1942年,日本,109分
監督:田中哲
原作:伊地知進
脚本:北村勉
撮影:長井信一
音楽:江口夜詩
出演:阪東妻三郎、中田弘二、林幹、押本映治、小林桂樹
昭和16年、北支戦線、作戦中の兵団に斥候が帰ってくる。そのデータを下に参謀長以下参謀は作戦を練り直す。将軍もその会議に顔を出し、作戦の変更を認めた。後は敵を殲滅し、突き進むのみ。意気盛んな兵士はシナ軍をどんどんと追い込んでいく。
戦時中、陸軍省の協力で中国ロケが敢行された戦争モノ。まさに戦場の中国で撮影されていることを考えているとすごいものがあるが、基本的には戦意高揚映画で、阪妻もまたそれに参加したという形。終始戦闘が繰り返され、兵士たちの勇敢な姿が映し出される。
このようなストレートな戦意高揚映画というのははじめて見ました。そのようなものだとは意識せずに見始め、30分ほどしたところでそれに気づいたという感じ。戦闘シーンはあれど、血も出なければ、腕ももげなければ、死体も出てこない。戦闘の汚らしい部分は全く出てこず、具体的な敵の姿も出てこない。このあたりがまさにという感じです。
しかし、このようなことを今取り上げて批判するというのは、全く持ってナンセンスな話で、当時はこのような映画が必要とされ、阪妻もまた参加したということ。進んでかいやおうなくかはわかりませんが、スター役者が参加するということは国民に一種の一体感が生まれるということは確かでしょう。阪妻のような将軍の下で戦いたいと思う若者も多かったかもしれません。この全く血なまぐさくない戦争映画から見えてくるのはこの映画が映す戦闘そのものではなく、戦争がその中に含むそれ以外の戦い。国民意識や戦闘意欲、国民の動員という現代の戦争になくてはならない要素でしょう。だから、この映画はある意味では戦争の一部。陸軍の軍事力の一部であったわけです。つまり、この映画を見るということは、あたかも実際に戦争で使用され銃剣や機関銃を見、手に触れるようなものだと思います。単なる一つの映画を見ているのではなく、映画であると同時に兵器であるものを見ているということ。
これを推し進めていくと見えてくるのは、映画の持つデマゴギーでしょうか。つまり観客を操作する力。『SHOAH』で書いたことにもつながりますが、映画は見るものをコントロールする可能性を持っているということ。
今となってはこの映画は、観客をコントロールすることはおそらくなく、それはつまりそのような映画の操作力を冷静に分析する材料になるということです。この映画はとても素朴なものですが、上映された当時は十分にその操作力を持っていた。そのことを考えると、現在の技巧を凝らされた映画には大きな潜在的な力が潜んでいるような気がします。
そのせいなのかどうなのか、阪妻の演技も控えめです。スターは必要だけれど、スターが目立ちすぎては本来の目的が果たせない。スターにばかり目が行って果敢な兵士たちの姿に目が行かないのでは仕方がないということでしょうか。しかし、阪妻演じる将軍は冷静で、部下を信頼し、決して誤らず、決してあせらず、兵士たちに安心感を与えるのです。わたしがもし、当時若者で、本土でこれを見たならば、「俺も戦争に行かなければ!」と思ったのかも知れません。あくまで「かも知れない」ということでしかないですが、現在から冷静に眺めると、この映画は明らかにそのような効果を狙っていると見えるのです。
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