鉄の男

歴史的事実や当時の空気を伝えてはいるが映画としての面白さは…

Czlowoiek z Zelaza
1981年,ポーランド,152分
監督:アンジェイ・ワイダ
脚本:アレクサンドル・シチ、ボル・リルスキ
撮影:エドワルド・クウォシンスキ
音楽:アンジェイ・コジンスキー
出演:イエジー・ラジヴィオヴィッチ、クリスティナ・ヤンダ、マリオン・オパニア、ボグスワフ・リンダ

 1980年、ポーランドのグダニスクの造船所でストが起きる。ワルシャワの放送局に勤めるビンケルはそのストの首謀者マチェクへの取材とストへの働きかけの任務を帯びてグダニスクへ赴く。その任務にしり込みするウィンケルはスト委員会によって禁酒令が発せられると知りさらに憂鬱を募らせる…
 アンジェイ・ワイダが“連帯”に対する支持を表明する作品として発表した社会派ドラマ。“連帯”のレフ・ワレサ自身も映画内に登場し、カンヌ映画祭でグランプリを受賞した。

 物語は1981年現在の状況をビンケルが取材する形で進んでいくが、その中で関係者の証言として1970年の弾圧や1980年の連帯の誕生時の話が映像として挿入される。それは“連帯”(1980年にグダニスク造船所のストをきっかけに全国的なポーランド民主化のための組織として誕生)の誕生によってひとつの完成を見たポーランド民主化運動の歴史そのものである。この作品はその歴史をグダニスクの造船所のストの指導者であるマチェクと70年のストで亡くなった彼の父親を通して描こうとしているわけだ。

 主眼がそのような社会的な事実を描くことに置かれているだけに映画としては退屈にならざるを得ない。常に落ち着かず、額に汗を浮かべてすぐに酒に頼ろうとするビンケルのキャラクターは秀逸で彼の存在がこの映画に予想不可能な緊張感を与えている。しかしそれでも彼はあくまでストを推し進める側ではなく、それを客観的に見つめ、あるいはむしろそれを阻止しようとする体制側にいるかもしれない人間だ。そのために彼は物語の主役とはなりえず、そのキャラクターは十全には生かされていないように思えてしまうのだ。

 アンジェイ・ワイダの作品の最大の魅力は人間と人間の関係の描き方にあるように思える。言葉に頼ることなく画面に2人3人という人間を収めて物語を構築していくだけでその関係性が浮き彫りになり、そこに深みのある物語が生まれる。それがワイダが作り上げる映画の面白みに他ならない。

 この作品はビンケルとマチェクと終盤にはその妻との関係が描かれてはいるが、それはこの作品が描こうとする民主化運動と“連帯”の大きさから比べると小さすぎる。ワイダの視線は社会という大きな塊を描こうとするにはナイーブ過ぎ、その全体像を伝えきれないという印象がある。

 だからこそ、ワレサを主人公にするのではなく、グダニスクの造船所のストという“連帯”への端緒となる比較的限定された対象を選んだのだろうけれど、それが最終的に“連帯”という全国的な広がりを持つ運動へと発展してゆくのに伴って存在感を薄れさせていったのと同様、この作品も求心力を失ってしまっていっているような気がする。

 アンジェイ・ワイダは1980年9月にポーランドで成立した“連帯(独立自主管理労働組合)”に強い支持を表明した。しかしこの“連帯”は1981年の戒厳令の発令により大きく力をそがれてしまう。この作品が作られたのは“連帯”が勢いを持ったわずかな時期の間である。その高揚感は作品からは感じられるが、それが歴史となった今見ると、その高揚感によってワイダの優れた描写力が鈍ってしまっているように思える。

 私は映画監督というのは好きなものを好きなように撮っていいという時より、予算とか検閲といった制限がある程度あるときのほうがいい作品が撮れるものだと常々思っている。検閲下で優れた映画を作り続けてきたイラン映画やソ連映画、戦中の日本映画、戦後の日本映画の性的表現などがそうだ。

 この作品は散々不自由な思いをしてきたワイダがついにある程度自由に思いのたけをこめることができるようになった作品なのだと思うが、そのことが逆にワイダのよさを殺してしまった。そんな風に思えてならない。

