巨人征服

ハロルド・ロイドの真骨頂。アクロバットに優しい笑いが心地よい。

Why Worry?
1923年,アメリカ,77分
監督:フレッド・ニューメイヤー、サム・テイラー
脚本:サム・テイラー
撮影:ウォルター・ルンディン
出演:ハロルド・ロイド、ジョビナ・ラルストン、ジョン・アーセン、レオ・ホワイト

 大金持ちのハロルドは病気の療養のため看護師と召使とともに南米のパラディソ島に向かう。折りしもそのパラディソ島では金儲けをたくらむジム・ブレイクにより革命が行われようとしていた。そこにやってきてしまったハロルドだったが、そんなことは気にもかけない…
 喜劇王ハロルド・ロイドの全盛期である20年代前半の1作。飄々とした雰囲気がいつもどおりにいい。

 チャップリンとキートンとそしてロイド、チャップリンやキートンについては言われないのに、ロイドについて語るときは常に三大喜劇王という冠がついて回る。それは彼が3人の中で一番マイナーな存在だからだろう(特に日本では)。しかし、三大喜劇王といわれるだけ会って、彼もほかの二人に負けない面白さがある。

 特に彼が得意とするのはその顔からは意外に思える体を張った笑い。しかも筋力を生かしたアクロバティックな動きである。アクロバティックというとまずキートンを思い浮かべるが、バスター・キートンのアクロバットがスピードであるのに対し、ハロルド・ロイドのアクロバットはパワーである。

 この作品でも、地面からバルコニーに懸垂で飛び乗ったり、大男に上ったりとさまざまなアクロバットを見せる。もちろん今のアクション映画からみればおとなしいものだが、それでも彼の体が発するパワーは感じれるし、そのアクロバットを笑いにつなげるのもすごくうまい。

 サイレント映画の時代、言葉でギャグがいえない以上、笑いは動きで生まなければならなかった。キートンもそうだが常人離れした動きが笑いを生む。それは現在まで脈々と続く笑いの基本だといえるだろう。それはおそらくサーカスから派生したものだ。

 そう考えると、この時代を席巻した三大喜劇王の誰もがサーカス的な要素を持っているのだということがわかる。それは彼らの活躍したのが映画がまだ見世物であった時代だったということだ。そして活躍しながら彼らは映画に物語性やメッセージ性を取り入れ、映画が見世物からひとつの文化へと成長する一翼を担ったということなのだろう。

 チャップリンは特にその傾向が強く、現代に至るまで評価が高いが、バスター・キートンにもこのハロルド・ロイドにもその傾向は見られる。しかも彼のギャグは今見ても笑える。さすがは喜劇王だと納得。

聖山

Der Heiling Berg
1926年,ドイツ,90分
監督:アーノルド・ファンク
脚本:アーノルド・ファンク
撮影:アーノルド・ファンク、ヘルマー・ラースキー、ハンス・シュニーベルガー
出演:レニ・リーフェンシュタール、ルイズ・トレンカー、エルンスト・ペーターセン、フリーダ・リヒャルト、ハンネス・シュナイダー

踊り子のディオティーマと登山家のコリ、コリの友人でスキーヤーのヴィゴ。ディオティーマが2人の山の男に出会い、恋物語が始まる。牧歌的な雰囲気だが、冬になると山は激変し人を死へと誘い込む世界になる。そんな冬の山に果敢に挑戦する男たち、それを待つ女。

『スキーの脅威』『アルプス征服』など山岳を舞台にした映画を主に撮るアーノルド・フィンクが後の女性監督となるレニ・リーフェンシュタールを主役に起用して撮ったサイレントのドラマ。レニ・リーフェンシュタールの女優デビュー作でもある。レニ・リーフェンシュタールは同監督の『死の銀嶺』『モンブランの嵐』などにも出演している。

レニ・リーフェンシュタールはそもそもダンサーで、それが女優になり、監督になって、ナチスにからめとられて、ナチスの宣伝映画のようなものを撮ってしまい、戦後は映画監督として世に出ることはできず、アフリカの先住民の写真などを撮ってカメラマンとして地位を築いたというものすごい人なわけですが、そのレニ・リーフェンシュタールの女優としての出発点がこの作品。

