長江にいきる 秉愛の物語

ダムをめぐって人々から伝わってくる生々しい中国が濃い!

秉愛
2007年,中国,117分
監督:フォン・イェン
撮影:フォン・イェン、フォン・ウェンヅ

 三峡ダムの建設に伴い、水中に沈むことになる集落に暮らす秉愛は、体の弱い夫と2人の子供を抱え、毎日身を粉にして働いていた。そんな秉愛の集落もいよいよ退去しなければならなくなるが、秉愛は頑として退去に応じず、役人の度重なる要請も断って毎日畑に通うのだった…
 日本留学中に小川紳介の作品を見てドキュメンタリーを撮り始めたという監督が7年間にわたって撮影した作品。2007年の山形国際ドキュメンタリー映画祭でアジア最優秀賞に当たる「小川紳介賞」を受賞した。

 作品は主人公の“おばさん”秉愛の恋の思い出のモノローグではじまる。夕暮れの川辺で洗濯をする秉愛の映像をバックに「昔は恋をした」なんていう語りがつけられる。このシーンの眼目は望まない結婚だったということであり、それにもかかわらずいまは彼女は家族のために頑張っているのだ。彼女は、役人たちに反論して追い返し、自分の畑を見下ろしながら、畑を広げてもっと豊かな生活を送るという夢を語る。

 その彼女の姿は、強い“母”として魅力的である。貧しさにも苦境にも負けずに家族のために頑張るという母親像が明確なものとしてイメージされている。そして、「強い」と同時に「優しく」もある。役人とのやり取りでは強い口調でまくしたてるが、夫や子供は優しく気遣い、カメラに向かってははにかんだ笑顔を見せる。そんな彼女の人間性がこの作品の最大の魅力なのだろう。

しかし、どこかで自分勝手なのが「中国人らしい」と思ってしまう。日本人の感覚から言うと、ある程度の決め事によって退去せざるを得ないということになってしまえば、仕方ないから退去して、その上で交渉をするというのが「普通の」感覚だと思うのだが、この秉愛は納得がいかないことは納得がいかないといい続け、退去すること自体を拒否する。

 そして、その自分勝手さが非常によく出ているのが、村の話し合いの光景だ。このシーンでは村人達が移住後の土地の割り当てなどについて話し合っているのだが、一人の男が突然「自分を特別扱いしろ」と言い出す。そうでなくても点でばらばらな発言をしてまとまりのない話し合いは、さらにまとまらなくなるのだが、最後はなんとなく挙手によって話が決まる。

 これはその土地の雰囲気が生々しく伝わってくる非常にいいシーンだと思う。そしてそれは同時に観ている者との価値観の違いも浮き彫りにする。ドキュメンタリーというのはその対象となっているものに共感しなければ意味がないものではない。そこに映っているリアルと自分のリアルとがぶつかることで、自分のリアルを相対的に眺めることができるということによっても意味を生み出すことができるのだ。

 そして、このシーンは同時に村人達と秉愛との違いも明らかにする。秉愛はあくまでも自分と家族というたち位置を明確にして、そこから移住ということを考えているのに対し、村人達は他の人との相対的な関係として移住を考えているのだ。秉愛はおそらく村では少し孤立した存在で、その違和感がこの作品に絶妙の味わいを与えているのだろう。

 難点はといえば、この三峡ダムの計画の全貌が明らかにならない点だ。三峡ダムという巨大なダムの建設の事実と、それに伴う住民の退去という事実を知っていて見始めればよいが、そのような予備知識なしにいきなり見始めると、このおばさんはいったい何をごねているのかという気分になる。彼女の家の場所と畑の場所、そして移住場所として割り当てられた土地との位置関係も今ひとつわかりにくいので、彼女の訴えの切実さが今ひとつ伝わってこないのだ。たとえば、彼女が家から畑に向かう道のりや、そこから新しい移住場所を見上げる画があれば、描かれている空間がとらえやすくなり、もっと秉愛と感覚を共有できたのではないかと思う。

 監督によれば、秉愛以外の女性を中心に撮ったフィルムもあり、それらを編集してまた違う作品を作るという。そちらを見れば全貌がわかりやすくなり、この『秉愛』についても理解が進むのではないかと思う。

雲南の花嫁

少数民族はあくまで飾り、チャン・チンチューのアイドル映画。

花腰新娘
2005年,中国,91分
監督:チアン・チアルイ
脚本:チアン・チアルイ
撮影:ワン・ミン
音楽:トン・ウェイ
出演:チャン・チンチュー、イン・シャオティエン、ツイ・チェンミン