 この作品に与えられたカンヌ映画祭のグランプリは映画そのものというより西欧社会を代表してポーランドの“連帯”に与えられたものなのだろう。良くも悪くも映画というものも“政治”とは無関係ではいられないことを示すことになった作品だと思う。ワイダも81年の戒厳令により(おそらくこの作品のせいで)映画人協会会長の座を追われしばらく国内での映画製作ができなくなってしまった。

 映画と政治というのはなかなか難しい関係にあるもののようだ。

サイボーグ

Cyborg
1989年,アメリカ,90分
監督:アルバート・ピュン
脚本:キティ・チャルマース
撮影:フィリップ・アラン・ウォーターズ
音楽:ケヴィン・バッシンソン
出演:ジャン=クロード・ヴァン・ダム、デボラ・リクター、デイル・ハドソン、ヴィンセント・クライン

 文明が崩壊し、ペストによって人類滅亡の危機にある地球、ペストの治療のための情報をインプットしたサイボーグがフェンダー率いるギャング一味に奪われる。フェンダーに個人的な恨みを持つギブソンとサイボーグを救いたいナディは一行を追いかけるが…
 最低映画監督アルバート・ピュンがジャン=クロード・ヴァン・ダム主演でとった近未来アクション。あまりのひどさに一件の価値はあり。

 この作品は基本的には典型的なハリウッドアクション映画だ。男たちがこぶしで殴りあい、ナイフを振り、言葉にならない雄たけびをあげる。殺せるチャンスがあっても殴り倒すことを選び、意味もなく筋肉ムキムキの体をひけらかす。

 タイトルは『サイボーグ』となっているが、それは対立するフェンダーとギブソン(ギターの名前みたいだ)がそのサイボーグを奪い合っているからであって、別にサイボーグが闘うわけではない。まあ近未来の終末観を出したいがために舞台を未来に設定し、未来であることがわかるようにそんなタイトルにしたのだろうけれど、実際のところ文明が衰退してしまったために火器はほとんど使えなくなっているので、舞台は古代ローマでもかまわなかったのかもしれない。

 そのどこでもいいところでどうでもいいことが起きる。そもそもペストって抗生物質で治るよね? いくら文明が崩壊したからってそれで人類が滅亡するという設定もひどい。何らかのウィルスが働いて人間が凶暴化したなんていう設定ならわかるが、ペストでこんなになるなんて…

 この映画がヒットしたというのだから本当にアメリカという国はわからない。そんなにみんな意味のない暴力が好きなのだろうか。基本的に言葉をしゃべらず、多くの登場人物が顔を隠しているのは、その無名性によって人間性を否定し暴力を正当化するためだろうか。人間でない人間が殴りあい殺しあう。そのさまを見るのがアメリカ人は好きなのだろうか。

 まあ出来が悪くリアリティがまったくないので、人と人が殺しあうことに対する嫌悪感というものすら感じさせないので、唾棄すべき作品というよりはあまりにひどくて笑っちゃう作品といったほうがふさわしい。たとえるならば「まずいのに体にいいわけではない青汁」(悪くもない)というところだろうか。なかには「まずーい。もう一杯」と言ってしまう人がいるから、この最低の監督アルバート・ピュンは作品を撮り続けてしまっているのだろう。

 そんなアルバート・ピュンの毒にやられてしまっている人と若かりし頃のジャン=クロード・ヴァン・ダムが見たいという人以外にはまったく勧めません。あとは本当にどうしようもないクソ映画(汚い言葉ですみません)を観たい人はどうぞ。

ルート1

Route One USA
1989年,イギリス,265分
監督:ロバート・クレイマー
脚本:ロバート・クレイマー
撮影:ロバート・クレイマー
音楽:バール・フィリップス
出演:ポール・マッカイザック、ジョシュ・ジャクソン、パット・ロバートソン

 10年ぶりにアメリカに帰り、再会したロバート・クレイマート友人のドク。ふたりはカナダ国境からNYを通り、フロリダのキーウェストまで続くルート1をたどる旅に出ることにした。
 彼らが長い旅路で出会ったのはアメリカが抱えるさまざまな問題、そして問題を抱える人々。カメラに映る医者のドクはアフリカでの経験もあり、それらの問題に対処して、それがどのように問題であるのかを明らかにしていく。
 そして、4時間の旅の果てにはアメリカという国の全貌が浮かび上がってくるに違いない。