決して美人ではなく、しかしダンサーというだけに表現力はものすごい。やはりサイレントの時代には肉体に表現力のある人が好まれたのでしょう。とくにこの映画のように精神的というよりはある種のスペクタクルを見せる映画の場合は、ぱっとビジュアルで表現できる人が重宝される。だから、この監督はこれ以後もレニを使い続けたということ。

レニ・リーフェンシュタールのことは勉強不足で語ることができないので、この映画について書くことにしましょう。

この映画はドラマとしてはあまり面白いものではない。おそらく上映された当時もドラマとして観客を引き込むというよりは「自然の驚異!」みたいな、今で言えば「ディスカバリー・チャネル」、ちょっと前なら「野生の王国」的なものとして人々の好奇心を満たすものだったのではないかと推測できます。

そのような点から見ると、この映画はとてもよくできている。当時の編集や特殊効果の技術を差し引いても、見るべきものはある。

なんといっても感心するのは縦の構図の使い方。映画の画面というのはスタンダード・サイズ(今のテレビと同じ1×1.33の画面)でも横長なわけで、基本的には横に構図を考えざるを得ない。だから縦の構図というのは非常に作りずらい。しかし、この映画では大胆に画面を切り取って縦の構図を作ってしまう。本当に画面の左右を黒で埋めて細長い画面を作ってしまう。これはちょっと反則という気もしますが、とりあえず縦の構図というものに意識を持っていくことには成功する。

圧巻はこの映画最大の見せ場とも言える、「聖なる北壁」の登頂場面。ここでは画面サイズはそのままに縦の構図をしっかりと見せる。このシークエンスは断崖絶壁を上るシーンの連続で、とにかく上へ上へと映画は進む。これが縦の構図で非常に美しい。崖以外の部分はそれで埋めて、時間や天気の変化を表現するので画面に無駄もない。

さらに、ここにインサートされるレニ・リーフェンシュタールの部屋のシーンの構図がうまい。ものすごいロングで部屋を捉え、ものすごく立てに長い窓がある。この縦長が縦の構図という共通性を山登りのシーンとの間に築くことでシークエンスに一体感を与える。

このシークエンスはうなります。この監督立てに山の映画(「山岳映画」というらしい)ばかり撮っているわけではないらしい。

こういう場面に出会うと、映画があまり面白くなくても、我慢してみていてよかったと思います。

人情紙風船

1937年,日本,86分
監督:山中貞雄
原作:河竹黙阿弥
脚本:三村伸太郎
撮影:三村明
音楽:太田忠
出演:中村翫右衛門[3代目]、河原崎長十郎[4代目]、助高屋助蔵、市川笑太郎、市川莚司(加東大介)

 とある長屋で首くくりがあった。長屋の人たちは大騒ぎするが、向かいに住む髪結いの新三は気づかず寝ていた。奉行所で取調べを受けたあと、新三は大家にみんなで通夜をしてやろうと提案し、けちな大家から5升の酒を出させる。皆が酒を飲みながら大騒ぎする中、新三の隣に住む浪人ものの海野だけは内職で紙風船を作る奥さんと二人で過ごしていた…
 28歳で夭逝し、監督作品はわずか3本しか現存していない天才監督山中貞雄の監督作品のひとつで、この作品は遺作に当たる。実際は20本以上の作品を監督したといわれ、その20本の映画は日本映画界が失った最も貴重な財産のひとつであるといえる。