 雲南の少数民族イー族のファンメイは幼馴染のアーロンとめでたく結婚することに、しかしイー族のしきたりで結婚から3年間は一緒に暮らすことができなかった。現代っ子のファンメイはアーロンが指導する娘龍舞隊に入って一緒にいられるように画策するのだが…
 チアン・チアルイによる“雲南三部作”第2弾。主演のチャン・チンチューはこのあとハリウッドに進出。

 中国にはたくさんの少数民族がいるわけだけれど、この作品はそんな少数民族の一つイー族を扱っている。イー族に独特の結婚後3年は夫婦が一緒に住むことができないというしきたり、そして夫婦が一緒になる“帰家”前の娘だけが参加できる娘龍舞隊をテーマとしている。

 愛し合って夫婦になったはずなのにすぐには一緒になれないという理不尽、そしてそれにとどまらないしきたりの不自由さ、それを現代的な娘ファンメイがどう乗り切っていくのか、というのが物語の筋になりそうな話である。が、なかなかそうはならない。実際に展開されるのはアーロンの筋違いの嫉妬とよくわからない横恋慕。このプロットがなんとも古臭い。日本で言うなら50年代に量産されたメロドラマのような感じ、いまどき田舎の中学生でもそんな恋愛はしない。

 だからなんとも退屈だ。登場人物の誰にも感情移入することは出来ないし、せっかくのイー族の独特のしきたりという舞台装置もまったく生かされていない。そもそもそのしきたりがどのようなものなのか具体的に説明されることもない。

 ただイー族の民族衣装や歌、踊りは楽しめるしチャン・チンチューはかわいい。

 このチャン・チンチューは『ラッシュ・アワー3』でハリウッド進出を果たしたポスト・チャン・ツィイーと目される女優、素朴だけれど整った顔つきがとてもかわいい。この作品もそんなチャン・チンチューの魅力におんぶに抱っこという感じでとにかく彼女の正面からのアップを使い続ける。まあ50年代の日本映画だってそうやってスターの魅力で代わり映えしないプロットの映画を売り続けたのだから文句は言えないのだが、中国とて映画が大衆娯楽の王様という時代ではもはやないだろう。

 果たしてこの映画は一体何がしたかったのか。ただのアイドル映画だというのならそれでいいが、雲南という地域と少数民族について描こうとした映画だというのならあまりにひどい。チャン・チンチューも監督のチアン・チアルイも別に雲南出身というわけではないことを考えると、やはり中国というのは地方や少数民族が低く見られている国なんだという穿った見方もしたくなってしまう。結局のところこれは少数民族という演出によってアイドルを魅力的に見せようという局地的なオリエンタリズムに他ならないのかも知れないのだ。

 映画が退屈なためについついそんなことを考えてしまう悪循環な映画だった。

鬼が来た!

鬼子来了
2000年,中国,140分
監督:チアン・ウェン
原作:ユウ・フェンウェイ
脚本:チアン・ウェン、シー・チュンチュアン、シュー・ピン、リウ・シン
撮影:クー・チャンウェイ
音楽:リー・ハイイン、ツイ・チェン
出演:チアン・ウェン、香川照之、チアン・ホンポー、ユエン・ティン

 1945年、日本軍占領下の中国の小さな村掛甲台、日本軍の砲台があり毎朝、軍艦マーチがなる村に住む馬大三は愛人と暮らしていた、そんなある夜、謎の中国人が大三に銃を突きつけ、「荷物を預かってくれ」と言った。実はその荷物は日本兵と日本軍の通訳だった…
 『紅いコーリャン』などで知られる俳優チアン・ウェン(姜文)の監督第2作。難しく重いテーマを扱いながら、ブラックユーモアで包み隠し、軽く見られるように仕上げている。

