俺もお前も

1946年,日本,72分
監督:成瀬巳喜男
脚本:成瀬巳喜男
撮影:山崎一雄
音楽:伊藤昇
出演:横山エンタツ、花菱アチャコ、山根寿子、河野糸子、菅井一郎

 サラリーマンの大木と青野はふたりでやる宴会芸が社長に気に入られ、ある日は得意先との宴会に、あるには社長の家の手伝いにと借り出される。4人の子供がいる青野は長女の結婚相手を大木に頼むが素っ頓狂な答えが返ってくるばかり。そんなある日、社長はふたりに骨休めに温泉に言って来いという。
 エンタツアチャコ主演の成瀬巳喜男戦後第2作。小市民を描いたコメディドラマで東宝と吉本の合同製作となっている。

 映画のはじめにはエンタツアチャコの芸をたっぷりと見せ、その後もドタバタコメディのような展開でまずはエンタツアチャコの面白さで観客を惹きつける。エンタツアチャコは戦前(昭和6年)に結成された漫才コンビで現在の「しゃべくり漫才」の祖といわれる。それまで漫才というのは「色物萬歳」という寄席の古典芸の一つで音曲を使ったものが多かった。エンタツアチャコは「しゃべり」を漫才の中心にすえることで現在の漫才のかたちを確立させたといわれる。横山ノックは横山エンタツの弟子で、ノックの弟子が横山やすしであることからも関西の漫才の祖であるといえる。

 そんなエンタツアチャコだが実はその寿命は非常に短く、昭和9年にアチャコの入院を機に解散している。ただ映画ではその後もコンビで出演し、この作品でも共演しているというわけだ。その人気者のエンタツアチャコの出演は敗戦直後の映画界では人々に明るさを与える要素として歓迎されただろう。

 成瀬巳喜男も戦後第2作でそれに乗っかった形になったが、そこは名匠、コメディ然とした導入から徐々に自分のドラマへと映画を転調していく。中心になるのはいやな仕事をさせられながら社長に頭が上がらないサラリーマンの悲哀である。それに対して大木の息子が労働者の権利を父親にとうとうと説き、世代間の考え方の違いと時代の変化を描く。

 折りしもこの映画が作られた1946年は東宝でストが頻発し、いわゆる“東宝争議”への機運が高まっていた時期、時代を読み取り、それを作品に反映させる成瀬らしい脚本ともいえるのだが、東宝にしてみればこんな作品を容認してしまって失敗だったと考えたかもしれない。

 そんな社会派の要素を組み込むのも成瀬らしさだが、この作品で最も成瀬らしいさえを見せたと私が思ったのは、“下駄”を使った語りである。大木が最初に家に帰ってきたとき、下駄の片方がなくなったというまったく物語とは関係ないエピソードが挟まれ、片方しかない下駄がしっかりと映される。そのときはなんだかわからないのだが、物語が終盤に差し掛かって大木と青野が社長にそれぞれが「下駄の片方ずつ」と評されることでそれが生きてくる。三和土に打ち捨てられた半端な下駄の虚しさをすら感じさせる映像がここで観客の頭に去来するのだ。

 72分という短い作品で決してそれほどいい出来とはいえないのだが、それでも成瀬は成瀬らしさを発揮し、面白い作品を作る。戦前はトーキーにいち早く取り組み、戦中は「芸道もの」というジャンルで戦時下という特殊な状況を跳ね除けた成瀬が、いよいよ自分らしさを発揮する前奏曲という感じでファンには見所のある作品となった。

王将

1948年,日本,94分
監督:伊藤大輔
原作:北条秀司
脚本:伊藤大輔
撮影:石本秀雄
音楽:西悟郎
出演:坂東妻三郎、水戸光子、三條美紀、小杉勇、斎藤達雄、滝沢修

