1962年,日本,123分
監督:成瀬巳喜男
原作:林芙美子
脚本:井手俊郎、田中澄江
撮影:安本淳
音楽:古関裕而
出演:高峰秀子、田中絹代、宝田明、加東大介、小林桂樹、草笛光子

 両親と行商をしながら全国を転々として少女時代を暮らしたふみ子は本が大好きでいつも本ばかり読んでいる。女学校を卒業し、母と二人東京に落ち着いたが、母は九州にいる父を助けに九州へといってしまう。一人暮らしをはじめたふみ子だったが仕事はなかなか見つからず、貧しい生活を送っていた…
 林芙美子のデビューのきっかけとなった自伝小説の映画化。成瀬が映画化した林芙美子の作品としては最後の作品となった。林芙美子自身の文章をキャプションに使い、かなり原作を反映させた作品となっている。

 冒頭から何度も入る。文字によるキャプション「○月×日 …」。この言葉はすごく美しく、ぐっと心に響いてくる。もちろん原作ままの文章をキャプションとし、それを高峰秀子が読むという形なのだけれど、原作ではおそらく無数にあるであろうその文章の中から本当に心に響く言葉を選び出し、効果的な配することができるのは映画の力だ。原作者-脚本家-監督の絶妙のコラボレーション。ただ、この文章も映画の終盤になるとその威力を弱める。映画の中でも言われている「貧乏を売り物にしているのが鼻につく」ということだろうか?それとも単純にその言葉に慣れてしまうからだろうか? あるいは映画のテンポにあまりに変化がなさ過ぎるからか?
 基本的にこの映画はドラマが最大の魅力であると思う。ふみ子のまさにドラマティックな人生。そのドラマにこそ観客は入り込み、ふみ子に自己を投影する。あるいはふみ子を影から見つめている保護者のような立場に自分を置く。だから福地が登場すると「こんな男にはだまされるなよ」などと思ってしまう。ふみ子の味方として映画の中の世界の隣に佇む。そんな立場で映画を見ることができるのはすばらしい。それはもちろん成瀬のさりげない演出、子供のころふみ子が画面の奥でいつも本を読んでいるとか、本郷の下宿の建物が微妙に傾いているとかいうことも重要だし、高峰秀子の非常にうまい役作り、しゃべり方や表情も重要なのだろう。しかし、これも終盤になると弱まってしまう。なんとなくふみ子にわずかに反感を覚えてしまったりもする。感覚としては映画の中の世界からぽんと外に放り出されてしまったような感じ。ふみ子という存在がすっと遠くに行ってしまったような感覚を覚える。これも成瀬流の演出なのか? 最後にクライマックスを持ってきて感動の涙を流させようとするいやらしいハリウッド映画とは違う成瀬の「いき」なのかとも思う。
 ある意味では絶妙な終わり方。パーティーでの福地のぶった演説はすごく感動的だった。しかしそれはふみ子の敵であったはずの福地の呼んだ感動であり、単純な勧善懲悪のドラマの裏切りである。一人の立場に入り込んで映画を見ると、ほかの人を善悪に二分しがちで、この映画もその例外ではないのだけれど、しかし、福地の演説に限らず終盤でこの二分論を裏切ることで映画全体を複雑で味わい深いものにしているのも事実である。この関係性の転換というか書き換えがシンプルなドラマとしてとらえた映画にとっては違和感になってはいるけれど、逆に深みを出してもいるといえるのではないだろうか?

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