1989年,日本,120分
監督:高嶺剛
脚本:高嶺剛
撮影:田村正毅
音楽:上野耕路
出演:小林薫、戸川純、照屋林助、青山知可子、平良進

 沖縄のさとうきび農場で働くギルー(小林薫)は、農場の親方西原の娘マリーを抱く夢を見る。ギルーはマリーを毛遊び(沖縄独特の風習で、若い男女がいっしょに夜を明かして遊ぶ)に誘うが…
 沖縄土着の幻想的世界をマジックレアリズムのような手法をとって描いた作品。言葉はウチナーで、日本語の字幕がつけられる。沖縄の音楽もふんだんに盛り込まれている。
 立松和平の小説で同じ題名のものがあるが、この映画とは時代設定が異なる。もともとは沖縄に伝わる民話のようなものらしく、この映画も立松和平の小説も映画で劇中劇として演じられる舞台も、そのバリエーションであるといえるだろう。 

 この映画の構造は、映画(あるいは物語)の手法としてはそれほどなじみの薄いものではない。時のひとつのサイクルが閉じ、また同じサイクルが始まる、しかしそれはその前に起きたことのまったくの繰り返しではない。この映画のメインであるギルーの物語と最後に始まるサンラーの物語。この二つは繰り返す円環のそれぞれの環なのだろう。
 それは、ここで始まったのではなく、劇中劇で演じられる江戸時代にも起こった出来事なのである。その時その時にギルーが存在し、マリーが存在し、ミライカナイから神のような人々がやってくる。そのサイクルが螺旋構造のように繰り返されているのだろう。
 そう考えると、ラストシーンの爆発は何を意味していたのか。円環の重要な要素である親方とマリーとが爆発してしまったあのシーンは。その象徴的な意味を読み取るのは非常に困難だ。暗喩の集合としての映画表現の避けられない性質ではあるが、ラストシーンの暗喩に込められたメッセージを読み取ること、それが作者から我々に突きつけられた問いなのだろう。
 そして、あの爆発が本土復帰が決まった直後に起こったこと考えれば、それはウチナンチュ(琉球人)である作者から我々ヤマトンチュ(日本人)へと突きつけられた課題でもあるのかもしれない。 

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