Rescures: Stories of Courage: Two Women
1997年,アメリカ,107分
監督:ピーター・ボグダノヴィッチ
脚本:カイ・ブロック、マーク・ドラッカー
撮影:ミロスラフ・バスザック
音楽:ヒュミー・マン
出演:エリザベス・パーキンス、アル・ワックスマン、セーラ・ウォード、アン・ジャクソン
ポーランドとフランスにおいてユダヤ人を救った二人の女性を描いた二つの物語。第1話「マムーシャ」は雇い主の息子を救った家庭教師の物語、第2話「自転車に乗った婦人」は南フランスで司教を助けて多くのユダヤ人をかくまった司教秘書の物語。おそらくともに実話に基づいていると思われる。 もともとはアメリカでテレビ用に作られたシリーズもので、他にも「二組のカップル」「二つの家族」というシリーズがある。
さすがにテレビ映画だけあって、凝った作りにはなっていないが、女性に焦点を当てた辺りがアイデア。「シンドラーのリスト」のような衝撃はないが、淡々と事実を伝えているという感じがして好感は持てる。
映画としてはどうということもないが、少し考えさせられることがあった。ひとつは映画として、ドイツ人はドイツ語をしゃべるのに主人公たち(ポーランド人またはフランス人)は英語を(しかも流暢に)しゃべるというのはかなりの違和感があった。アメリカ人はこれに疑問を感じないのだろうか?確かにアメリカの映画の登場人物たちはみな英語をしゃべる。外国映画も吹き替えにしてしまう。だからポーランド人が英語をしゃべるのも当然なのか?これはまあ、だからどうしたという感じの疑問。しかし「映画産業」ということを考えると意外と問題なのかもしれない部分。
もうひとつは映画からはなれて、この物語の構造が「ドイツ=男性」「ユダヤ=女性」という構図にのっかているように見えること。もっとも象徴的なのはゲートルードと彼女に言い寄る大家の甥の関係。大家の甥はナチスの協力者であって、ゲートルードを強引に口説こうとする男性的な人物。ゲートルードは彼を拒否するものの、被抑圧者でありつづけなくてはいけない。彼女がなしえたのはひそやかな抵抗。ユダヤ人たちがなしえたのは自らを解放することではなく、他者によって解放されること。第2話でも「女性は鍋をかき混ぜているのがいい」というセリフが出てくる。彼女たちはナチスに抵抗したのだから、女性のほうを賛美しているようにも見えるが、それはあくまで賛美であって、その母性の賛美であり、人道的立場からの肯定でしかなく、彼女たち=ユダヤ人たちを主体的な存在として描いているわけでは決してない。もっと言うならば、「ナチス=ロシア=ヴィシー=ドゴール=男性」であり、「ユダヤ=女性」である。「ユダヤ=女性」はたくさんの主体(=男性)に翻弄される、受動的な存在でしかないのである。
などということを考えながら、映画を見てみました。映画を見てなんだかいろいろなことを考えてみるものいいものですね。
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