 目につくのは過剰なクロースアップと手持ちカメラで追うアクションシーン。映画のテーマとなるべき部分が語られるとき、カメラは執拗に発話者を追う。丹念に、忠実に発話者の顔を正面からクロースアップで捉える。そのしつこさは耳に聞こえてくる言葉を振り払う。もちろん字幕で読んでいるのだけれど、そもそも耳に聞こえてくるのは言葉であり、その言葉が聞こえなければ、字幕も頭に入ってこない。この映画の言葉は頭に入ってこない。しつこく映されるでかい顔の口が動き、音が出ているのだけれど、その音が意味を成すことはない。
 アクションシーン、手持ちカメラで、動く人を至近距離で捕らえようとするその映像には肝心の人が映っていない。ただ動く何者かがあるだけ。人を斬る瞬間も、走る勢いもそこには映っていない。ただ乗り物酔いを誘うような揺れる画面があるだけ。そこからは中国人と日本軍の関係性は伝わってこない。
 アクションやユーモアでテーマの重さをカヴァーする。それは決して悪いことではない。しかし、そのカヴァーの下のどこかでそのテーマを追求するべきではないだろうか? この映画でその追求されるべきテーマは上滑りするセリフの中にしかない。
 要するに、この映画にはリアルさがない。このリアルでなさの原因は何か。誤解を恐れずに言えば、それはカットの多さ。もちろんカットが多くてもリアルな映画はある。しかし、この映画の場合カットを多く割ることによって、画面と画面のつながりが、そして人と人とのつながりが希薄になる。クロースアップの繰り返しである会話の画面のセリフがなぜ真に迫らないのかと言えば、その一つ一つの発言(一つ一つのカット)が全体から浮いていて、それぞれがひとつの一人語りでしかないからだ。つまりそこには会話が成立していない。役者自身がその人になりきれていないのかもしれない。とにかく、この画面に登場する人たちは生きていないのだとわたしは思う。

スケッチ・オブ・Peking

民警故事
1995年,中国,102分
監督:ニン・イン
脚本:ニン・イン
撮影:チー・レイウー・ホンウェイ
音楽:コン・スー
出演:リー・チャン、ホーワン・リエンクイ、リー・リー

 新しく地区警察に配属された新米警官を指導する国力(クーリー)は警官としては熱意あふれて、すばらしいが、家では奥さんに小言ばかり言われている。いわゆる事件から夫婦喧嘩まであらゆることに対処する北京の地区警官。そんな国力の担当区域で人が犬にかまれるという事件が続発する。
 『北京好日』で国際的な評価を得たニン・インの監督作品。プロの役者ではなく実際の警察官を出演者とし、新たな中国映画の形を模索する。

 素人を使う。という手法といえば、キアロスタミやジャリリといったイランの監督たちを思い出す。この映画も同じアジアで作られた映画ということもあり、同じような傾向を持つのかと思えば、ぜんぜん違う。この映画に登場する人物たちはプロの役者顔負けの演技をする。イラン映画の出演者たちが素人っぽさを残し(監督がそれをあえて残し)たのとは逆に、言われなければ素人であると気づかないかもしれないほどの演技を見せる。
 これはどういうことかと考える。素人を使うということの意味を素直に考えると、それはリアリズムの追求だろう。役者として演じることなく、自分のままで映画に出演すること。そのことによって生じるリアリズム。フィクションとドキュメンタリーのはざまに存在することのできる映画。そのような映画を作りたいから素人を役者として使うのだろう。この映画の場合、出演者たちが実際の警官であり、確かに映画全体にリアルな感じはある。しかし、それがドキュメンタリー的なリアルさなのかというと、そうではない。そこにあるのはフィクションであると納得した上でのリアルさである。
 つまり、この映画が素人を使う目的は「リアルさ」というものを求めるレベルにとどまっているということだ。つまり、イラン映画と並列に論じることはできないということだ。まあ、素人を使うのはイラン映画の専売特許ではなく、ヨーロッパなどでも古くから使われてきた手法なので、ことさらにイラン映画イラン映画ということもないんですが、今は素人を使うといえばイラン映画、見たいな図式が出来上がっているので、一応比較してみました。
 そんなことは置いておいてこの映画をみると、映画自体もいまひとつ踏み込みが足りない。まさに邦題の「スケッチ」というにふさわしい軽いタッチ。警官たちを描くことで何が言いたいのかが今ひとつ浮き上がってこない。おそらくこの地区警官と住民委員会とアパートの林立(都市化)は北京において問題になっていることなのだろう。その問題のひとつとして飼い犬の問題があることはわかる。しかし、この映画が語るのはそこまでで、そこから先は個人の物語にすりかわってしまう。そのあたりにどうも不満が残る。果たして中国の映画状況がどのようなものなのかはわからないけれど、そこに自らの判断をぐっと織り込むことができないような環境なのだろうか?
 ここまでは文句ばかりですが、決して悪い映画ではない。映画自体は非常にエネルギッシュで熱気が伝わってきてよい。登場する人々も非常に魅力的。素直な目で見れば、中国のいろいろな状況もなんとなく伝わってきて、「ほー、へー」と納得しながら見ることができる映画だと思うのです。いろいろなことを考え出すと、ちょっといろいろ考えてしまうということ。