 この監督の演出のさりげなさをみると、小津安二郎が魅了されたというのもうなずける。映像はよどみなく流れ、人物像もシンプル、この映画では髪結いの新三というのがとてもいいキャラクターで男でもほれそうな感じ。だからといって新三がひとり主人公として立っているわけではなく、新三と海野のふたりがともに主人公となる。そのもうひとりの主人公である海野はたたずまいがとてもいい。映画が作り出したキャラクターというよりは、この河原崎長十郎という人のキャラクターがいいのでしょう。この人は川口松太郎が脚色し、溝口が演出した『宮本武蔵』(1944)で武蔵をやっているそうなので、このキャラクターで武蔵をどうやったのか興味を惹かれます。
 山中貞雄の話に戻りますが、画面の印象としてはロングめの映像が多い感じがしました。長屋でも事件が起こるのは長屋の一番奥にある部屋で、それを長屋の手前から撮っている。そのようにして奥行きをつくるということを意識的に行っている気がします。このやり方が面白いのは、人の興味を奥にひきつけておいて、手前でいろいろなことをできるということでしょう。人がフレームインしてきたり、フレームアウトしたり、それを見るとうまいなぁと感心してしまいます。
 『丹下左膳余話』のときも思ったのですが、この監督の作品はどうも文字で表現しにくいようです。文字で表現してしまうとちっとも面白さが伝わらない。「さりげなさ」とか「粋」とかいう言葉を使って表現するしかない。
 とにかく登場人物が魅力的で、さりげなく粋な画面を作っている。ということです。物語のほうも甘くなりすぎず、しかし人情味にあふれていて、現実的でありながら、突き放す感じではない。というところです。
 見る機会があったらぜひ見てほしい一作であることは確かです。ビデオやDVD化も待たれますが、やはりこの画は大きい画面で見たほうが堪能できるような気がします。

戦ふ兵隊

1939年,日本,66分
監督:亀井文夫
撮影:三木茂
音楽:古関裕而

 日本軍が奥地へ奥地へと侵攻していく中国大陸、映画はその中国の農民の姿で始まる。家が壊れたり焼けたりして途方にくれる人々、続いて「いま大陸は新しい秩序を 生み出すために 烈しい陣痛を 体験している」という文字が画面いっぱいに映される。
 この映画はナレーションはないが、字幕というかキャプションによって画面が中断される。そしてその字幕の多くは日本軍の偉業をたたえるものだ。そんな字幕によって区切られながら、映画は中国の奥深くへと進んでいく日本軍のあとを追う。
 この映画は内務省の検閲に引っかかって、公開禁止となり、ネガも焼却されたため「幻の映画」とされていたが、1975年に1本のポジフィルムが見つかった。

 この映画は『上海』や『北京』と比べると、兵隊たちが映っているシーンが多いが、それでも多くの部分を中国人たちの映像や、兵隊の平時の映像が占めている。これは亀井文夫の戦争に対する一貫した姿勢の表れで、それは『上海』のときのも述べたように、反戦とか軍部批判とかいったことではなく、あらゆる価値に対して中立であろうとしているということだ。
 それでも、少なくともこの映画が当時の映画界を支配していたプロパガンダ映画と異なっているということは確かだ。この映画を見て人々が戦争へと駆り立てられることはおそらくない。字幕の文字上では皇軍を賛美し、日本軍の偉大さを喧伝しているけれど、画面はそれとは裏腹にひっそりと静かである。最初に兵隊たちのキャンプが映るシーンで、断続的に大砲の音が鳴り響いているにもかかわらず、兵隊たちの行動に全く焦燥感はなく、日常的な光景が展開されている。これは文字や音よりも映像こそがメッセージを語るという信念の表れであるように思える。映画からナレーションを排したも、そのような映像の力を信じてのことだろう。

 このようなことを考えると、やはり亀井文夫は世間で言われるようにただ一人、戦争に反対し続けた映画作家だといいたくなっても来る。しかし、やはりわたしは亀井文夫が戦争に反対しているとは思えないし、そもそもこのようなプロパガンダではない映画を撮っていたのが亀井文夫一人であるとも思えない。阿部マーク・ノーシスは亀井がこのような反戦ととれるような映画を撮って、「どうして無事でいられると思ったのだろう?」という問いを自ら立て、それは「他の人々も全く同じように考えていたということだ」と答えている(山形国際ドキュメンタリー映画祭2001 亀井文夫特集 パンフレット)。
 それはつまり、このような映画をトルコとは普通のことであって、むしろ検閲に引っかかったことのほうが不思議なくらいだったということだろう。そしてそれは、この映画が検閲を逃れようと工夫を凝らして作られたというよりは、素直に、思うがままに使える素材を十分に使って(多少の自主規制はあったにせよ)作られた映画だということだ。

