1960年,日本,107分
監督:大島渚
脚本:大島渚、石堂淑朗
撮影:川又昴
音楽:真鍋理一郎
出演:桑野みゆき、津川雅彦、渡辺文雄
1960年、安保闘争で出会った二人が結婚披露宴を執り行うところで、当時の同士、さらには1950年、破防法反対運動時代の同士たちが演説をぶち始める。披露宴の時間から抜け出ることはせず、追想による再現映像で物語を語っていくリアルタイムの学生運動映画。
人材刷新のため登用された大島渚だったが、会社の逆鱗に触れ、4日で公開中止になったといういわくつきの作品。
始まってしばらくは、独特の演説調の台詞まわしと、時折セリフがつまり、言い直すという斬新といっていいのかなんといっていいのか、そんな破天荒な語り方に魅了され、じっと映画を見ることができる。
しかし、物語が進み、それがあまり変化しないことがわかると、その演出というか語り方の大胆さだけでは補えない退屈さが顔を覗かせる。おそらく、リアルタイムで同じような体験をしていた若者たちには、突き刺さるものあるいは共感できるものとして、没頭できるものがあったのだろう。しかし40年後の今、この映画を見るとき、その思想的な面が今も考えるべきものがあるとはいえ、心に突き刺さってはこない。
演説調のセリフたちが、本当に演説でコミュニケーションとして成り立っていないのもいらだたしい。果たして大島渚が彼らのディスコミュニケーションを、アジテーションの投げかけあいでしかない現状を嘆き、描いたのか。最後までアジテーションで終始し、しかもそれが完結しないところを見ると、そのような意図を持って描かれた作品なのだろう。
しかし、そのような批判によって何を描こうとしたのかは判然としない。おそらく、これは一種のドキュメンタリーであり、何かを描こうという意図はなかった。果てしないアジテーションを捉えることで、そこから浮き上がってくる何かを画面に定着させる。そのために、つっかえたり言い直したりしてもそのままとにかく続けて撮る。それは一回性を是とするドキュメンタリーの手法に通じる。そんななか、津川雅彦だけは流暢にセリフをしゃべる。しかし、これまた演出ではないだろう。
なんだか結局よくわからない。すごいのかすごくないのかもわからない。いろいろな文脈でいろいろなことがいえるような気もするけれど、素朴に見るとなんだかわからないまま終わってしまう。何が問題なのか、何が解決したのか、何が解決していないのか。それがわからない。
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