2000年,日本,164分
監督:河瀬直美
脚本:河瀬直美
撮影:河瀬直美、猪本雅三
音楽:河瀬直美、松岡奈緒美
出演:中村優子、永澤俊矢、光石研、小野陽太郎
あやこは幼いころ両親と別れ、今はストリッパーをして生活をしている。あやこが妊娠し、中絶をした帰り、道端に倒れた彼女を見かけた大司。大司は死んだ祖父の残した窯を引き継ごうとしていた。そんな2人が出会う。
火の赤みと自然の風景。舞台は奈良。監督・脚本・撮影・音楽とすべてをこなす河瀬直美の淡々とした世界。
ながながと、きりきりと、たんたんと、映画はつむがれていくけれど、ばっさりと単純化してしまえば、これは親子(特に母親)の映画だと思う。あやこも大司も親はほとんど登場しない。このことがそもそも意味深く、象徴的である。しかし、親の存在は常に重くのしかかる。大司の引き継いだ祖父の窯を見に来たおじちゃんが「母親の胎内のようだ」みたいなことを言っていた。そう。この映画では窯が母親(あるいは親一般)の暗喩になっている。あやこが一緒に暮らす「姐さん」踊り子の恭子もあやこにとっては母親の一人である。
あやこと大司がいつまでも衝突するのは、ふたりが人との係わり合いを持ちづらいからであるのは明らかだ。その原因を親との関係性の希薄さに求めているというのも理解しやすい。だから、このふたりが正常な、というか円滑な関係を結ぶにはその「親」と和解しなければならない。あるいは「親」を完全に殺してしまわなければならない。それはつまり、実在しない(実在していた)親ではなく、彼らにとっての象徴的な意味での「親」をである。
私はそのようなことをこの(わかりにくい)映画をわかりやすく解釈するためのテーマとして掘り出してみた。淡々と進んでいく映画を一つのつながりと見るためには何らかの縦糸を見出していかなければならない。私が見出した縦糸はその「親殺し」ということだった。それはラストシーンをみながら「なるほどね」という実感だった。和解することと殺すこと。一見背反するように見えることだけれど、こと「親」と対するときにはこの二つの事柄は理念的に両立しうると思う。
などと書いてもぜんぜん言葉が足りないという感じですが、より明確な言葉で語ろうとするとすべてがうそ臭くなってしまうのでやめます。むしろこの映画はそのことをうまく表現しているように私には思えました。ので、映画を見てじっとりと考えてくださいませ。
ちょっとよくわからない話になってしまいました。
もうひとつ全体をつなげるのは「赤」の色彩。光や夕日の赤い色に照らされた風景や人物。ただその美しさをとらえたかっただけという印象も受ける。理解しようとすると難解だけれど、その美しさをとらえるのは難しくない。ストリップ小屋の紅い照明も燃え盛る窯の炎も、無数のロウソクがともる寺の風景も。
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