 この映画は、映画というものが戦争とかかわる一つのかかわり方を示している。戦争と映画のかかわりについての議論に上るのはたいていの場合、その映画が戦争を推進するのか、それとも戦争に反対するのかということだ。
 これに対して、この『戦ふ兵隊』を中心とした亀井の一連の戦争ルポルタージュは戦争に賛成という表面上の意見表明は保ちながら、その実、賛成でも反対でもないという立場を暗に示す。
 では、この映画がどのように戦争とかかわっているのだろうか。基本的にこれらの映画が描くのは戦争と人間、あるいは自然との係わり合いで、戦争が人々の生活や自然にどのような影を落とすのかを描く。これはつまり、映画を見ている人々(つまり実際に戦場には行っていない人々)と戦争との係わり合いを描いたものなのである。
 戦争に対する賛成/反対を述べる映画にはその特定の戦争の評価、つまりその戦争が正義であるか否か、という価値判断が映画そのものの価値にかかわってこざるを得ない。それに対して亀井の戦争映画はより普遍的な戦争に対するかかわり方や姿勢を示すことが可能である。
 亀井がここで表明しているのは、戦争とはその戦場に住む人々や自然にとっては悲劇以外の何ものでもないということだ。それはその戦争が善であるか悪であるかという越え、戦争一般が是であるか費であるかという判断も留保し、ただ見る人それぞれにその戦争の、そして戦争一般の是非を問うているのだ。
 もちろん亀井のメッセージは「戦争は悲劇である」ということだろう。しかし、それを受け入れるかどうかは見るものに委ねられている。

北京

1938年,日本,74分
監督:亀井文夫
撮影:川口政一
音楽:江文也
出演:松井翠声(解説)

 1938年、東宝文化映画部は当時中国を侵攻していた日本軍を追ったルポルタージュを三部作として製作した。この映画はその3作目で、1作目の『上海』に続いて亀井文夫が構成・編集を担当している(第2作目の『南京』の監督は秋元憲)。
 映画の作りは基本的には『上海』と同じで、兵隊や戦場を撮るよりも、日本軍が通り過ぎた街の風景やそこに住む人々を描く。むしろ『上海』よりもさらに戦争そのものから離れてしまったような印象すら受ける。

 現存するフィルムでは、映画の最初の1巻が失われてしまったというテロップが最初に流れる。映画は紫禁城の建物や、そこに住んでいた西太后らについての解説から始まる。想像するに、1巻目には戦況の解説や北京の街についての概説が収められていたのだろう。それに続いて北京最大の建造物である紫禁城について描く。そのような構成であったと想像する。
 それは、この映画が『上海』と比べてもさらに戦争そのものについての言及が少なく、明確なものとしては終盤に登場する爆撃隊の映像くらい。それを考えると、最初にそこを抑えていたと考えざるを得ないわけだ。

 そのようなことを踏まえた上でこの映画について考えてみると、そもそも戦争というものが頭に浮かんでこない。『上海』では既存の戦争ルポルタージュの文法を逆手にとって、それとは違うものを作っているという感じがしたけれど、この映画はそもそも戦争ルポルタージュではないという気がしてくる。単純なルポルタージュで、その場所がたまたま戦場であっただけというような、そんな印象。
 特に映画の後半は、北京に住む普通の中国人たちの生活を克明に描く。わたしが一番好きなのは、糸屋とか紙屋とか床屋とかいろいろな商売の人たちが登場し紹介されるシーン、ほとんどの人は行商というか、売り物や商売道具を持って歩き回り、おそらくそれぞれの職業に特有だと思われる鳴り物で客を呼ぶ。これをとにかくいろいろな商売について紹介していく。ただそれだけのシーンなんだけれど、その商売の多様さや細分化の度合いを見ていると、それだけでそこで暮らす人々の暮らしぶりが見てくる気がする。

