Stavisky
1973年,フランス,118分
監督:アラン・レネ
原作:ホルヘ・センプラン
脚本:ホルヘ・センプラン
撮影:サッシャ・ヴィエルニ
音楽:ステファン・ソンダイム
出演:ジャン=ポール・ベルモント、シャルル・ボワイエ、フランソワ・ペリエ

 1931年、南フランス、トロツキーがロシアから亡命して来る。スタビスキーはホテル、新聞社、銀行などを持つ大実業家。しかし、彼の素性ははっきりとしたものではなかった。
 実際にあった事件をもとに作られた物語。実話なので、ストーリー・ラインがしっかりしているのかと思いきや、そこはアラン・レネなので、単純なドラマにはならない。複雑なシーンとシーンのつなぎ方によって、またも観客を迷宮のような空間に誘いこむ。

 最初のトロツキーの亡命シーンはまだしもとして、この映画には謎のシーンが多すぎる。謎というのは、そのシーンが果たして映画の中でどのような位置にあるのかが判然としないという意味での謎。トロツキーのシーンはそのシーン自体は理解できるので、それほど謎ではないのだけれど、映画を最後まで見てもいったい何のシーンだったのかわからないシーンがあったりする。普通は唐突に登場人物が出てきたら、その人があとで物語の主プロットにかかわってくるものだけれど、この映画にはそんな発想はない。しかも、そんな謎のシーンに混じって、プロットにとって重要な複線となるシーンがあるのだから、映画は理解しがたくなるばかりだ。

 このような映画を見て思うのは、アラン・レネにとってシーンに重要さの違いはないということなんじゃないかということだ。映画にプロットがあって、そのプロットに寄与するシーンが重要なシーンで、それ以外のシーンは余談というか、それほど重要でもないシーン、映画にとってのスパイスのようなものという発想は映画の一面的な見方でしかないということ。
 考えてみれば、コメディ映画なんかを見る場合には、別にプロットを追ってばかりいるわけではなく、一つ一つのシーンをネタとして楽しむ。それはコメディというジャンルに限ったことでなくてもいいはずだ。単純に一つ一つのシーンを楽しむ。そのようなことが映画のジャンルによってできたりできなかったりするのは、必ずしも映画そのものにその原因があるのではなく、見るわれわれのほうの映画に対する姿勢に何らかのバイアスがかかっているというか、ある種の固定観念にとらわれているということなのかもしれない。

 どうも、アラン・レネを見ると、映画そのものよりも、見ている側の自分に何か疑問がわいてくるというか、映画を構成するフィルムそのもの以外のものについて考えざるを得ないというか、そんな気分になってしまいます。それも、アラン・レネの作戦なのか?

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