Yek Dastan-e Baghe’i
1996年,イラン,125分
監督:アボルファズル・ジャリリ
脚本:アボルファズル・ジャリリ
撮影:マスード・コラーニ
出演:サマド・ハニ、メヒディ・アサディ、アボルファズル・ジャリリ
TV用の新しい映画制作のため、主人公を演じる少年を探すジャリリ監督。しかし、なかなか見つからない。そんな時に立ち寄ったパン屋でであった少年サマドが彼のめがねにかなった。ちゃんとした交渉をするため、次の日彼を呼びにやると、彼は店からいなくなっていた。
撮影予定だったフィクションの撮影を取りやめ、少年サマドの実話をドキュメンタリーという形で映画化した作品。普段から素人の役者を使うジャリリ監督だが、これは完全なドキュメンタリー作品で、また違う趣き。
いわゆる「映画の映画」なのかと思ったらそうではなく、一人の少年を追ったドキュメンタリーとなる。確かにひとつのドラマとして、人道的というか道徳的というか、そういう物語であり、かつ独善的ではないという点でとてもいいお話だと思う。しかし、これを一本の映画として成立させてしまっていいのかという気もする。
ジャリリ監督は、素人の少年を映画の主人公に使い、撮影が終わった後もその少年たちを援助し、良好な関係を結んでいるという。それはとてもすばらしいことだし、いい映画が撮れて、かつそのような少年たちが幸福になるならそんなすばらしいことはないと思う。
しかし、その少年を救うひとつの物語を一本の映画としてしまうと、それは映画監督ジャリリのひとつの行為というよりは、一人の人間であるジャリリがたまたま映画監督であったがためにその行為を記録しただけということになってしまいはしないか? という疑問が起きる。彼はこれをひとつの映画として完成させようと奮闘し、撮影を許可してくれる医師を探した。しかし、それは映画監督であることと一人の人間であることを両立させるということにはつながらず、一人の少年を救うということと映画を完成させるという二つの目標の間で宙ぶらりんになってしまったところから来る妥協のように見えてしまう。
その中途半端さがあるために、映画(つまり作り物)としてまとめるために挿入されたと思われる、カットとカットの間の電子音と暗い一瞬のカットにも空虚さが漂う。そして最後につけられたメッセージもその中途半端さを補うためのつじつまあわせの言葉のように聞こえてしまう。実際のところは心から少年を救いたいと思い、行動したのだろうけれど、映画としての中途半端がそんなうがった見方をさせる余地を残す。
私は、この映画が映画として完成するためには、本来の目的であった「時計の息子」という作品を何らかの形で制作するか、あるいはサマドを主人公にした(フィクションの)映画を作る必要があると思う。そのそもそも映画として作られた映画と互いに補完することによってようやくひとつの映画世界が完成するように思えて仕方がない。この作品がTV用のものならなおさらそうなんじゃないかと思う。
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