 これはロード・ムーヴィーなのだけれど、疾走感はなく題名ともなっているルート1は一つの場所と別の場所を区別するための区切りでしかない。それでも北から南に進むにつれ、着実に気候が変わり、風景が変わる。これは狙いか偶然かはわからないが、結果的にアメリカの多様性を示す一つの要素となっている。
 もちろん、この映画で示されるのは人種をはじめとした人々が持つ多様性であり、そこに存在するさまざまな問題である。最初からインディアンの問題がクローズアップされるようにこの映画で一番目をひくのはマイノリティの問題だ。もちろんその問題は重要だが、クレイマーは必ずしもそればかりを問題にするわけではない。彼の捉えるマイノリティとはおそらく人種や民族という問題にはとどまらない。NYのような都会と広大な田園地帯というアメリカのイメージとは違う荒廃した土地に住む人々のすべてが彼にとってのマイノリティなのだろう。しかし、本当にアメリカを支えているのは、そんな名もない人々であり、それはアメリカと第三世界の関係が国内にも鏡像のように存在していることを示している。
 にもかかわらずアメリカがアメリカでいられるのは戦争のおかげなのかもしれない。ドクが戦没者の名前が刻まれた長い長い碑の前に何日も佇むとき、そこに刻まれた名前を持っていた人々について考える。名前にしてしまえば何の違いもなくなってしまう人々。これはおそらくアメリカの平等幻想を象徴的に示している。決して平等ではないのに、平等であるかのような気分に浸る。そうして人々はアメリカ人でいられる。
 アメリカとは一種のフィクションによって成り立っている国なのではないか。人々が共通して抱える幻想、それを一種の紐帯として人々が結びつき、一つの国家として成り立っている。この映画を見ていたら、そんなイメージが頭の中に浮かんだ。

 フィクションといえば、この映画の主人公ドクとはいったい誰なのか。映画の言葉を信じてクレイマーの友人の医者、アフリカに10年間いて久しぶりに帰って来た。としておいていいのだろうか。彼の本当の旧友らしい男と会ったり、兵隊にいたころの思い出話をしたりする。しかし、他方で彼はクレイマーの分身であり、クレイマーとして振舞っていることもあるだろう。
 彼は一つの町で医者の仕事に戻るといって急に旅をやめる。それからしばらくはクレイマーの、つまり被写体のいないカメラの、一人旅となる。しかし、キーウェストで唐突にドクはカメラの中に復帰し、そこの病院に仕事を見つける。恋人らしき人もできる。
 ドキュメンタリーと信じてみたらならば、そこに違和感はない。しかし、疑い始めたらいくらでも疑える。そのような自体から感じられるのは、それがドキュメンタリーであるかフィクションであるかを問うことの無意味さだ。
 クレイマーが追求しているのはリアルなアメリカを描写することであり、そのための手段がドキュメンタリーといわれるものであってもフィクションといわれるものであってもいいのだ。それは彼の映画を撮るということに対する姿勢をも示している。カメラを向けられたとき、人は日常そのままではいられない。そこには一つのフィクションが成立し、被写体となる人々は日常の自分を演じるようになる。クレイマーがそこにフィクションといわれるものを導入するのはそこで日常を演じるのが本人でなくてもいいと思ったからだろう。それをうそというのは自由だが、そのうそを写した映画は、現実で本当であることを映した映画よりも、現実の本当に近いものになるだろう。だからクレイマーはドキュメンタリーにフィクションを導入する。

生物みなトモダチ<教育編> トリ・ムシ・サカナの子守歌

1987年,日本,165分
監督:亀井文夫
撮影:菊池周
出演:小林恭治(朗読)

 映画はサケが故郷の川をさかのぼるところから始まり、まずはサケの生態が紹介される。さらに自然の生物たちの生態が紹介されるが、この映画の焦点は明らかに現代文明批判、人間批判にあり、映画の後半はそのことに終始する。 亀井文夫は映画の冒頭に「鳥になった人間(亀井文夫)のシネ・エッセイ」とタイトルを出すように、超然とした存在として人間の世界を眺める。
 さまざまな映画会社の協力を得てフィルムを使い、ボランティア・スタッフのみによって完成された映画。亀井は病に倒れながらも編集を続け、完成とともにこの世を去った。

