1968年,日本,80分
監督:大島渚
脚本:田村孟、佐々木守、足立正生、大島渚
撮影:吉田康弘
音楽:林光
出演:ザ・フォーク・クルセーダーズ、緑魔子、渡辺文雄、佐藤慶

 ベージュの詰襟を着た3人組が海へやってくる。3人が服を脱いで海に行っている間に砂浜の中からニョッキリと手が出てきて服を取り替えてしまう。海から帰って来た3人は仕方なく取り替えられた服を着てタバコ屋にタバコを買いに行く…
 ザ・フォーク・クールセダーズの同名曲を使い、非常に不思議な雰囲気を出す。

 この映画は非常に哲学的であると同時に、具体的な問題をも提起する。哲学的という面はこの映画の時間の流れ方にある。単純な繰り返しでもなく、単純なやり直しでもない時間の流れ。一種の螺旋を描く時間の流れ方。果てしなく続く螺旋の一部を切り取った線分。この映画が「おらは死んじまっただ~」という歌から始まることが示すのは、この前にも螺旋の一巻きがあったということを意味する。そしてもちろん終わったあとにも螺旋の時間は進み続ける。この螺旋という(キリスト教的な)直線とは異なった時間の概念の使い方が哲学的な思索を促す。
 『ラン・ローラ・ラン』という映画があった。1998年のドイツ映画で、ひとつの選択から異なってくる結末を描くという映画だったが、その映画では同じ時間の(異なるパターンの)繰り返しであるにもかかわらず、前のエピソードが次のエピソードに多少の影響を及ぼす。この映画ではそのことが不思議なこととして描かれているのではあるけれど、完全な直線よりは多少螺旋に近しい時間のとらえ方がそこにあると思う。
 この「螺旋」というのは結末に向かって直線的に突き進むハリウッドをはじめとした西洋の映画とは異なった映画を作る重要な要素になっていると思う。そこには西洋と東洋の時間のとらえ方の根本的な違いがあるわけだが、それを60年代の時点でとらえていた大島はさすがである。
 さて、話は変わって、この映画から提起される具体的な問題はもちろん「朝鮮」との関係性である。ふたまわり目で主人公たちが「僕らは朝鮮人だ」と主張するとき、そこには日本人が朝鮮人に成りすますという単純な「ふり」とは違う何かが生まれる。彼らがそのように言う視線は真剣で、心からそのことを信じているように見える。ただ「ふり」がうまいというだけではなく、その真相には「日本人」と「朝鮮人」なんていつでも交換可能なものだという気持ち、あるいは違いなんてないという気持ち、いやより正確に言うならば「日本人」は「朝鮮人」であるという気持ち。がそこにはあるように見える。監督本人も登場する街頭インタビューを模した場面「いえ、朝鮮人です。朝鮮人だからです」という連呼には日本人の誰しもが朝鮮人でありうるという主張が見て取れる。監督自身どこかで「日本人は朝鮮人だ」といっていた。
 フォークル(ザ・フォーク・クルセダーズ)はこの映画が製作された68年、「イムジン河」という曲をリリースしようとしていた。これに対して北朝鮮からクレームがつき、発売が中止になるという事件があったということも映画に影響を及ぼしているのかもしれない。
 そもそも大島渚は「朝鮮」という問題をさまざまな映画で取り上げてきたので、この映画だけからその解答を見つけようとするのは難しいだろう。

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