民警故事
1995年,中国,102分
監督:ニン・イン
脚本:ニン・イン
撮影:チー・レイウー・ホンウェイ
音楽:コン・スー
出演:リー・チャン、ホーワン・リエンクイ、リー・リー

 新しく地区警察に配属された新米警官を指導する国力(クーリー)は警官としては熱意あふれて、すばらしいが、家では奥さんに小言ばかり言われている。いわゆる事件から夫婦喧嘩まであらゆることに対処する北京の地区警官。そんな国力の担当区域で人が犬にかまれるという事件が続発する。
 『北京好日』で国際的な評価を得たニン・インの監督作品。プロの役者ではなく実際の警察官を出演者とし、新たな中国映画の形を模索する。

 素人を使う。という手法といえば、キアロスタミやジャリリといったイランの監督たちを思い出す。この映画も同じアジアで作られた映画ということもあり、同じような傾向を持つのかと思えば、ぜんぜん違う。この映画に登場する人物たちはプロの役者顔負けの演技をする。イラン映画の出演者たちが素人っぽさを残し(監督がそれをあえて残し)たのとは逆に、言われなければ素人であると気づかないかもしれないほどの演技を見せる。
 これはどういうことかと考える。素人を使うということの意味を素直に考えると、それはリアリズムの追求だろう。役者として演じることなく、自分のままで映画に出演すること。そのことによって生じるリアリズム。フィクションとドキュメンタリーのはざまに存在することのできる映画。そのような映画を作りたいから素人を役者として使うのだろう。この映画の場合、出演者たちが実際の警官であり、確かに映画全体にリアルな感じはある。しかし、それがドキュメンタリー的なリアルさなのかというと、そうではない。そこにあるのはフィクションであると納得した上でのリアルさである。
 つまり、この映画が素人を使う目的は「リアルさ」というものを求めるレベルにとどまっているということだ。つまり、イラン映画と並列に論じることはできないということだ。まあ、素人を使うのはイラン映画の専売特許ではなく、ヨーロッパなどでも古くから使われてきた手法なので、ことさらにイラン映画イラン映画ということもないんですが、今は素人を使うといえばイラン映画、見たいな図式が出来上がっているので、一応比較してみました。
 そんなことは置いておいてこの映画をみると、映画自体もいまひとつ踏み込みが足りない。まさに邦題の「スケッチ」というにふさわしい軽いタッチ。警官たちを描くことで何が言いたいのかが今ひとつ浮き上がってこない。おそらくこの地区警官と住民委員会とアパートの林立(都市化)は北京において問題になっていることなのだろう。その問題のひとつとして飼い犬の問題があることはわかる。しかし、この映画が語るのはそこまでで、そこから先は個人の物語にすりかわってしまう。そのあたりにどうも不満が残る。果たして中国の映画状況がどのようなものなのかはわからないけれど、そこに自らの判断をぐっと織り込むことができないような環境なのだろうか?
 ここまでは文句ばかりですが、決して悪い映画ではない。映画自体は非常にエネルギッシュで熱気が伝わってきてよい。登場する人々も非常に魅力的。素直な目で見れば、中国のいろいろな状況もなんとなく伝わってきて、「ほー、へー」と納得しながら見ることができる映画だと思うのです。いろいろなことを考え出すと、ちょっといろいろ考えてしまうということ。

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