 亀井文夫については思想的な部分でさまざまなことが言われている。共産党員であったり、しかし一方で共産党から批判されたり、賞賛されることもあるが、どのセクトからも攻撃されることもあるというような立場に立たされる。それは彼がそのような思想のフォーマットから自由であるということを意味している。「共産主義」とか「反戦」とかいうレッテルのついた思想にこだわることなく、自分なりの思想性を確立させていく。そのような映画作家であると思う。人々はそのときそのときの作品を見ながら、これはどうであれはどうだとか、亀井文夫は変わったとかいうけれど、亀井文夫自身には全く関係のないことだ。
 この作品から離れ、亀井文夫作品全体の印象になってしまうが、わたしには亀井文夫の思想の根底にあるのは民主主義とキリスト教であるような気がする。無理やりに当てはめるならば原始キリスト教的共産主義。もちろんこの当てはめも亀井文夫にとっては意味を成さないが、そのようなものに近い思想と考えれば理解しやすいかもしれない。
 共産主義を唱える人々はこの映画で亀井文夫が回帰したムラ共同体について批判する。しかし、別に亀井文夫はそれが人間のあるべき姿だといっているわけではなく、人間が自然と共存するための生き方の原型であるといっているだけである。果たして彼にとって、まず人間があるのか、それともまず自然があるのかはわからないが、少なくとも人間は自然の一員でしかないということを強調する。そのために歴史上でもっともふさわしかった形がムラ共同体だったということをいっているだけで、そこに回帰せよといっているわけではない。
 どうも、形にはまらないということは、論じにくいということになってしまいますが、自然と人間との関係性を深く考えることこそ必要だということかもしれない。

 ところで、この映画で気になったのは、あまりに「種の保存」を強調しすぎること。「種の保存」を強調することは人間が自然に反していることを立証することにつながるが、「種の保存」から人間の生活を説明することは難しい。それはあまりに自然に回帰しすぎ、人間の生活には近づいていかない。果たして人間が一つの「種」として存在しえるのか、本当に生物は「種の保存」のために生きているのか、ということをこの映画は説明しないまま、とにかく人間が「種の保存」の原則に反しているということを繰り返す。果たして、「種の保存」とはそんなに異論の余地のない理論なのだろうか? 
 などという疑問を抱きながら、まとまらないまま映画を見終わる。亀井文夫の遺言は結論ではなく、新たな疑問をいくつも提起するようなものだった。

最後の戦い

Le Dernier Combat
1983年,フランス,90分
監督:リュック・ベッソン
脚本:リュック・ベッソン、ピエール・ジョリヴェ
撮影:カルロ・ヴァリーニ
音楽:エリック・セラ
出演:ピエール・ジョリヴェ、ジャン・ブイーズ、ジャン・レノ

 近未来、ほとんどの人が死に絶えた世界、一人の男が砂漠化した地域のビルの一室に住んでいる。彼は一人過ごしながら、飛行機を作ろうとしていた。一方砂漠の中には、車ですごす一群がいる。そこに男が武器を持って向かう…
 白黒の画面にセリフなし(音がないのではなくてセリフがない。たぶん声を出すことができないという設定)というかなり実験的というか、不思議な条件で映画を作ったリュック・ベッソンの監督デビュー作。
 リュック・ベッソン自身でも、他の監督でも、こんな世界は見たことがない。この映画以前でも、この映画以後でも。

 この映画のリュック・ベッソンは自由だ。自由を利用してわざわざ不自由な映画を撮るところにリュック・ベッソンらしさというか、センスを感じてしまう。実験映画っぽくもあるんだけれど、コミカルな面もあり、とても不思議な感じ。
 言葉がしゃべれないことによって有効になるのは、謎が深くなるということ。ジャン・レノが荷物を持っていく家とジャン・レノとの関係はどんなものなのか、全く持ってわからないが、言葉を使ってしまうと、関係性はすぐにあかされてしまうだろう。それをなぞめいたままにするというところはなかなかうまい。
 最終的にこの映画はなんなんだ、ということになると、これはアクション映画で、やはりリュック・ベッソンの本領はアクション映画で、それはデビュー作から貫かれているということか。アクションとしては、なんともドン臭いけれど、言葉がないことで、逆に緊迫感が増す。