あの子を探して

一個都不能少
Not One Less
1999年,中国,106分
監督:チャン・イーモウ
脚本:シー・シャンシェン
撮影:ホウ・ヨン
音楽:サン・バオ
出演:ウェイ・ミンジ、チャン・ホエクー、チャン・ジェンダ

 山奥の村のカオ先生が1ヶ月間休むということで、代用教員として連れてこられたのは近くの村に住む13才の少女ミンジ。小学校を出たばかりの彼女にカオ先生は不安を募らせるが、「生徒を減らさずにやれたら、10元あげよう」と約束して去っていった。果たしてミンジは無事に1ヶ月過ごすことができるのか…
 プロの役者ではない素人たちを使って生の感じを非常にうまく作り上げた力作。

 映画の全編(特に前半)にわたって、妙な「間」がある。そして噴出すような感情の奔流がある。そのざらざらした感じがなんとも「生」っぽくていい。最初ミンジが戸惑ってぶっきらぼうに生徒と接するところも、生徒たちが自由に遊んでいるようでいながら常に先生を意識していると感じさせるところも、ミンジが街の少女やテレビ局の受付のおばさんと衝突するところもそんな「生」な感じが非常によく出ている。
 そんなざらざらとしていらだたしいような展開からゆっくりと雰囲気が変わっていくことで、この物語は非常に感動的なものになっている。最初から感動させようという意図が見え透く感動ものより(この映画も設定から見ると、感動ものなんだろうと予想できるのだけれど、前半の展開がそれを裏切っている)こういった展開の変化があるほうが深い感動があるような気がしてしまう。
 結局最後まで妙な間とざらざら感がなくなることはないのだけれど、その普通の映画とは違う、一種典型的な映画というものを拒否しているような雰囲気がこの映画の魅力なんだろう。言葉ではうまく表現できないけれど、すごく違和感を感じ、その違和感がどこかですっと感動とすりかわるという感じ。そういう違和感のある映画に出会うと映画の可能性を感じる。いわゆる映画とは違う何かがあるということはその映画がすばらしいものであるということだと私は思う。この映画にもその「何か」がわずかだけれどあったような気がする。だからひねくれた心には素直な「初恋の来た道」よりむしろ感動的だったのだろう。

初恋の来た道

我的父親母親
The Road Home
1999年,アメリカ=中国,89分
監督:チャン・イーモウ
脚本:パオ・シー
撮影:ホウ・ヨン
音楽:バオ・サン
出演:チャン・ツィイー、チョン・ハオ、スン・ホンレイ、チャオ・ユエリン

 中国の寒村、三合屯。父が死んだという知らせを聞いてやってきたチャンユーは母が父が勤め続けた学校の前から動かないと聞き、連れ戻しにいく。家に戻り、両親の新婚のころの写真を見て、二人の結婚が村で語り草になるほど劇的なものだったことを思い出す。
 中国の田舎を舞台にしたシンプルなラブ・ストーリー。中国の田舎に風景には何かノスタルジーを感じさせるものがある。チャン・イーモウはそのあたりをうまく描く。

 「感動するぞ」と構えていけば、きっとすっと心に入ってくる。この映画のシンプルさは簡単に人を感動させることができる。シンプルであり、わかりやすいことはひとつの「美」であるといえる。天候を中心とした色彩に主人公の気持ちを反映させたりすることで、言葉はそれほど用いずに、わかりやすく物語を語っていく。それに多くの人が感動の涙を誘われるのはわかる。
 しかし、どうにも気になるのはオーバーラップの連発とエピローグの冗長さ。プロローグの部分は白黒からカラーへの転調の見事さも含めてなかなかうまいと思わせるものがあるが、エピローグはいかんせん長いと思う。最後の展開が読めるだけにうだうだと御託を並べず、すっと終わったほうがさらに感動を誘うこと請け合い。と、感動しながらも冷静さを失わずに思ったりするのでした。
 それにしてもオーバーラップの多さはどうしても気になる。オーバーラップ自体が悪いというわけではないけれど、これだけ連発されるとどうしても食傷してしまうし、感動させようという意図が見え透いてしまうようでいやだ。これも一種のわかりやすさなのかもしれないけれど、わかりやすすぎるのもどうかなという感じ。

