいない。
 このようなワイズマンの描き方の裏には、根本的なアメリカに対する不信感があるのだろう。不信感というのは、私自身の気持ちの反映に過ぎないかもしれないが、少なくとも「アメリカ万歳」と唱えるアメリカ人とは明らかに国に対するスタンスが異なる。

 なんともだらだらとして張り合いのない映画だけれど、そのメリハリのなさにワイズマンのそんなメッセージが込められている気がする。将校と兵士、軍隊と市民、そのそれぞれのちぐはぐな感じ、ヨーロッパでアメリカ軍がヨーロッパ軍を敵として戦うという違和感、それはワイズマンがこのアメリカ軍に感じているちぐはぐさや違和感の表れなのではないだろうか。

福祉

Welfare
1975年,アメリカ,167分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ウィリアム・ブレイン

 ポラロイド写真で次々と写真をとられる人々。おそらく、福祉を受け取るための身分証を作るのだろう。福祉センターにはたくさんの人がやってくる。そしてたくさんの人が待っている。職員たちはきびきびと働いているが、それでもやってくる人たちとの間に衝突は絶えない。役所ならどこでもありそうな風景だがどこか違う。そんな福祉センターと、その人々を映した作品。

 官僚主義的な役人たちとそれに振り回される貧しい人々、という構図がそこに浮かんでくるのだろうと予想して見る。それは福祉センターが舞台となる以上容易に予想できることだ。
 しかし、実際底に現れるのは、激昂し、だまし、何とかしてお金を得ようとする人々。自分の権利を強固に主張し、役人たちを批判する人々だ。もちろん、福祉を受けるのは彼らの権利であり、それを主張するのはかまわないはずだ。しかし、その感覚がなかなか理解できないのは日本人だからだろうか? そんな違和感を抱えたままみると、彼らはなんともエゴイスティックであるように見えてしまう。
 そのように見えてしまうのは、必ずしも受け手だけの問題ではなく、ワイズマンの作り方にも原因があるだろう。この映画に登場する福祉局の役人たちは基本的に忠実に仕事をこなし、むしろ親身になってやってくる人たちのために力を注いでいるように見える。つまり、そこに登場する人々の誰もが間違ってはおらず、非難を浴びるいわれもない。そんなカレラを反目させるのは、制度であり政府であるのだ。そこにワイズマンの力点があるような気がする。
 途中で登場するヒスパニック系のおばあさんは、ひたすらスペイン語でがなりたてる。字幕もないし、基本的には何を言っているのかわからないけれど、何度も「gobierno」という言葉を口にする。それはスペン語で政府という意味で、どのような文脈で発せられたかはわからないが、何らかの形で政府を非難していることは確かだろう。
 ワイズマンがこの老婆を、そしてこのセリフを生かしたのはなぜだろうか?ひとつは黒人女性との話しに傍若無人に割り込んでくる老婆の面白さがあるだろうが、この意味としては比較的とりにくい(アメリカ人のどれくらいがスペイン語を理解するのかわからないけれど)言葉による直接的な批判をあえて残したというのもあるのではないだろうか。

 最後に登場する男性、哲学的、あるいは文学的なことをしゃべりながらも、その発言はどこか狂人じみたところがある。狂っているというわけではないけれど、貧しく、孤独な人にありがちな(といっては語弊があるかもしれないが)行動。大きな声で独り言を言ったり、相手に通じにくい話をするということ。そんな男性を見て思う。ワイズマンは普通の人々を彼ら自身は強く意識しないままにフィルムという媒体に定着させてしまう。本来ならば誰も聞いていないような、聞いていたとしても数分も経てば忘れ去られてしまうような、その発言を、その文学を半永久的な言葉として残す。
 この人の姿を見て、「この映画はこの人で終わるんだ」と思った。それほどまでに彼はワイズマンの世界にぴたりとはまる。彼をフィルムに残したということ、そこにこそワイズマンの偉大さがあるのかもしれない。

病院

Hospital
1970年,アメリカ,84分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ウィリアム・ブレイン

 映画は外科手術の手技の1シーンから始まる。そのシーンは生々しいが、映画全編は医者と患者の関係性を主に描いていく。病院はメトロポリタン病院。貧しい人々がひっきりなしにやってくる。たくさんの人、アルコール中毒の人、子供、などなど、ワイズマンの冷徹な目は淡々と病院でおこっていることを映すだけだが、そこからは必ず何らかのメッセージが流れ出てくるはずだ。
 ワイズマンとしては4本目の長編作品。TV用の作品として製作されたらしいが、こんなのテレビでやって儲かるんだろうか?

(序)ワイズマン一般

 ナレーション、キャプションをともに排するというのは、ワイズマン作品のすべてに共通する特徴である。主人公も物語りも存在しない映画を見せられる。それでもそこに何らかの一貫性を求めてしまう。ワイズマンのどの映画もそうだけれど、この映画が(100時間にもわたる)膨大なフィルムの中から数パーセントを選び出して作られたものだと知っていれば、その一つ一つのシーンの積み重ねに作者の何らかの意図が存在すると考えたくなるのが道理だ。
 その気持ちに反さず、ワイズマンは無象の雑多なシーンの中から選別と組み合わせを行って、見事にひとつの『映画』を作り出す。

(本編)

 冒頭のシーン、この手術のシーンはこの映画の対象となる「病院」を端的に示すシーンで、それ以上ではない。この映画で主人公となるのは患者たち。始まって程なくして、この病院が貧しい地区にある病院(詳しく言うと、ニューヨークのハーレムにあるメトロポリタン病院)だとわかる。そのような病院をワイズマンが選んだのにはわけがあるはずだ。そんなことを考えながら映画を見ていると、浮かび上がってくるのは、すべてが現実だということ。すべてが特別でもなんでもないものだということ。病院とは特別な場所ではなく、医者とは特別な人間ではなく、病気すら特別な状態ではないのかもしれないということ。
 しかし同時に、そのようにすべてが特別なものではないという状態が正常な状態といえるのだろうかという疑問も頭をもたげる。日常的であるこのような病気が日常的であるということは、その背後にある問題を意識させずにはおかない。アルコール中毒や麻薬患者がたびたび登場すること、精神科の患者もまた多いことは、アメリカの現実がそもそもの問題であるということを示しているのだろう。肉体的な病気よりむしろ、精神的な部分にこそ病巣があるという状態、それは個人の問題ではなくて社会の問題である。とワイズマンはは言ってはいないだろうか。

 ひとつのケースをとりあえげてみよう。「毒を飲んだ」といって病院にやってくる青年。「メスカリンは前にも飲んだけど違う」とか「公園で丸薬をもらって飲んだ」などといいながら「死にたくない」と叫び続ける。医者は彼の毒を飲んだという主張が真実ではないと判断し、彼が納得するように一通りの胃洗浄をして、精神科に引き渡そうとする。青年は精神科医がやってくるまでの間も「死にたくない、死にたくない」といいながら、またも大量に嘔吐する。
 彼の肉体の反応は「死にたくない」という発言とは裏腹に生を拒否するような反応だ。死にたくないという彼の意思と生きたくないと言う彼の体、病んでいるのはもちろん彼の心なのだけれど、この病み方こそがアメリカの抱える問題なのだという気がした。
(それは30年以上たった今でも変わっていないだろうし、むしろその病理は世界に広がっているのかもしれない)