 なんとも書くことがないのは、この映画が哲学的な風を装いつつ、実はアクション映画であるということか。もちろん、純粋なアクション映画というのも賞賛するけれど、面白い!というと、それで終わってしまうような感じもある。特にこの映画の場合は哲学的な風を装っているので、なんか考えてしまうと、特に何かがあるわけではないという不思議な感じを伴っている。そのあたりはリュック・ベッソンのスタイルというか、普通のアクション映画とは違うしゃれた感じを作り出す秘訣というか、そんなものなんでしょう。
 全体的には音楽お使い方なども含めて、アニメっぽい印象を持ちましたね。リュック・ベッソンもフランス人に多いジャパニメーション・ファンの一人なのか?

レネットとミラベル/四つの冒険

Quatre Aventures de Reinette et Mirabelle
1986年,フランス,95分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:ソフィー・マンティニュー
音楽:ロナン・ジレジャン=ルイ・ヴァレロ
出演:ジェシカ・フォルド、ジョエル・ミケル

 フランスの田舎道で自転車がパンクしたミラベルはたまたま通りかかった女に自転車屋の場所を聞く。その少女レネットは自転車やは10キロ先だといい、自分が直すからといって、ミラベルを家に招き入れる。夜明け前の一瞬に訪れる完全な静寂(青の時間)の話をするレネット、その時間を味わうためミラベルはレネットの家にとまることにした。
 この話を皮切りとした4話の断章。レネットとミラベルの対照的なキャラクターに、ロメールらしい軽妙な語り口と、どこか哲学じみた会話。いかにもロメール、これぞロメール。

 この映画はレネットとミラベルの対照的なところが映画のミソになっていることは間違いない。最初の登場からしてミラベルはスタイリッシュで、レネットは田舎臭く、ダサい。ミラベルは冷静なインテリで、レネットは感情的な独学の芸術家。そんな二人が出会って程なく仲良くなってしまうというところに疑問は覚えるが、ヴァカンスで出会ってすぐ仲良くなるというのはロメールの一つのパターンで、そのあたりの持って行き方は巧妙なので、それほど違和感もなく受け入れてしまう。ミラベルはインテリで、民族学をやっている大学院生だが、そのプロフィールは『夏物語』のマルゴを思い出させる。
 そんな二人だが、二人に共通するのはいい人というかヒューマニストというような側面だ。しかし、そのヒューマニスト的な面でも意見が一致しないことが、「物乞い、万引き、ペテン師の女」という断章で明らかになる。ここの会話は一種哲学的なもので、この哲学的な会話というのもロメールの一つのパターンというか特徴。真っ先に思い出したのは『春のソナタ』の食卓の会話。これにとどまらず、物語とあまり関係なく哲学的な話が挟まれることが多い。それは軽妙でさらりと流れてしまいそうな映画にとって一つのスパイスとなる。
 そういえば、『春のソナタ』も二人の女の子が出会ってすぐに仲良くなる話だった。『春のソナタ』は89年なので、80年代後半のロメールの一つの物語のパターンだったのかもしれない。かなりの数の映画を作り出しているロメールは、一種のパターンを持ち、いくつも見ていると飽きてしまいそうだが、なぜか飽きないのは、他の映画を連想させたり、見ている人を哲学的な思弁に引き込んだり、見るたびに違うところに引っかかるような仕掛けを用意しているからだろう。なんだか、エリック・ロメールの映画だけで半年くらい過ごせそうな気がする。
 ただ、あまり感想が浮かんでこないというのも正直なところで、なんとなく漫然と見てしまうのがロメールの映画なのでした。

トップガン

Top Gun
1986年,アメリカ,110分
監督:トニー・スコット
脚本:ジム・キャッシュ、ジャック・エップス・Jr
撮影:ジェフリー・キンボール
音楽:ハロルド・フォルターメイヤー、ジョルジオ・モロダー
出演:トム・クルーズ、ケリー・マクギリス、ヴァル・キルマー、アンソニー・エドワーズ、メグ・ライアン、ティム・ロビンス