 まあ、それは冒頭の破壊された町の風景とは裏腹に、戦争があっても人々の暮らしは変わらず続くというメッセージであると受け取ることもできるけれど、わたしはその風景を、素朴に単純に眺め、味わいたい。この映画には、そのように感じさせるゆるりとした空気が流れている。
 そんな空気の中では、唐突に言及される爆撃隊はこの映画が戦争ルポルタージュであることを思い出させるためだけにあるような気がしてきてしまう。

上海

1938年,日本,81分
監督:亀井文夫
撮影:三木茂
音楽:飯田信夫
出演:松井翠声(解説)

 1937年、日中戦争勃発。軍部は東宝の文化映画部に働きかけ、現地での日本軍の活躍を映画として公開することにした。そうしてカメラマンの三木茂を中心にスタッフが現地に赴いて撮影を行い、監督の亀井文夫がそのフィルムを編集して一本の映画を完成させた。それがこの『上海』である。
 亀井文夫は三木茂が中国に渡る前に演出メモを渡し、従来の「行進する兵隊」のような典型的な映像ではないエレジーを感じさせる映像を撮ってくるように言ってあった。かくして、この映画はいわゆる国策映画とは違う映画となった。

 映画は上海についての説明から始まる。地図を使ってイギリスやフランスの租界、中国人街、戦場となっている場所などが説明される。それから、実際の上海の街の映像に。そこでは、映像も解説もそこが戦場であるとは感じられないということを表現する。高層ビルが建つ大都会上海、各国の国旗がはためく国際都市上海、そのようなイメージを観客につかませる。
 そこから、もっとミクロな方向へ描写は進む。中国人の抗日の動きや、それに対処する日本軍の活躍なども描くが、最も中心として描かれるのは上海の人々の暮らしだ。そこにはもちろん日本人も含まれるが、中国人も含まれる。そもそも見た目では日本人も中国人もあまり区別がつかない。しかも、松井翠声の解説は画面に映っているものをストレートに解説するのではなく、全体的な状況を語る。だから、画面に映っていることがいったいなんなのか、つまり何を伝えようとしてこのような映像を見せるのかが判然としない。
 もちろん、この映画は日本軍の活躍や偉大さや敵たちの卑小さや残酷さを伝えるために作られるべきだった。だから、この映画はその意味では失敗作といわざるを得ない。しかし、そのような意図で見られる必要がなくなった現在にこの映画を見ると、そもそも亀井文夫はそのようなことを伝えようとして映画を作っていないことが見えてくる。
 しかし、だからといって反戦とか、軍部批判とか言った攻撃的な意図から作られているわけでもない。この映画を見ていて感じるのはそれがあらゆる価値に対して中立であろうとしているということだ。どちらがいい悪いではなく、みんな人間なんだということ。大きく言ってしまえば、中国という雄大な自然の中ではみな卑小な存在に過ぎないんだということを言いたいのではないかと感じる。
 たとえば、日本軍が中国兵が閉じこもった倉庫を攻略したというエピソードを語るとき、そこに残されたパンと映画の包み紙が映され、解説ではそれが中国軍の卑小さの象徴のように語られる。しかし、その言葉はなんだか空々しく、その画面から受ける印象はむしろ、中国兵たちも生きようとしていたということだ。あるいは、日本兵たちはそれを見てうらやましかったのではなかろうかということだ。
 それは、戦争の勇猛さを伝えるのではもちろんなく、かといって戦争の悲惨さを伝えるのでもない。否定的に言えば戦争の無意味さというかむなしさを伝えるもので、あるいは戦争の日常性というか、戦争を戦っている人々というのは日常や自然とつながっているのだということ、そのようなことを伝えようとしているような気がする。

アレクサンドル・ネフスキー

Alexander Nevsky
1938年,ソ連,108分
監督:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、ドミトリー・ワリーシェフ
撮影:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、ピトートル・A・パブレンコ
音楽:セルゲイ・プロコフィエフ
出演:ニコライ・チェルカーソフ、ニコライ・オフロプコフ、ドミトリ・オルロフ

