2000年,日本,117分
監督:深作欣二
原作:高見広春
脚本:深作健太
撮影:柳島克己
音楽:天野正道
出演:ビートたけし、藤原竜也、前田亜季、山本太郎、安藤政信、柴咲コウ

 近未来の日本、暴力化する子供達を恐れた大人は通称BR法と呼ばれる法律を定め、毎年全国の中学三年生の中から1クラスを選び出し、最後の一人が残るまで殺し合いをさせるというゲームをすることに決めた。
 衝撃的な内容で話題を呼んだ小説「バトル・ロワイヤル」を深作欣二が映画化。基本的には原作に忠実な物語だが、映画としてはさすがに構成に工夫をしてある。

 原作を読んでしまっていたので、先の展開に対するハラハラ感というのは減じてしまったけれど、原作を読まずに見れば、もちろんその展開の仕方にかなり興味を惹かれるだろうし、映画として原作の物語の展開力をしっかりと再現している気はする。バトル・ロワイヤルという環境は全く人が信用できないという状況なわけで、その前提が存在すれば、見る側の頭の中には様々な推論が去来する。だからこの原作が映画として面白くならないはずはないという気はした。
 さて、原作を読んでいたがため逆に映画としてのよしあしが見えてくることもあると思うのですが、この映画はまさにそんな感じ。原作との比較という意味ではなく、プロットの部分を除いたいわゆる映画的なものについてということですが。
 この映画で最も特徴的と言えるのは字幕、文字の使い方。人の名前なんかを字幕で出したりするのは、洋画のテレビ放映のようで気に入らないのですが、この映画はそういう状況説明の字幕だけでなく、唐突に黒バックに白文字でセリフが字幕として入る。この唐突さはなんなのか、そしてこの唐突な中断による断絶はなんなのか? 壮絶な描写に対する一種の間として機能していると考えることもできるし、教訓めいたお言葉と理解することもできるし、表面的な暴力性とは裏腹な内面の人間性の描写とでも言うこともできるかもしれない。そのどれかひとつということではなく、それらの要素をあわせ持つものとして存在していると私は思う。それは、ラストの字幕。その一種の違和感すら覚える字幕をみたときに感じた爽快感のようなものから感じたこと。
 このような映画が暴力をあおるために作られることはもちろんなく、そこに何らかの反面教師的な性格を持たせていると受け取るのが普通であり、この映画もそのようなものとして作られたと思うのだけれど、この字幕の存在とそれが作り出す間がそれを確信させる。この映画の公開に反対したバカな国会議員もいたけれど、そんな大人が結局BR法のようなものを作ってしまうんだろうな、などとまっとうなことも考えてみたりしました。

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