2001年,日本,60分
監督:佐藤真
撮影:大津幸四郎
音楽:忌野清志郎
出演:今村花子、今村知左、今村泰信、今村桃子

 今村花子は重度の知的障害を持ち、両親と一緒に住んでいるが、その両親と会話をすることもできない。そんな彼女が意欲を発揮するのは芸術的な側面。キャンパスに絵の具を塗りたくり、ナイフで傷をつける。それよりもユニークなのは、食べ物を畳やお盆に並べる「食べ物アート」。それを発見した母親の知左が面白いと思って写真に撮り、それが数年にわたって続いている。
 そんな家族とともに生きる花子の姿を描いたドキュメンタリー。

 映画は忌野清志郎の歌声で始まる。少し割れたようなこの歌が妙に映画にマッチしている。歩き回る花子の姿と清志郎の歌声は映画への期待感を高める。
 映画自体は最初からアート、視覚アートの世界を描く。原色の油絵の具をキャンパスに塗りたくり、そこにペインティングナイフで傷をつけていく。それは何気ない、でたらめのように見える作業だが、そこから生まれてくる色彩のバランスは決してでたらめではない。意識的に何かをつくろうとはしていなくても、できてくるものに対する美醜の感覚を花子は持ち合わせているのだということをその絵を書くシーンは物語る。
 食べ物を並べて作る「食べ物アート」はほとんどの場合、父親が言うように「汚いことをしている」ようにしか見えない。にもかかわらずそれをアートとして捉え、写真に残すことにし、花子に好きなようにやらせることにした母親の知左はすごい。この映画はその知左という母親にほとんど集約していく。家族のそれぞれが対花子の関係を持って入るんだけれど、そこには必ず母親の知左が存在する。そんな微妙な家族の関係をこの映画はさりげなく描く。
 その家族の関係というのが非常に重要な問題で、それを考えさせることを主眼としているのだろう。しかし、それを眉間に皺を寄せて考えるのではなく、なんとなく考える。重度の障害者を抱えながらも、ゆったりと生きる両親を見ながらそんなことを感じる。

 話は音に戻って、音楽から始まるこの映画は花子の立てる言葉にならない言葉が大きく観客に作用する。声だけでなく、花子が自分の頭をたたいたり、頭を床にぶつけたりするその音も重要だ。おそらく音は現場での同時録音の時点の大きさよりも増長され、より観客に届くように編集しなおされている。少し画面と音がずれているところがあったりして、それはちょっと気になるところだが、それだけ、その音を伝えることがこの映画にとって重要だったということだ。言葉を話せない花子にとって、意思を伝えるために使えるのは、その音と強引に体で主張するという手段だけだ。だから、花子の家族たちも常に音に対して敏感になり、物音にすばやく反応する。そのような音に対する意識もこの映画は伝えようとしている。
 一つの事柄では表せない複数の要素が重なり合い、難しい問題を提起しているけれど、しかしそれを難解なものとして提示するのではなく、日常的なものとして提示する。この映画はそのような提示の仕方に成功している。

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