 13世紀のロシア、スウェーデン軍を破った武将アレクサンドル・ネフスキー公爵は通りかかったモンゴル軍にも名を知られる名将、漁をして平和な日々を送っていた。しかし、東からゲルマン軍が侵攻してきて、近郊のノヴゴロドに迫っていた。ノブゴロドの武将はゲルマンの大群になすすべなしとして、ネフスキー公に将となり、軍を率いてくれるように依頼する。
 勇猛果敢なロシア人の伝統を振り返り、ゲルマン人に対する抵抗を訴えたプロパガンダ映画。

 ソヴィエトにあって、その革命思想に共鳴し、人々を動員するような映画を撮りながら、それを芸術の域にまで高めていたのは、かたくななまでの映像美、特にモンタージュの秀逸さであった。そんなエイゼンシュテインがナチスの侵攻を前に、ゲルマン人に対する抵抗を人民に訴えるために撮った映画。その映画はプロパガンダ映画に堕してしまった。エイゼンシュテインはトーキーという技術によって「声」を手に入れたことで堕落してしまった。ゲルマンとローマとキリスト教を悪魔的なものとして描き、ロシアを正義として描く。完全に一方的な視点から取られた寓話は映画ではなく、ひとつの広告に過ぎない。映画をプロパガンダに利用しようという姿勢ではソヴィエトもナチスと大差ないものであったようだ。
 ロシア側を描くときにたびたび流れる「歌」、その歌詞は明確で、戦士たちの勇敢さを朗々と歌い上げるものだ。それに対して、最初にゲルマン軍が登場するときのおどろおどろしい音楽、映像の扱いには非常なセンスと気遣いをするエイゼンシュテインがここまでステレオタイプに音楽を使ってしまったのはなぜなのか、そのような疑問が頭を掠める。しかも、ゲルマン側の(おそらく)司祭は悪魔的な容貌で、悪者然としている。そのような勧善懲悪のプロパガンダ映画でしかないこの映画が、さらに救われないのは映像の鈍さである。サイレント時代のエイゼンシュテインの鋭敏さは影を潜め、説明的なカットがつながっている。音に容易にメッセージをこめることが可能になってしまったことによって、映像を研ぎ澄ますことがおろそかになってしまっているのか、その映像のつながりは鈍い。
 それでも、映像にエイゼンシュテインの感性を感じることはできる。戦闘シーン、行軍する大人数の軍隊をものすごいロングで撮ったカット。個人個人が判別できないくらい小さいそのロングショットの構図の美しさは、冒頭の湖の場面と並んでエイゼンシュテインらしさを感じさせる場面だ。しかし、それが美しいからといってこの映画のプロパガンダ性を免罪しはしない。逆に美しいからこそ、プロパガンダとしての効果が高まり、その罪も重くなるのだろう。だとするならば、この映画が映画として精彩を欠いていることは、逆にエイゼンシュテインを免罪することになるのかもしれない。

全線

Staroye i Novoye
1929年,ソ連,84分
監督:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、グレゴリー・アレクサンドロフ
脚本:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、グレゴリー・アレクサンドロフ
出演:マルファ・ラブキナ、M・イワーニン

 革命前の慣習が残る農村では、土地は相続されるためにどんどん細分化されてゆき、暮らし向きはどんどん苦しくなっていく。そんな貧農の一人マルファは馬を持たず、牛に畑を耕させるがなかなかうまくいかない。中には自分で鋤を引き、畑を耕そうとする農夫もいた。そんな現実に我慢できないマルファはソヴィエトの提案するコルホーズの組織に賛成し、積極的に参加してゆく。
 『戦艦ポチョムキン』で世界的名声をえたエイゼンシュテインの革命賛歌。