関西で素人名人として名の通った坂田三吉は今日もいそいそと将棋大会に出かけた。次々とプロ棋士を倒して賞品をもらい、賞金をもらい、新進気鋭の関根七段と対戦ことに… 一方三吉の将棋道楽に苦しめられ、チンドン屋でビラをまいて帰ってきた妻の小春は三吉が仏壇をうっぱらって将棋大会の参加費を捻出したことを知り、家出を決意する…

明治から大正に実在した関西の棋士坂田三吉をモデルにした北条秀司の戯曲を伊藤大輔が映画化した作品。伊藤大輔はこの「王将」を3度にわたり映画化しており、これがその1回目。

やはり阪妻。私は若くてかっこいい阪妻より、40代くらいの味のある阪妻のほうが好き。だれっとたれ目になる笑顔、くっとよる皺、などなど。これくらいの年になってやっと味が出てきたという感じでしょうか。その点ではおそらく田村正和も同じで、若いころも確かに男前でよかったのですが、やはり年をとってからのほうが味があってよろしい。そう考えると、阪妻が50歳そこそこでなくなってしまったのは残念という以外に言葉はありません。

この映画の阪妻で一番いいと思ったのは首の振り。といっても何のことかは判らないと思いますが、阪妻がよく首を振る。いわゆる歌舞伎的な動きという感じで頭を左右に振ったりする動きがありますが、そんなようなものだと考えてください。とはいえ、それを大げさにやるわけではなく、動作の一貫としてふっと自然にやる。くくくくくっと首を振る。日常には普通ありえない動作のようでありながら阪妻がやると非常に自然で、とても絵になる。その首振りにはっと目が留まりました。よくよく思い出してみると他の作品でもやっていたような気もします。

こういう役者さんの癖というか味というか特徴というのは非常に重要な気がします。時には役柄にかかわらず出てくる特徴であったり、時にはその特徴があるためにいつもとは違う役柄をやるとなんだかピンとこなかったり、その特徴を逆手にとってある効果を生んだり。それは癖ではなくてなんとなくのイメージ姿かたちのパターンでもいい。例を上げようと思ったんですが、ちょっと思い出せません。田中絹代のほつれ毛…? ロビン・ウィリアムスはうれしいときにサイドステップを踏む?

まあ、いいか。とにかく阪妻は首の振りということです。田村正和なら眉間に皺。勝新なら着流し…

この映画はなんだか前半のほうが面白かった。前半の三吉が素人名人として破天荒にやっているところは面白い。将棋版に張り付くようにして将棋を打つ姿もすごく絵になる。ドラマとしても妻と子と近所の人たちと、親密な空間があって、とてもいい感じ。みていて「こりゃ名作だ」と思いました。

しかし、後半に入ると、ネタばれ防止のために詳しくはいえませんが、なんだか普通の話になってしまっている。映画の画面上の空間の密度が薄まってしまったというか、映画から密度が伝わってこない。私の個人的な気持ちとしては前半の話を引き伸ばして引き伸ばして、後半の話は最後の10分くらいでばたばたばたとやっちまってもよかったんじゃないかと思います。それくらい前半部分(ちょうど真ん中あたりでインタータイトルが入る前まで)はよかったのでした。

ところで、伊藤大輔(日本の黄金期を支えた映画監督のひとり。職人っぽい扱いをされてきたが、近年見直しが進む。阪妻作品を5本、他に『鞍馬天狗』『丹下左善』『大江戸5人男』など)は「王将」を3度も映画化しています。1度目がこの『王将』、2度目は55年に辰巳柳太郎と田中絹代で『王将一代』を、3度目は62年に三国連太郎と淡島千景で『王将』を撮っている。伊藤大輔が好きだったというよりは、この物語が受けたというのが大きいのではないかと思います。3度目の62年には映画にも出演した村田英雄が歌う『王将』が大ヒットというのもあります。

それにしても同じ監督が同じ題材で3度も映画を作るというのはかなり珍しい。ちょっと見比べてみたい気もします。