1961年,日本,110分
監督:黒澤明
原作:山本周五郎
脚本:菊島隆三、黒澤明
撮影:宮川一夫
音楽:佐藤勝
出演:三船敏郎、仲代達矢、東野英治郎、加東大介、山田五十鈴

 ぼろを着た浪人が家々が雨戸を閉じた何かありそうな宿場町に着く。その宿場の番太は用心棒の口を捜しているなら丑寅のところへ行ったほうがいいといい、男は言われるがままにそこに行くが、そのまま帰ってきて飯屋に入る。飯屋の親父は宿場で二人の親分が抗争をしている様子をはなし、この宿場は終わりだから出て行ったほうがいいと言うが、「それは面白い」といって居座ることに決めた。
 用心棒として抜群の腕を持つ男がそれを利用して、二つの勢力の間を渡り歩く。三船敏郎は浪人姿があまりに似合いすぎ、カメラマンに宮川一夫をむかえ映像的にも研ぎ澄まされたものがある。
 マカロニウェスタン『荒野の用心棒』にリメイクされたことはあまりに有名だが、リメイクを申し出たわけではなく、パクったのだったはず。

 この映画はあまりに語りつくされている感がありますが、やはり序盤では犬がくわえる手と、ばっさりと切り落とされるジェリー藤尾の腕が圧巻。いまとなってはそれほど驚くべき効果ではないですが、当時としてみたら、劇場に悲鳴がわくくらいの衝撃だったことと思います。この衝撃的なスペクタクルひとつをとっても、この映画がハリウッド映画のバイブルになりえたことはまったく当然のことのように思える。キューブリックやスピルバーグが今あるのも黒澤があってこそ。この映画があまりにハリウッド的(現在から見ればの話ですが)であることはそのような思いを抱かせずにはおかない。
 しかし、他方で果たしてこれは黒澤の作品として最高傑作といえるのか? 私にはそれは疑問に思える。この映画の主人公、三船敏郎演じる桑畑三十郎(仮名)のキャラクターは椿三十郎と比べるとあまりに暴力的で、三船敏郎は岩井俊二の言葉を借りればゴジラに似ている。あまりに強すぎるのだ。確かに弱きを助けるという面もある。しかしそれもまたゴジラの善良な一面レベルの善良さでしかない。根本的には悪人ではないけれど、結果として招くのは破壊。勧善懲悪の衣をかぶった傍若無人。それがこの映画の本質なのだと思う。
 もちろんそれが悪いといっているわけではない。そのような物語のつくりは徹底しているという点で秀逸なものであり、それによってさまざまな珠玉のカットが生み出される。もちろんカメラマンが宮川一夫であるというのもあるが、この映画の黒澤のシャシンはあまりにさえている。

 この作品を『椿三十郎』と比べたときに、今ひとつと思えるのは、ひとつは仲代達矢演じる卯之助のキャラクターの弱さ。『椿三十郎』の室戸半兵衛と比べるといかにも弱い。その分を加東大介がコミカルなキャラクターで補っている点はあるものの、好敵手というよりはほかの奴よりちょっと手ごわい相手くらいの感覚でしかない。『椿三十郎』に感じられる敵ながら抱いてしまう仲間意識というか、自分の分身を見ているような感覚というものがないので、どうしても三十郎がほかの全員よりも高みにいるという感じになってしまう。
 それはそれでひとつの英雄譚として面白くはあるけれど、黒澤らしさということを考えると、何かが違う気がしてしまう。しかし、このシンプルなヒーロー話のほうがいわゆる時代劇/チャンバラものらしいということはある。この映画以来、あらゆる時代劇が『用心棒』のようになってしまったということは想像に難くない。 この映画は音楽の使い方にしても、それぞれのカットのすばらしさにしても、カットとカットのつなぎの見事さにしても、黒澤の作品の中でも上位に入るものではあるけれど、そのような傑作であるがゆえに、果てしなく(表層的に)コピーされ、今となっては翻って、この作品からなにか「よくある」感じを受けてしまう。それがこの映画の評価に反映されてしまうというのはおかしい気もするけれど、これも人それぞれの映画を見る環境の違いなので、仕方ありません。
 これを黒澤のナンバー1に推す人もかなりいると思いますが、私にとっては『椿三十郎』のほうが面白かった。

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