 これは一種のプロパガンダ映画で、ソヴィエトがコルホーズによって農民を組織することで、農民たちの暮らしがどれだけ楽になるかを描いたということはわざわざ書くまでもないが、それを誰に向けたのかということは問題となるかもしれない。被写体となっている農民たち自身に向けているのか、それとも革命に参加したような都市の人々に農村の問題を投げかけようとしているのか。映画を見ると、農村の人たちに向けた映画のように見えるが、上映する手段はあったのだろうか? と、考えるとむしろ都市部の人たちに向けた映画であるような気がする。あるいは、ソ連の外の人たちにも向けているかもしれない。すでに国際的な注目を集める監督であったエイゼンシュテインの作品を使って共産主義思想の浸透を図る。別に革命へ導くというまでの意図はないにしても、ソヴィエトというものがどのようなものかを教える。そしてそれが有益なものであると感じさせる。そのような意図が映画全体から見えてくる。
 そんな映画を共産主義体制が崩壊してしまった今見ること。それが意味するのは当時の意図とは異なってくる。むしろその意図を見る。映画がそのような何かを変えようという意図を持って作られるということ。そのことが重要なのかもしれないと思う。映画が産業ではなかったソ連で作られた映画を見ることは、現代にも意味を持つと思う。
 その意味はまた考えることにして、もうちょっと映画に近づいてみていくと、エイゼンシュテインのカッティングはすごい。映画前編で使われるクロース・アップの連続もすごいけれど、最初のほうでのこぎりで木を切るシーンに圧倒される。のこぎりを引くリズムに合わせて大胆に切り返される画面が作る躍動感はすごい。まさに音が聞こえる映像。画面が切り返されるたびに「ギッ」という音が聞こえてくる。ただ、これだけ細かくカットを割っていくと、どうしてもフィクショナルな印象になってしまう観があり、このような映画にはマイナスかもしれない。しかし、現在の視点からはこのエイゼンシュテインの表現はすばらしいものに見える。これだけダイナミックな映像を作り上げられるエイゼンシュテインはやっぱりすごい。

お伊勢詣り

1939年,日本,56分
監督:森一生
原作:依田義賢
脚本:依田義賢
撮影:広田晴巳
音楽:武政英策
出演:ミス・ワカナ、玉松一郎、森光子、平和ラッパ

 伊勢詣りの途上にある一軒の宿屋「伊勢屋」。そこの主人が瀕死の床に伏し、客引きは団体を呼び込むのを控えていたが、死にそうなはずの主人自ら客を入れろといってきた。主人の言いつけ通り客を入れた呼び込み。それが発端で巻き起こるどたばた騒動。
 おそらく戦時中の大衆娯楽用に作られた映画。映画という形を借りて漫才やら漫談やら芸人たちの芸を見せる。

 ミス・ワカナは玉松一郎と夫婦漫才で一時代を作ったということです。わたしは知りませんでしたが、関西圏ではかなり有名な人らしい。夫婦漫才なのに「ミス」とはこれいかに、という気もしますが、そんな細かいことは気にしない。映画に話を持っていくと、このミス・ワカナの登場シーンがそもそも玉松一郎とのシーンなわけですが、この絡むがやけに長い。普通の映画では考えられないくらい長く絡む。見ているとこの2人の絡みというのがこの映画の焦点なんだとわかってくる。つまり、ワカナ・一郎を中心とした漫才などなど上方お笑いの陳列棚。戦争で疲れている皆さんに笑いのプレゼントを。という感じ。『お伊勢詣り』と題されているけれど、それは別に伊勢でなくてもよかった。
 ということなので、この映画は当時の漫才を見る映画ということです。やはり戦争がネタになっていたりしますが、これまた当然のことながら戦争万歳日本万歳大東亜共栄圏万歳感じです。今見ると非常な違和感がありますが、こういう時代であったということはわかります。しかし、これで笑えたのだろうか?という疑問もわきます。おそらく一瞬でも戦争のつらさを忘れようと思ってみているであろうのに、わざわざ戦争をネタにする。敵を笑うネタは受けるかもしれませんが、それ以外はどうなんだろう? などなどつらつら考えます。
 ミス・ワカナについてちょっと調べました。ワカナ・一郎のコンビで活躍し、この作品が映画初主演作ということですが、戦争が終わってまもなく36歳の若さでなくなってしまったそうです。玉松一郎は二代目ミス・ワカナとコンビを組んだものの半年で解消。この二代目はもうなくなってしまいましたが後のミヤコ蝶々さん。その後さらに三代目ミス・ワカナとコンビを組んだということです。