Faces
1968年,アメリカ,128分
監督:ジョン・カサヴェテス
脚本:ジョン・カサヴェテス
撮影:アル・ルーバン
音楽:ジャック・アッカーマン
出演:ジョン・マーレイ、ジーナ・ローランズ、シーモア・カッセル、リン・カーリン
ある会社のオフィス、社長が幾人かの客を出迎えて、映画を見せる。その映画が「FACES」。映画はこの劇中劇として進むが、映画を見せる社長自身が主人公リチャードである。
リチャードは友人と娼婦ジェニーの三人でのんだくれ、楽しい一夜を過ごす。その日は何もせずに帰ったリチャードだったが、ジェニーに惚れ込み、次の日には妻につい「離婚しよう」と言ってしまう…
カサヴェテスが家を抵当に入れ、俳優業で稼いだ資金をすべてつぎ込み、ボランティアのスタッフに頼り、完全独立資本で作成したインディペンデント・フィルム。この映画を見ると、映画というものが一回性のものでもう二度と同じ物は撮れないのだということを実感させられる。
「フェイシズ」という題名の通り、執拗に映し出されるのは顔・顔・顔、しかも周到に用意された空虚な笑い、その笑いがクロースアップで繰り返し々映し出される様はいらだたしい。しかし、そのいらだたしさは、快感へ向けた茨の道。「アメリカの影」でも述べたように、カサヴェテスのフィルムの魅力の一つは前半の苛立ち・焦燥感にあると私は思う。だからその焦燥感が映画の3分の2、下手すると4分の3にわたっても決して苦痛ではない。
そして、ようやく快感がやってきたのはリチャードがジェニーと二人っきりになれた場面。そして、納得がいったのはその次の朝、リチャードが「普段の君を見せてくれ」と言い、「真面目なんだ」とそれこそ真面目な顔でつぶやくシーン。その瞬間私の頭の中ではそれまでのシーンが一気にフラッシュバックされ、あらゆる笑い顔の奥の真の意味に気づく。「フェイシズ」の複数は、いろいろな人々の顔ではなく一人の人間の複数の顔を意味している。彼らの笑い顔のあけすけな空虚さはこのときのために周到にしつこいまでに繰り返されたのだということ。
つづく妻のエピソードはそんな考えを強化する。妻のマリアだけが複数の顔を持たない。夫にもチェットにも同じ顔で接する。そしてチェットは複数の顔を持つ男。このシーモア・カッセルはかなりいい。顔を歪ませるような笑顔がなんともいえない。
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