1966年,日本,100分
監督:黒木和雄
脚本:松川八州夫、岩佐壽弥、黒木和雄
撮影:鈴木達夫
音楽:松村禎三
出演:加賀まり子、平中実、小沢昭一、長門裕之、山茶花究

 北海道の小学生が夏休み、チョウをとっている。チョウ好きの少年は見かけたチョウがデパートで見かけたナガサキアゲハであることに気付いて、必死で追う。ついに捕まえた少年は誇らしげに学校に持っていくが、先生は北海道にいるはずがないといって少年を信じない。少年がチョウを捕まえたところにいくと、不思議な女がいた。
 黒木和雄の劇映画第一作、非常に幻想的な物語の中で社会的なテーマも失わない。全体的に不条理で理解しがたいが、いまや名カメラマン鈴木達夫のカメラの流麗さが全体に統一感を与える。

 冒頭の、少年がチョウを撮るシーン、ここの映像は本当にいい。少年の視線、チョウの視線、外からの視点、それらの視点を織り交ぜながらカメラはあくまでも自由に飛び回り、少年の緊張感や躍動感を伝える。これだけのシークエンスを作るには才能と努力が必要に違いない。ドキュメンタリーっぽいといえば、そんな感じもするが、ドキュメンタリーで培われた被写体に密着するとり方というか、執拗に被写体を追い、その視線を捉えようとするとり方がこのような映像を可能にしたということはいえるだろう。
 そのような冒頭部に対して、本編のほうは映像よりもむしろテーマ性が先にたつ。もちろん映画のどこまで行ってもカメラの流麗さは失われず、はっとするようなカットがあるのだけれど、映画としてはそのチョウの旅路自体よりもその場所場所で描かれる、現代日本の病のようなもののほうに主眼を置く。長崎での描写は亀井文夫の『生きていてよかった』を思い出させずにはいない。おそらく、積極的に映画の材料として取り入れているのだろう。
 戦争に限らず、現代の(当時の)日本が抱える問題、あるいは監督が日本に対して感じる不安を映像として提示したという感じだろう。

 それにしても、物語というかはなしのプロットがなかなかわかりずらく、物語に入っていくのが難しい。全編に共通する登場人物は加賀まり子だけで、しかもセリフもあまりしゃべらない。このとらえどころのない物語はフィクションやドキュメンタリーという区別を超えたところにあるのかもしれない。確実にフィクションではあるが、フィクションというにはあまりに断片的である。
 論争的にしようという監督の目論見はおそらく外れ、加賀まり子のかわいさとカメラの(映像の)素晴らしさだけが引き立ったそんな作品になってしまった。いっそドキュメンタリーにしてしまったほうがいいものが取れたんじゃないかとも思ってしまう。

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