Flawless
1999年,アメリカ,111分
監督:ジョエル・シューマカー
脚本:ジョエル・シューマカー
撮影:デクラン・クイン
音楽:ブルース・ロバーツ
出演:ロバート・デ・ニーロ、フィリップ・シーモア・ホフマン、バリー・ミラー、クリス・バウアー
もと警官のウォルトの住む安ホテルで銃声が聞こえた。現場に駆けつけようと拳銃を手にして部屋を出たウォルトだったが途中の階段で倒れてしまう。意を取り戻した彼を待っていたのは、脳卒中で半身不随という診断だった。リハビリに歌うことを勧められた彼は上の階に住むドラァグ・クウィーンのラスティにレッスンを頼むことを思いつく。
ちょっととらえどころのない風変わりなドラマ。コメディなのか、アクションなのか、ヒューマンドラマなのか…
この映画はたぶんヒットしていない。それはこの映画があまりに普通すぎるから。ギャングとかいった設定も月並みだし、ドラァグ・クウィーンが出てくるというのも珍しくはないという映画的な普通さに加え、登場人物たちがあまりに人間的過ぎるという日常的な普通さ。
普通、ハリウッド映画というのは人物をステレオタイプに押し込み、設定をわかりやすくした上でドラマを展開していく。この映画もぱっと見では、マッチョなもと警官が障害を負うことで、弱い人たち(主に女性的な人たち)のことが見えてくるという設定であるように見える。そのような反マッチョの象徴的な存在であるドラァグ・クウィーンと徐々に打ち解けていくこと、それに対して元同僚の警官たちとは徐々に反目していくということ。そのような展開になりそうだ。
しかし実際は必ずしもそうではなく、元同僚たちとドラァグ・クウィーンが一緒にパーティをしていたりする。彼らは完全にステレオタイプな人間たちではないのだ。もちろん日常的にはステレオタイプではない人間のほうが普通であるのだけれど。
しかも最終的に彼を救うのはドラァグ・クウィーンではなく「本物の」女性だ。そのあたりのわかりにくさというのがとても不思議だ。撃たれて負傷するのではなくて、現場に向かう途中に脳卒中で倒れるという設定も不思議だ。
つまりハリウッド映画の文法に乗るのか乗らないのかはっきりしないところがどうもわかりにくい理由だろう。
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