1938年,日本,81分
監督:亀井文夫
撮影:三木茂
音楽:飯田信夫
出演:松井翠声(解説)
1937年、日中戦争勃発。軍部は東宝の文化映画部に働きかけ、現地での日本軍の活躍を映画として公開することにした。そうしてカメラマンの三木茂を中心にスタッフが現地に赴いて撮影を行い、監督の亀井文夫がそのフィルムを編集して一本の映画を完成させた。それがこの『上海』である。
亀井文夫は三木茂が中国に渡る前に演出メモを渡し、従来の「行進する兵隊」のような典型的な映像ではないエレジーを感じさせる映像を撮ってくるように言ってあった。かくして、この映画はいわゆる国策映画とは違う映画となった。
映画は上海についての説明から始まる。地図を使ってイギリスやフランスの租界、中国人街、戦場となっている場所などが説明される。それから、実際の上海の街の映像に。そこでは、映像も解説もそこが戦場であるとは感じられないということを表現する。高層ビルが建つ大都会上海、各国の国旗がはためく国際都市上海、そのようなイメージを観客につかませる。
そこから、もっとミクロな方向へ描写は進む。中国人の抗日の動きや、それに対処する日本軍の活躍なども描くが、最も中心として描かれるのは上海の人々の暮らしだ。そこにはもちろん日本人も含まれるが、中国人も含まれる。そもそも見た目では日本人も中国人もあまり区別がつかない。しかも、松井翠声の解説は画面に映っているものをストレートに解説するのではなく、全体的な状況を語る。だから、画面に映っていることがいったいなんなのか、つまり何を伝えようとしてこのような映像を見せるのかが判然としない。
もちろん、この映画は日本軍の活躍や偉大さや敵たちの卑小さや残酷さを伝えるために作られるべきだった。だから、この映画はその意味では失敗作といわざるを得ない。しかし、そのような意図で見られる必要がなくなった現在にこの映画を見ると、そもそも亀井文夫はそのようなことを伝えようとして映画を作っていないことが見えてくる。
しかし、だからといって反戦とか、軍部批判とか言った攻撃的な意図から作られているわけでもない。この映画を見ていて感じるのはそれがあらゆる価値に対して中立であろうとしているということだ。どちらがいい悪いではなく、みんな人間なんだということ。大きく言ってしまえば、中国という雄大な自然の中ではみな卑小な存在に過ぎないんだということを言いたいのではないかと感じる。
たとえば、日本軍が中国兵が閉じこもった倉庫を攻略したというエピソードを語るとき、そこに残されたパンと映画の包み紙が映され、解説ではそれが中国軍の卑小さの象徴のように語られる。しかし、その言葉はなんだか空々しく、その画面から受ける印象はむしろ、中国兵たちも生きようとしていたということだ。あるいは、日本兵たちはそれを見てうらやましかったのではなかろうかということだ。
それは、戦争の勇猛さを伝えるのではもちろんなく、かといって戦争の悲惨さを伝えるのでもない。否定的に言えば戦争の無意味さというかむなしさを伝えるもので、あるいは戦争の日常性というか、戦争を戦っている人々というのは日常や自然とつながっているのだということ、そのようなことを伝えようとしているような気がする。
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