オバアは喜劇の女王 ~仲田幸子 沖縄芝居に生きる~

 劇団でいご座の座長仲田幸子は芸歴65年を迎える今も沖縄のオバアたちを笑わせる喜劇の女王。その芸歴は戦争直後に遡る。その戦争体験や戦後の貧しい生活、芝居への想いを自ら語る。そしていま劇団で一緒に舞台に立つ孫の仲田まさえも「おばあちゃん」への思いを語る。
沖縄では知らない人はいないけれど本土ではほとんど知る人がいない演劇人仲田幸子を追ったドキュメンタリー。映画としての作りはイマイチだが、サチコーは面白い。

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ナビィの恋

1999年,日本,92分
監督:中江裕司
脚本:中江素子
撮影:高間賢治
音楽:磯田健一郎
出演:西田尚美、村上淳、平良とみ、登川誠仁、平良進

 しばらく東京で働いていた奈々子(西田尚美)は、祖父恵達と祖母ナビィの暮らす島へと帰ってきた。奈々子と同じ船で島にやってきた老紳士(平良進)は戦前に祖母ナビィの恋人であったサンラーであった。
 果たしてサンラーとナビィと恵達の間にはどんな物語があったのか?そして、奈々子と同じ船でやってきた大和人(ヤマトンチュ)福之介と奈々子、奈々子の幼馴染のケンジとの関係はどうなるのか?
 沖縄の風景をうまく生かした映像と、アレンジされた沖縄音楽が映画の完成度を高めている。平良進、嘉手苅林昌、大城美佐子ら沖縄の名優・大歌手が脇を固め、味わいのある演技を見せている。 

 大満足。いい画がたくさんあった。たとえば奈々子が自転車でおばを追いかけてゆくところ、ナビィがサンラーの腕をつかんだところで海へパン、何とか商店(名前忘れた)の黄色い建物をローアングルでとって空を抜いたところ、などなど。挿入されるサイレンとも、映画にアクセントを加えるという意味では非常に効果的。そこにつけられた恵達のナレーションも面白い。
 物語で言えば、ナビィと恵達の間の心の動きが穏やかながらも味があり、それを映画的に消化できているので良かった。
 疑問が残るのは、ひとつは恵達の英語まじりの話し方。あれは役者の登川誠仁さんがもともとあういうしゃべり方だから必然的にそうなったらしいが、沖縄の人たちにとって、あのような喋り方がどういう意味を持つのかが少し気になった。
 あとは、ユタが完全に無視されてしまっていること。ユタの言ったことにナビィと奈々子はことごとく歯向かったのだけれど、結局奈々子は子宝に恵まれ、家が滅んでいるようには見えない。これはユタを否定してしまっているということなのだろうか?奈々子が「あの、インチキユタ!」と言う場面があったが、そんなに簡単にユタの聖性を否定してしまっていいのかは疑問が残る。
 と、映画的というよりは社会的(政治的)な疑問を呈してみたわけですが、純粋に映画としては文句なし。恵達の「ゲンキ」Tシャツが欲しい。どっかで手に入るのかなぁ? 

 登川誠仁さんは「沖縄のジミ・ヘン」と呼ばれる三線(サンシン)の名手で、普段から映画どおりの不思議なしゃべり方をするそうです。
 今回見て気づいたのは、夕暮れの美しさですね。それもいわゆる夕暮れのオレンジ色の光というのではなくて、単純に昼間が暗くなった感じの光加減。しかし、もともとの色合いがあまりに鮮やかであるために夕暮れ時の少しくすんだ色のほうが魅力的に見えるというような意味での夕暮れの美しさ。空がスチールブルーになり、人や物の輪郭がぼやけるその時間帯がこの映画の最も美しい時間帯。だからこそ奈々子と福の助のラブ・シーンもこの時間に持ってきたのでしょう。
 それから、今日WOWOWで見ている限りでは「ゲンキ」Tシャツに気づかなかったのだけれど、それは私が単に見落としただけなのだろうね。オリオンビールTシャツばかりが目に付いてしまった。そんな微妙な編集はしないだろうけれど、もしかしたら著作権関係で編集?などと考えてしまいました。きっと考えすぎ。

