Girlfight
2000年,アメリカ,110分
監督:カリン・クサマ
脚本:カリン・クサマ
撮影:パトリック・ケイディ
音楽:セオドア・シャビロ
出演:ミシェル・ロドリゲス、ジェイミー・ティレリ、ポール・カルデロン、サンティアゴ・ダグラス

 今年で高校を卒業するダイアナはブルックリンの公営住宅に住み、学校ではけんかばかり繰り返していた。ある日、弟のボクシングジムに月謝を払いに行ったダイアナは、弟に汚い手を使った少年を殴る。次の日、ダイアナは再びジムへ赴き、トレーナーにボクシングを教えてほしいと頼み込んだ。
 単純なスラムの少年少女という映画ではなく、上品に、しかし堅実にその姿を描いていく。監督は日系アメリカ人で、この作品がデビュー作となるカリン・クサマ。サンダンスで最優秀監督賞も受賞。人種が混交する状況を地味だけれどリアルに描いた佳作。

 こういう映画はヒロイズムに陥りやすい。一人の少女がボクシングに目覚めるとすると、彼女はたとえば女子ボクシング界で頂点に立つとか、そういった筋立てに。しかし、この映画はそのような筋立てにはしない。
 かといって、人種問題を前面に押し出すかといえば、そうでもない。最終的にメインとなる恋物語の相手がプエルトリカンであったり、ボクシングのコーチもヒスパニックであったりして、混交している状況は示されているけれど、必ずしもそれが貧困や差別につながるとは表現していない。
 そのような微妙なスタンスの取り方が映画全体を地味にしている。ひとつの見方としては、人種などを超えた普遍的な物語として描きたかったという見方もあるだろう。なら、どうして黒人なんだと思うけれど、もし白人の女の子がボクシングをやったとしたら、それは全く異なる物語になってしまっただろうし、そこからたち現れてくるのはやはりやはりヒロイズムか、『チアーズ』のような平等の幻想だけだろう。だから、このような人種混交の状況の中にある一人の貧しい少女を描こうとすると、人種は必然的に有色人種になってしまう。
 ということは、人種を超えた普遍的な物語などありえないという主張であるのかもしれない。「普遍」というまやかしをまとうことなく、映画を作る。それは一種、観客を限定することであり、産業的には不利に働くかもしれない。たとえば、スパイク・リーの映画はあくまで黒人映画であり、全米であまねく見られうというわけではない。そのような意味でこの映画も(黒人映画ではないけれど)観客を限定しているのだろう(映画祭によってその不利はある程度払拭されただろうけど)。

 逆に問題なのは、最終的にラブ・ストーリーに還元してしまったことだろうか?物語の最初も恋愛の話で始まり、主人公はそれに反発しているのだけれど、それが最終的にラブ・ストーリーに還元されてしまうと、なんだかね。途中、父親に食って掛かるシーンなどはかなり秀逸で、そういう勢いのあるシーンを物語にうまくつなげていければ、すばらしい映画になったような気がします。
 この展開だと、ひとつの少女の成長物語で、学校も家族も乗り越えるべきひとつのもので、最終的にたどり着くものは愛(恋)だというような話になってしまう。そのように単純化できてしまう物語はなんだかもったいない気がしてしまいます。

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