2001年,日本,130分
監督:高橋伴明
原作:立松和平
脚本:青島武
撮影:柴主高秀
音楽:梅林茂
出演:萩原聖人、裕木奈江、山本太郎、高橋かおり、大杉漣

 若手の映画監督阿南は知り合いのCMディレクター樽見の初監督作品のメイキングを撮影することになった。その映画は連合赤軍の浅間山荘事件を描いた小説「光の雨」を映画化するものだった。その時代を生きた樽見とそんな事件のことすら知らない若者によって取られる映画がどのようになるのか、阿南は興味を持ってみつめるが…
 単純に小説を映画化するのではなく、それを映画化することを映画に撮るという二重構造をとることで、ドキュメンタリー的な要素を入れ込んだ。

 映画の映画とすることで、単なる昔話ではなくできたことは確か。しかし、結局物語の焦点がそれを経験した世代にあるのか、経験しなかった世代にあるのかがはっきりしない気もする。若者達が映画に出ることによってその内容に影響され、自分の中の何かが変わるということは理解できる。それは私が70年には生まれてもおらず、経験していなかった世代に親近感を覚えるということもあるかもしれない。しかも、そもそも映画全体をみれば、より興味を持ったのは連合赤軍の話自体で、撮影に関する話にはあまり興味が湧かなかった。したがって、個人的には単純に原作をそのまま映画にしてくれたほうがよかったといいたい。
 しかも、映画としても中身の映画のほうが、撮影に関する話よりうまくできている気がする。一番気になったのは、ロケハンをしている阿南が抜けている床から落ちる場面の、落ち方の下手さ加減だったりするのだけれど、そもそも撮影に関する話で印象に残っているところといえば、弟が兄のメイクをふき取りながら話すシーンくらい。
 このように撮影に関する話がいまひとつな理由を考えてみると、結局のところ、ドキュメンタリー的な要素といいながら、あからさまにフィクションであるということ。これはドキュメンタリーとフィクションの境界を越える作品ではなく、ドキュメンタリーという看板を借りた完全なフィクションでしかないということ。つまり、最近はやりのドキュメンタリー風をちょっとアレンジしただけのもの。それは単なるドキュメンタリー風よりも性質が悪い。原作の描いた世界をまっすぐに映画化できないから、そこから逃げるために回りくどいやり方をとったのではないかと穿った見方をしたくなる。原作自体を描いた部分は面白かったのだから、それだけでがっちり勝負して欲しかったと、その事件を知らない世代としては思います。

 これは余談ですが、この映画はなんとなく「バトルロワイヤル」に似ている。山本太郎が出ているというのは別にしても、映画の空気が似ている。死んだ人の名前が字幕で出るところも似ている。だからどうだということもないですが、細かく見ていけばもっと似ているところが見つかる気がします。

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