 海軍で戦闘機のパイロットをするマーベリックは国籍不明機を追う。接近するとそれはソ連の戦闘機ミグ28だった。1台にミサイルロックをかけて追い払う。もう一台は、背面飛行でコックピットに近づいた。マーベリックはその事件で自信をなくしたエースパイロットに代わり、相棒のグースとともに、海軍最高のパイロットが集まる「トップガン」に派遣された。
 いわずと知れたトム・クルーズの出世作。他にも、ヴァル・キルマー、メグ・ライアン、ティム・ロビンスといった今はスターとなっている役者たちが出演。監督はリドリー・スコットの弟トニー・スコット。

 久しぶりに見てみると、何の映画なんだこれは? という気になってくる。パイロットだからもちろん軍隊ものなんだけれど、そこにハリウッド映画らしくラブロマンスが加わり、友情も映画のメインプロットになっていく。ということで、商店がどこにあるのか全くもってわからない。どのプロットも中途半端というか、納得する形では結末を迎えない。今から言えばなんとなく80年代の雰囲気とはそういうもので、時代にあっているということはできるかもしれないが、それにしても、何の映画なのか? 冷戦時代にこんなぼけた映画とってていいのか?
 冷戦といえば、実は結構ひどい映画で、最後のミッションに向かう理由が、自国の船が外国に入ってしまったというものなのに、そこで戦闘機で空中戦を繰り広げてしまう。そんなのアリ?
 などなどと、不思議な腑に落ちないことがいっぱいありますが、結局のところこの映画が「いい」のは、飛行機が滑空する空中のアクションシーンと音楽。結構長めに空中アクションが入ることで、それに目が行く。そのシーンはかなりかっこいいので、だまされてしまう。後は音楽。おなじみの音楽たちがいやがおうにも場面を盛り上げるので、プロットとしては対して盛り上がっていないんだけど、盛り上がった気分になってしまう。大画面大音響で、このシーンを見せ、この音楽を聞かせる。それでなんだか「いいな」と思ってしまう。そんなマジカルな映画なのでした。
 それにしても、メグ・ライアンは15年間全く変わっていないというのがすごい。キャラクターはちょっと違うけど、顔かたちはほとんど同じ。トムがずいぶんと違う顔になってしまったのとは対照的。後は、グースがERのグリーン先生だったということに気付きました。髪の毛が…。ティム・ロビンスもちょっとわかりにくいですね。

ストア

Store
1983年,アメリカ,118分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイビー

 ダラスにある高級百貨店「ニーマン=マーカス」。クリスマスシーズンのその百貨店で働く人々とそこに訪れる客たち。静かで広々とした店内に、豪華な品物が並ぶ。エスカレーター脇ではカルテットがクリスマスナンバーを演奏し、毛皮売り場では店員が客にクロテンの毛皮を見せている。
 地域にステータスとして君臨する百貨店をワイズマンはどう切り取ったか。従業員たちを中心に、彼らと客との関係を、彼らと商品との関係を淡々と描く。
 『モデル』『セラフィタの日記』という商品の広告をするモデルを描いた作品から商品を販売する『ストア』へ。この当時ワイズマンの目は「消費」に向いて
いた。

「どのような批判精神がそこにこめられているのか」
 いくつかの作品を見るうちに、いつの間にかそのような視点でワイズマンの作品を見るようになっていた。価値判断を保留し、ただものや人を映像に定着させるだけのワイズマンの視線は見るものに問題を投げかける。今回投げかけられる問題とはなんなのか? そのような問いを、いつも黒地に白い文字のタイトルを見ながら思う。
 この映画では序盤に副社長が「百貨店は商品を売るために存在する」と言う。それが正義であるかのような言い方をする。それを聞きながら思うのは、ワイズマンはそのような消費社会を批判しようとしているのだということだ。しかし、これもいくつかの作品を見て学んだことだが、ワイズマンは問題をそのように単純化しない。
 とにかく、確かに百貨店は商品を売るために存在するのだ。それを実行するためにさまざまな戦略が立てられる。それは客の見ていないところで、密かに立てられる。そして客は商品を買っていく。それは決してだましているわけではない。戦いでもない。この百貨店に限って言えば、彼らはブランドを売っているのだ。そして客はブランドを買っているのだ。
 それを象徴的に示すのは「ストッキングに<ニーマン=マーカス謹製>という刺繍を入れる」というバイヤーの言葉だ。その刺繍こそが客が求めるものである。

