2000年,日本,110分
監督:瀬々敬久
脚本:井土紀州
撮影:斉藤幸一
音楽:安川午朗
出演:小島聖、千原浩史、鶴見辰吾、諏訪太郎、寺島進、阿部寛

 「太く短く生きて死ぬ」といつも口走るトモに引きずられるように生きるマミとあるアパートで過ごす二人は、コンビニでマミを知る隣の住人に出会う。トモは男から金を奪おうと、マミが男を部屋に誘う計画を立てる…
 それと平行して、トモとの出会いから現在までに至るマミの回想が始まる。映画は現在と過去を交互に描き、二人の物語をつむぎだしていく。
 ピンク映画と一般映画の両方を撮り続ける瀬々敬久のいっぺんのラブ・ストーリー。破壊的な日常を送る男女というテーマは両ジャンルにまたがる監督らしいものといえる。

 映画はとてもいい映画だけど、それは普通の映画ではなく、やはり普通に映画監督となった人とは違う何かがそこにはある。そもそもこの映画は、主人公への感情移入を拒否する。「好きなように遊んで、早死にする」といいながら、果たしてトモは日々を楽しんでいるのか。これで遊んでいるといえるのか、そんな素朴な疑問が常に頭をよぎる。
 トモは自分の好き勝手にいき、自由な人間であるように見える。しかし、彼は決して自由ではない。悲劇という衣を常にまとっていなければいられない、悲劇に縛られた人間。だから安穏とした日常に(たとえそれが楽しいものでも)安住することはできず、それを捨て、それを壊し、再び悲劇へと突き進む。
 それに付き従うマミは逆に自由な人間だけれど、その自由をもてあまし、それをトモに明け渡す。それが破滅に向かうことが予見できようと、それを取り替えそうとはしない。時折自由が戻ってきてもそれをもてあます。

 そのような人間像を理解はできる。そして面白い。しかし、どうしてもそれをひきつけて考えることができない。1時間半ほどの映画を見ながら感じるのは、それがあくまでもスクリーンの向こうの出来事であるということだ。日常とは違う空間、自分とは無関係な人間、その受け取り方には個人差があるのだろうけれど、わたしには完全な絵空事にしか見えなかった。
 脚本のもとにあるのは実話らしいが、もとが実話だからといってそれが現実的であるとは限らない。
 あくまでもハードボイルドに描くのは、この監督のスタイルのような気もするが、わたしが見たいのは、このような行動の原動力となる一種の「弱さ」で、行動そのものではなかったというのが大きい。このような行動を描く一種のパンク映画はたくさんあって、それ自体は新鮮なものではない。モノローグまで使ってストーリーテリングさせるんだったら、もっと内心の葛藤のようなものを描いても良かった気がする。それとも葛藤がないこと自体が問題なのか?

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