Je Rentre a la Maison
2001年,ポルトガル=フランス,90分
監督:マノエル・デ・オリヴェイラ
脚本:マノエル・デ・オリヴェイラ
撮影:サビーヌ・ランスラン
出演:ミシェル・ピコリ、アントワーヌ・シャビー、レオノール・シルヴェイラ、カトリーヌ・ドヌーヴ、ジョン・マルコヴィッチ

 映画は舞台から始まる。ベテラン俳優のジルベールの演じる舞台。その袖に不安げに控える3人の男。舞台の幕が下がり、ジルベールに交通事故で奥さんと娘夫婦がなくなったことが知らされる。孫と二人暮しとなったジルベールは今までどおりいつものカフェでコーヒーを飲み、仕事を続けるが…
 ポルトガルの巨匠オリヴェイラ監督らしい淡々とした物語。名優を使い、味わい深い映画を作るのはこの監督の十八番。

 基本的に役者を見せようという映画の気がする。オリヴェイラはかなり役者というものを非常に重くとらえている感があり、マストロヤンニの遺作となった『世界の始まりへの旅』なども名優マストロヤンニへの敬慕の念が画面からにじみ出る。
 だからこの映画も役者の味をじっくりと引き出す。その意味では音だけ、あるいは動きだけで演技させるオフ画面(フレームの外の部分)を多用するというのもよくわかる。最初のショーウィンドウのシーンも切り返しの連続で、常に映っていない側の音を拾っていくのはすごい。終盤のジョン・マルコヴィッチによるリハーサルの場面のかなりすごい。そのすごさはわかるけれど、ここまで徹底して使われると、ちょっと食傷してしまう。
 それはオリヴェイラ特有のゆったりとしたときの流れと関係あるかもしれない。とにかくオリヴェイラの映画は遅い。1カットが長く、1シーンが長く、物語の展開も遅い。もちろん物語で見せる映画ではないのでそれでいいのだけれど、その遅さはどうしても映画の細かな部分に注意を向かせる。勢いで突き進む映画だったなら、細部なんてそんなにこだわらなくても見られるのだけれど、これだけ遅いと、画面の隅々まで目を凝らさざるを得ない。あるいは画面の外側までじっくりと見なければならない。それはオフ画面を使ってもそれをとらえることが簡単だという一方で、慣れてしまうとそれが普通になり、退屈になってしまう恐れがある。この映画では先ほど述べたリハーサルの場面で再びキュッと締まり、ぐだぐだになってしまうのは避けられたけれど、中盤に眠気が訪れるのは(私にとっては)オリヴェイラの常である。
 しかし、この緩やかさがいい物を見せてくれることもある。この映画ではカフェの場面であり、新聞だ。ジルベールがカフェに行き、コーヒーを飲み、出て行くと、「フィガロ」を持ったひげのおじさんがその席に座る。別の日、ジルベールは「リベラシオン」を持ってカフェに行く、その日ジルベールは買い物をしてきたためつくのが少し遅く、「フィガロ」のおじさんが来たときまだ席が空いていない。「フィガロ」のおじさんは奥の席に着くが、ジルベールがったのでいつもの席に行こうとする。すると「ル・モンド」を持ったおじさんがするりとその席に座ってしまい、「フィガロ」はまた奥の席に戻る。まったくただそれだけのこと。フランス人が見ればおそらくそれぞれの新聞の意味がわかるのでしょう。私にはその意味はわかりませんが、そこに「味」があるのはわかります。それはこのゆったりとしたスピードがあってこそ可能な演出なのでしょう。

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