 ワイズマンがそのような「ブランド」で紡ぐ物語とは何か?
 はたから見れば、クリスマスシーズンに半袖で歩いている人がいるような街でどうして毛皮が必要なんだ?と思う。しかし、毛皮は売れる。そのような行動こそがワイズマンが捉えようとするものだ。ダラスで毛皮を買う人々は有閑階級であり、ワイズマンはこの映画が有閑階級を描こうとしたものだと明確に表明している。このダラスで毛皮こそが消費社会の象徴である。しかし、ワイズマンはだから有閑階級はダメなのだとは言わない。そのような有閑階級が存在するからこそ消費社会が存在し、このような百貨店が存続でき、従業員たちは仕事にありつける。問題はそこにはない。(余談としては、わたしはダラスで毛皮のコートを着たっていいと思う。真冬にミニスカートを履くんだって同じことだ。ただ、さらに個人的な話をすれば、わたしはそもそも毛皮はあまり好きではない。でも、毛皮を着たい人は(たとえ暑くても)着ればいい。おしゃれとは時に肉体的苦痛を伴うものだ)
 ワイズマンは有閑階級を描こうとしたと明言するにもかかわらず、彼が主にスポットを当てているのはそこで働く人々だ。有閑階級がいることによって存在する従業員たち。ワイズマンが繰り返し問うのは「彼らは仕事に誇りを持っているのか?仕事に満足しているのか?」ということだ。あるミーティングで、ニーマン=マーカスで働いていると特別な目で見られるという話が出てくる。就職希望者は熱烈にニーマン=マーカスへの憧れを語る。つまり、ニーマン=マーカスとは労働者たちにとってもあこがれであり、ステータスであるというわけだ。 つまり、ニーマン=マーカスが象徴する消費社会はダラスにおいては充足しており、問題にはならない。ワイズマンは消費社会を批判するためにこの百貨店を持ち出したのではないのかもしれない。

 ところで、この映画に出てくる商品はことごとく趣味が悪い。最初は進める従業員もお世辞でいっているのだろうと思ったが、どうも本気で言っているらしい。成金趣味の金ピカの宝飾品やわけのわからない柄のスカート。ワイズマンは映画の中でそれらのものの価値判断を行っていないが、好意的だとは思えない。にもかかわらず、そのような露悪趣味を「良いもの」としてしまうのはニーマン=マーカスのブランドであるからである。
 そんな露悪趣味が頂点に達するのは、社長の「マイ・ウェイ」だ。そんな鼻白いことさえも許されてしまう、あるいは積極的に受け入れられてしまう、そんな露悪的な成金趣味をステータスとみなす社会、それがこの映画の中に描かれている社会なのだ。ワイズマンはこのような社会を批判するわけではない。そのような社会が成立する構造を提示し、そのような社会が具体的にどのようなものなのかを視覚化し、その価値判断は観客にゆだねる。それがワイズマンのスタンスだと思う。

デッド・カーム/戦慄の航海

Dead Calm
1988年,オーストラリア,97分
監督:フィリップ・ノリス
原作:チャールズ・ウィリアムズ
脚本:テリー・ヘイズ
撮影:ディーン・セムラー
音楽:グレーム・レヴェル
出演:ニコール・キッドマン、サム・ニール、ビリー・ゼイン

 ヨットでクルージングを楽しむ夫婦。そこに小型ボートが近づいてくる。そこに乗っていた若い男は、船が沈没してしまったと語る。しかし、その若い男を乗せた二人のヨットに無人のぼろぼろの船が近づいてきた。
 アメリカでもヒットし、オーストラリア出身のフィリップ・ノリスとニコール・キッドマンがハリウッドへ進出するきっかけとなった。ハリウッド映画のような豪華さはなく、B級なテイストが漂うが、サスペンスとしてはなかなかのもの。

