1 980年代のミラノ、労働組合員のネッロは強硬な姿勢が仇になり新たな組合に左遷されてしまう。その組合は元精神病患者の協同組合で組合とは名ばかりの組織だった。熱血漢のネロは自ら稼ぐことで彼らの意識を変えようと建築現場の床貼りの仕事を請け負ってくるが…
イタリアのグループホームで実際に起きた出来事を元にしたコメディ・ドラマ。障害とされるものを特性ととらえる視線が現代的。
障害者を扱うというのは映画に限らず色々難しいものがある。そもそも障害者じゃなくて「障碍者」だとか「障がい者」だとか色々言われる。しかし、そのような言説のどれくらいがその「障がい者」本人の立場にたとうとしているのか。というか、そのようなことを言う人は障害者をどのように捉えているのか。
この映画は特に障害者と接した経験などないバリバリの労働組合員のおっさんが左遷されて、封筒の切手貼りとか半端仕事をやらされている元精神病患者=精神障害者の協同組合のマネージャーになるという話。このおっさんネッロはさすがバリバリの組合員なので人を分け隔てて考えるということをせず、組合員が精神障害者であってもこれは組合なのだから組合員の合議で物事を決めるべきだという。そして、医者の「無理」という言葉も聞かず、「普通の」仕事を受注しようとする。
この映画が素晴らしいのは、このネッロに差別に反対しようとか、障害者にも人権をとかいう発想がないところだ。バカなのか頑固なのか清廉潔白なのかはわからないが、とにかく彼らが障害者であるということをまったく意識せず(あるいは意識しないように努力して)同じ人間として扱う。そこが本当にすごい。
障害者問題というのは彼らを「違う」と考えることから始まる。もちろん彼らは私やあなたとは「違う」。しかし、私とあなたも違うし、私やあなたと「同じ」人などこの世にいやしない。私やあなたのような普通の人はその「違い」を距離に置き換えて、その距離感で人を区別する。障害者との距離はたしかに遠い。その距離は感覚的なものであり事実でもあるのだろう。しかし、その距離のどこかに区切りを置くのは人為的なものであり、あなたや私の判断によるものだ。ネッロはその様な判断(あるいは審判)を行わず、その距離感を認識しながら、彼らと解り合おうとする。もちろん距離が遠い分、解り合いにくい部分はあるが、そこに壁を作らず解り合おうとするわけだ。
それによってもちろん問題も生じる。ネッロがいくら想像力を働かせて彼らをマネジメントしようとしても、彼らの一部はその想像力の上を行ってしまうことがある。それがネガティブなものとして出ると仕事としてやっていることには損害が生じる。
さてそれをどうするか。それがこの映画のキモというわけなので書かないけれど、最終的に安易な「感動」に逃げないのもこの映画のいいところだ。最後まで彼らを障害者として扱わず人間として扱う。しかし、この映画を見ると現実の生活でそうすることがいかに難しいかということが身にしみてわかる。じーんとくるけれど、それは自分に跳ね返ってくる。
こういうことは一般論で言うことはできない。だからこそこういう映画によって「自分」を主体に考えることが大事なんだと。映画の出来としては小慣れてるとはいえないしもたつきを感じる部分もあるけれど、作品との「対話」ができる、そんな映画だ。
DATA
2008年,イタリア,111分
監督: ジュリオ・マンフレドニア
原作: ファビオ・ボニファッチ
脚本: ジュリオ・マンフレドニア、ファビオ・ボニファッチ
撮影: ロベルト・フォルツァ
音楽: アルド・デ・スカルッツィ、ピヴィオ
出演: アニタ・カプリオーリ、クラウディオ・ビシオ、ジュゼッペ・バッティストン、ジョルジョ・コランジェリ
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