こころの湯

洗澡
Shower
1999年,中国,92分
監督:チャン・ヤン
脚本:リュウ・フェントウ、チャン・ヤン
撮影:チャン・チェン
音楽:イェ・シャオ・ガン
出演:ズウ・シュイ、ブー・ツンシン、ジャン・ウー

 北京郊外で銭湯を営むリュウ老人のところは近所の人がいつも集まっていた。リュウ老は知的障害のある息子アミンと一緒に楽しく商売をしていた。そんなある日、家を出て南で暮らしている長男のターミンが突然帰って来た。ターミンはアミンから届いた葉書を見て父に何かあったのではと思ったのだが、それは取り越し苦労に終わり、数日後に帰ることに決めたのだが…
 「スパイシー・ラブ・スープ」のチャン・ヤンが名優ズウ・シュイを迎えて撮った感動作。従来の中国映画とは一味違った仕上がり。

 この監督は何かある。「スパイシー・ラブ・スープ」を見ているときにも思った「何かあるんだけれどどこか突き抜けない感じ」、それがこの作品にも引き続きあります。銭湯のシーン(ブルー)から砂漠のシーン(オレンジ)に突然展開したときにはビビッと来ましたが、結局この映画で目に付いたのはその青と赤(オレンジ)との対比くらい。他の部分もうまいとは思うもののグットくるまでは行かない感じなのです。「オー・ソレ・ミオ」とか、かけっことか「なるほどね」とか「やっぱりね」と思うところは多々あるもののそれを超えてきたのは一箇所のみでした。
 しかし、中国映画であると言う点から見れば、やはり斬新なものかもしれない。色使い一つにしたってなんとなく中国映画と言うと自然の色彩をよく言えば生かすような使い方で工夫がないのに対して、この映画は明らかに色に対するこだわりが強い。その辺りをしっかり見たい。
 そして、全体的にはしっかりとまとまっていて、感動ものとしては合格点。親子や兄弟と言った肉親の関係性がしっかりと描かれています。
 「スパイシー」のときにも書きましたが、この監督ならもっと先へ先へといけそうな予感がするのです。いつの日か本当に名作を撮ってくれそうな期待を寄せつつ見守ります。

スパイシー・ラブスープ

愛情麻辣湯
Spicey Love Soup
1998年,中国,109分
監督:チャン・ヤン
脚本:チャン・ヤン
撮影:チャン・ジァン
音楽:ジャ・ミンシュ
出演:チャオ・ミアオ、カオ・ユアンユアン、シュイ・ファン

 火鍋と呼ばれる激辛鍋を食べるカップル。二人は結婚を考え、翌日彼女の両親と食事をすることに。彼氏の方はその夜おなかをこわしたが、彼女の両親との食事もまた火鍋だった…
 というプロローグで始まる中国の様々な恋愛模様を描いた群像劇、火鍋のカップルを含めれば5つのエピソードで構成される。すごいところもあれば平凡なところもある。中国の新しい映画。

 まとめてしまうと、突き抜けそうな勢いがあるところもかなりあるけれど、基本的に「くさい」ので、全体としては微妙なところ。おそらく、総括してみれば平凡な映画なのかもしれない。でも、考えてみれば異常なほどのまとまりのなさ。愛に様々なバリエーションがあるというのなら分かるけれど、この映画のそれぞれのエピソードはあまりに共通点がなさ過ぎる。
 最初の話はすでにあまり覚えていませんが、いわゆる中国映画らしいオーソドックスな感じ、2話目も最初はそうかと思いきや、がたがたと崩れていき、人形劇の辺りでは壁を乗り越えて突き抜けた感じがした。しかし、それもつかの間またオーソドックスにもどり、3話目はなんだか説教くさい普通の話。4話目はできそこないのウォン・カーウァイかと思わせておいて、「何じゃその落ちは」と突っ込まざるを得ない終わり方。2話目と4話目に私のハートはわしづかみされましたが、他の部分が全体的に説教くささも含めてくさく、トレンディードラマかよと突っ込みたくなる場面も多い。それでもそこここにセンスを感じさせるシーンや画面がちりばめられているので、見ながら映画に対する評価も激しく上下していくという感じです。
 と、かなり微妙な映画ですが、もう一つ突き抜ければすごい監督なのかもしれない監督の可能性は見えた気がします。