 結構わけのわからない映画で、特にラストシーンなどはふざけているとしか思えないが、おそらく大真面目に作っている。アメリカでこの映画のなにが好評だったのかわからないが、このあまりにパターンにぴたりとはまった映画作りは見ていて面白い。プロットはサイコ・サスペンス的な恐怖とオカルト的なショックとをうまく織り交ぜて、いいサスペンスに仕上がっているといえる。いろいろ「んなあほな」というところはあ りますが、そのB級な感じが、わたしとしてはこの映画を救っているように思えました。
 ニコール・キッドマンのヌードというのも映画が一流ではないということをあらわしているのでしょう。あまり書くこともないので、ニコール・キッドマンの話にしましょうか。ハリウッドで整形はあたりまえですが、この映画を見ると、今のニコールとはちょっと違う。鼻の形?目?マア、どこでもいいですが、ニコールに限らず整形女優は大体整形前のほうが親しみをもてる顔をしている。整形後のほうが美女なのかもしれないけれど、その背後にある美人の方のようなものに反感を感じてしまいます。
 ワイズマンの『モデル』でモデル事務所に問い合わせるときに「アメリカ的な美人(American Pie)」などといっているのを聞くと、やはり、そんな定型的な美人のほうが仕事があるのかと思いますが、どうなんだろうなー
 映画にとって美女は重要ですからね。

モデル

Model
1980年,アメリカ,129分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイビー

 ニューヨークのモデル事務所「ゾリ」、180人ものモデルを抱えるこの事務所とそこに所属するモデルたちの日常を追う。事務所には仕事の依頼の電話がひっきりなしにかかり、モデル志望も男女がたくさん訪れる。ワイズマンが写すのはその全体。そこにニューヨークの日常的な風景を挟み込んで、その対照性を明らかにする。
 ワイズマンの作品としてはメッセージ性が薄く、少し変わった雰囲気の作品。撮影をしながら対象について学んでいくと語るワイズマンだが、こんな馴染みのなさそうな題材でもその姿勢を貫いている。

 全体を通じて思うのは、モデルの映画であるのに、モデルたちが話す部分が非常に少ないといういうこと。これはこの映画がモデルたち自体ではなくモデルを取り巻くシステムを問題化しているからだろう。それはつまりモデル事務所を経由してモデルたちが結びつく広告のシステムである。結論から言ってしまえば、広告とはつまり消費社会を支える典型的なシステムであり、消費社会を体現する業界であるといえる。その広告を題材とすることによってこの映画は消費社会批判のような形をとる。
 ワイズマンが捉えるのは、その広告を支えるモデル事務所の人々である。事務所という施設ではなく、人間を捉えようとするというのはこの映画のよい点だ。メイクアップをするにしても、CMを撮影するにしても、そこで注目するのは人間である。特に多くの時間を割かれるストッキングのCM撮影の一連のシーンで描かれる人々と、出来上がったCMの没人間性の対比はおもしろい。広告(それは主にモノを広告するもの)というものの性質がことばにならない形でうまく表れている気がする。
 ここでモデルたちがしゃべらないという話に立ち返ると、ワイズマンはあえて彼らに話させない(明確にしゃべるのはインタビューのシーンだけ)ことによって、彼らのモノ的な側面を表現しようとしたとも捉えられる。広告という巨大メディアの中では、広告しようとする商品も、その素材となるモデルたちも同じモノでしかないという捉え方。そのような捉え方をワイズマンは問題を捉えるためのヒントにしているのではないか。

 もちろん、そのモデルたちを捉えたシーンの間に挟まれるニューヨークの街のシーンも注目に値する。そこに移っている人たちの多くは消費社会の末端に位置する人々だ。デモ行進をする黒人たちの姿もある。その対比の仕方はあまりにわかり安すぎるという気もしないでもないが、これがないと単なるモデル業界の内幕ものとなってしまう不安もある。そのあたりは編集こそが創作活動であるとするワイズマンならではの映画作りといえるのだろう。時にはとっつきやすい題材と、わかりやすい構造の映画も必要ということなのだろうか?
 ワイズマンを見慣れた目で見ると物足りないと映るかもしれない。でも、それはそれでいいのだとわたしは思う。ワイズマンはあらゆるアメリカを捉え、それをあらゆるアメリカに対して提示する。そのような作家だから、対象も表現の仕方も多岐にわたっているほうがいいのだ。