2002年,日本=イラン,106分
監督:中山節夫
脚本:横田与志
撮影:古山正
出演:宍戸開、オスマン・ムハマドパラスト、忍足亜希子、寺田農、保坂尚輝
自動車の部品メーカーでサラリーマンで忙しく働く井沢、学生時代の友人で画家の木田の個展に呼ばれ、出かけると、そこに浩子が来ていた。浩子は井沢がかつて世話になっていた町工場の社長村田の娘で、昔は親しく付き合っていたが、井沢の会社が切り捨てたことで工場は倒産してしまっていた。そのとき、村田が心臓発作で倒れたという知らせが入る…
競争社会に飽み疲れたサラリーマンがイランを旅するというロードムービー。アッバス・キアロスタミ監修の下でイラン・ロケを敢行。日本人の目からイランを見ることができるという面ではいい。
すごく普通というか、まともな映画で、設定や物語は古臭ささえ感じるほどオーソドックスである。人を探すたびが自分探しのたびになるというロードムービーの王道を臆面もなく堂々と展開する。もちろんそれが悪いというわけではないけれど、それではあまりに話が予想通りに進みすぎる。
言葉をしゃべれないヒロインを登場させて、ちょっとアクセントをつけてはいるものの、その恋愛物語は映画の主プロットからは完全に外れていて、なんだかとってつけたような内容。しかも手話の場面でBGMが流してしまうのもなんともわかりやすいというか、わかりやすくしようとしすぎている。
この映画の新しさはイランということ。イラン映画はこれまでも数多く日本に入ってきて、イランがどのようなところであるかはそれらの映画を見ればなんとなくわかる。しかしそれはあくまでイラン人が作ったイラン映画であって、日本人が見たとしても、それはイラン人としてその映画世界に入っていく。しかし、この映画を見ることは日本人としてイランに入っていく体験だ。その意味では映画において始めてイランと日本が本当に出会ったといっていいのだろう(私の知らない映画があるかもしれないけど)。
この映画を見ていいと感じるのは、ほとんどすべてがイランのよさである。その風景、その音楽、その人間、それらイランなるものがすべていい。「急ぐのは悪魔の仕業」ということわざはこの映画のことは忘れてしまっても、忘れることのできない言葉だ。あまりに日本語をしゃべれるイラン人に出会いすぎという気はするが、それもまたイランと日本の「近さ」を表現しようとするひとつの誇張であると捉えれば首肯できる。
しかし、この映画の主人公の幼稚さにはちょっと辟易する。恋愛話でも言葉が通じないからとか、そんなことをいっているが、そんな段階でくよくよ悩んでいるんじゃどうしよううもないわけで、そんなことわざわざイランまで来なくてもわかるだろうという気がしてしまう。
わざわざイランまで来て受け取るべきものはもっと違うものだったはずで、たとえば、彼が敬虔な仏教徒のように手を合わせて祈ること。もちろん彼は日本ではそんなことはしていないはずで、神の国イランにふさわしいと思うから普段やらないそのような所作を思わずしてしまう。ということについて思いをはせれば、もっと深い部分にある何かを受け取れたんじゃないか。
映画を見ているわれわれのほうが実際にイランに行ったはずの主人公よりイランから多くのものを受け取っているような気がしてしまい、その分この主人公が薄っぺらな感じがしてしまう。
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