ウンタマギルー

1989年,日本,120分
監督:高嶺剛
脚本:高嶺剛
撮影:田村正毅
音楽:上野耕路
出演:小林薫、戸川純、照屋林助、青山知可子、平良進

 沖縄のさとうきび農場で働くギルー(小林薫)は、農場の親方西原の娘マリーを抱く夢を見る。ギルーはマリーを毛遊び(沖縄独特の風習で、若い男女がいっしょに夜を明かして遊ぶ)に誘うが…
 沖縄土着の幻想的世界をマジックレアリズムのような手法をとって描いた作品。言葉はウチナーで、日本語の字幕がつけられる。沖縄の音楽もふんだんに盛り込まれている。
 立松和平の小説で同じ題名のものがあるが、この映画とは時代設定が異なる。もともとは沖縄に伝わる民話のようなものらしく、この映画も立松和平の小説も映画で劇中劇として演じられる舞台も、そのバリエーションであるといえるだろう。 

 この映画の構造は、映画(あるいは物語)の手法としてはそれほどなじみの薄いものではない。時のひとつのサイクルが閉じ、また同じサイクルが始まる、しかしそれはその前に起きたことのまったくの繰り返しではない。この映画のメインであるギルーの物語と最後に始まるサンラーの物語。この二つは繰り返す円環のそれぞれの環なのだろう。
 それは、ここで始まったのではなく、劇中劇で演じられる江戸時代にも起こった出来事なのである。その時その時にギルーが存在し、マリーが存在し、ミライカナイから神のような人々がやってくる。そのサイクルが螺旋構造のように繰り返されているのだろう。
 そう考えると、ラストシーンの爆発は何を意味していたのか。円環の重要な要素である親方とマリーとが爆発してしまったあのシーンは。その象徴的な意味を読み取るのは非常に困難だ。暗喩の集合としての映画表現の避けられない性質ではあるが、ラストシーンの暗喩に込められたメッセージを読み取ること、それが作者から我々に突きつけられた問いなのだろう。
 そして、あの爆発が本土復帰が決まった直後に起こったこと考えれば、それはウチナンチュ(琉球人)である作者から我々ヤマトンチュ(日本人)へと突きつけられた課題でもあるのかもしれない。 

パラダイス・ビュー

1985年,日本,114分
監督:高峰剛
脚本:高峰剛
撮影:としおかたかお
音楽:細野晴臣
出演:小林薫、戸川純、細野晴臣、リリイ、辺土名茶美

 「沖縄映画」という発想としては、比較的早い時期のもの。沖縄のどこかの島の人々の生活を神話的世界と不思議な映像でつづった物語。沖縄のさまざまな風土が織り込まれ、それが生活に密着しているのだという主張が感じられる作品。
 細野晴臣が音楽を担当し、出演しているのがなんだか不思議だが、主要な三人以外は沖縄の役者を使っている。子役で出演している辺土名茶美は「DA PAMP」のISSAのお姉さん。 

 「琉球」ということを主張したいのもわかるし、実験的なものをつくりたいのもわかる。しかし、あまりに映画のプロットが複雑すぎて、ある特定の興味を持ってみている人でないと、興味を持ってみつづけることが困難な映画なのだろう。
 特に、頻繁に挿入されるストップモーションやネガの映像が、映画そのもののリズムを狂わせて(あるいはずらせて)いるために、全体が冗長なものに感じられてしまう。そのずらしによって何かを考えさせようというのだとしたら、その試みは成功していないと思う。
 2時間弱の映画なのに、かなり長く感じられたのはそのせいだろう。フレームの切り方や一つ一つのエピソードの作り方などは面白いので、飽きるというわけではないが、とにかく疲れる。
 細野晴臣の演技には苦笑。